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五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

右翼・左翼の対立から東光会の誕生

2013-01-27 04:24:16 | 五高の歴史

小山紘先生の熊日教養講座「大正デモクラシーと武夫原人生」で右翼と左翼の対立時代から東光会の誕生の話があった。今日はその話をまとめているのでそれを掲載することにした。月2回2週間ごとの講義であるので実施されたのは先週の金曜日である。ただ話を聞いただけでは面白くないのでメモしたものからまとめるので整理するのに一日以上かかってしまった。

熊日教養講座「大正デモクラシーと武夫原人脈」第8回」(2013・1・25)    右翼・左翼対立の時代――――東光会が誕生

 東光会は社会思想研究会に対抗して設立された。会員数は当初は15人くらいであった。大正14年卒業組でほとんどの生徒が黒紋付き、高下駄でいかにも壮士風であった。昭和6年の満州事変等が五高生に影響を当ててこれを組織したもので、昭和25年五高閉校まで続いた。会員総数は194名であった。

東光会は大正時代の右翼史の影響は東大の影響である。この帝大を中心とした流れが東光会が組織されたものである。これが東光会の精神である。それでは東大では?日本の右翼の学生運動の源とする興国同志会があった。零名会が新人会に対抗して旗揚げされたもので岸信介、天野辰夫、立花定、前田一、蓑田胸喜等が参加した。その指導者は上杉愼吉であった。

ここで上杉愼吉の略歴を掲げる   明治11年8月石川県生まれ、四高から東大法政治学科を卒業する。憲法学教授・天皇主権主義の穂積八束に師事し憲法を学ぶ美濃部達吉の天皇機関説を批判する。さらに吉野作造の黎明会を批判し経輪学連盟を組織し国家社会主義運動を進める。大正9年には森戸事件を画策する。

森戸事件とは森戸辰夫助教授が大正9年経済学部紀要「経済学部研究」に発表した「クロボトキンの社会思想の研究」が危険思想の宣伝であるとして新聞法42条の朝憲紊乱罪で起訴された。禁固2ヶ月罰金70円を受けた。発行人である大内兵衛助教授も禁固1ヶ月、罰金20円執行猶予2年に処された。この時の首相は山形有朋、法務大臣は原敬、検事総長は平沼騏一郎であった。

興国同志会による森戸事件は大正9年1月11日直接文部省を訪問して南次官に指揮権の発動を要請している。法学部の立花定、小原正樹、工学部の隈部一雄、経済学部の前田一、文学部の蓑田胸喜、医学部の松岡賢介、農学部阪田栄一の各部の代表が大審院の検事総長平沼騏一郎を訪ねている。森戸と大内は休職処分を受けた。1月13日に文部省は正式に休職処分を行っている。14日に起訴されている。前田一は日経連の総会で春闘名物行事、サラリーマンという造語を作っている佐賀の出身。

蓑田胸喜は八代生まれで五高から帝大法学部から文学部に転学し佐々友房や細川隆元等と同期で学士入学をしている。前田一に紹介され興国同志会に入会している。原理日本社を創立した。大内をはじめとする批判を受けた最近では蓑田胸喜の著作が読まれている。森戸助教授の糾弾時の東大総長は山川健次郎であった。山川は森戸に手直しを要求したが森戸は拒否し経済学部教授会は森戸の休職処分を行った。

1月11日以降有志が学外で活動を開始した。諸君叫んではいけない文部省からの休職処分は官立大学の現役の教授が起訴されるということは?森戸問題報告会では東大六角堂講堂で開催され7百人を超える学生が参加した。78人の守衛を動員して会場を整理した。 翌日経済学部学生大会を開き 一、興国同志会の責任を問い、公式に陳謝せしめ解散させる  一、森戸助教授の論文及び教授会の決議を論議することを決定した止むに止まれぬ正義感からであるとした。しかし興国同志会は反撃を食らうことになった。

戦果の報告は独断的的で文部省に直接直訴とは、大学生の本分ではなく上杉派と反上杉派に分裂し退会者が相次ぎ組織は自然消滅に繋がって行った。教授会を侮辱している。森戸の論文は学術論文である。しかし右翼の流れの源流として続いて行く。脱退組には岸信介や安岡正篤があったが岸は森戸の論文を評価して国家」社会主義を標榜している。前田一がこの経済学部の代表であった。蓑田胸喜は日本のマッカシーと言われた。文部省次官を訪問した時の五高卒業生では文学部代表の蓑田胸喜と経済学部代表の前田一があった。この時期に学生に大きな影響を与えた右翼の思想家は大川周明、北一輝、満川亀太郎、安岡正篤があった。

大川周明は明治19年12月6日の生まれで山形酒井市より庄内中学方五高を経て東大文科大学を卒業しインド哲学を専攻している、五高時代には栗野事件で活躍し、大正8年8月猶存社(ゆうぞんしゃ)を結成している。11月東亜経済調査局編集課長、11年3月「魂の会」結成,14年2月行地社を創立し月刊日本を創刊している。安田共済事件で北一輝と決別した。1926年の安田共済事件とは北の子分である清水行之助が血染めの着物を着て安田生命に表れて会社を威嚇したり十五銀行が財産を私利私欲に乱用していると攻撃しパンフレットを各方面に配布した。

大川は大正15年「特許植民会社制度研究」で法学博士近代日本の西欧化に対決し日本主義を唱道した。大陸政策で満鉄の幹部になって行く。北一輝の日本改造論案で影響を与えている。拓大教授時代には日本宰相論を教えた。

東大における興国同志会の分裂後は右翼の学生団体「日の会」が誕生した。日の会は猶存社が学生に影響力を抑えるために作った団体で文学部の講師であった鹿子木一信、大川周明が指導している。学生では岸信介、三浦一雄がリーダーであった。猶存社は革命日本の建設、改造運動の連絡、亜細亜民族の解放で北一輝は大川周明の呼びかけで「日本改造法案大綱」を作成、東大では日の会、拓大では魂の会、早稲田では潮の会、北大では烽火の会が生まれた。

旧制高校では五高に東光会が生まれたのは画期的であった。徳富蘇峰・中野正剛の精神を受け継ぐ五高東光会が江藤夏雄・納富貞雄・星子敏雄。園佛末吉等々で立田山の中腹龍田山荘を本拠地に生まれた。五高東光会は右翼的思想がその精神であったためか当局から睨まれることもなかったので昭和25年の閉校まで存続した。

猶存会の流れをくんだ東光会は呼びかけ人は江藤夏雄で陽明学の大家である高森良人教授を顧問に迎え納富貞雄が綱領を起案した。綱領の扁額を執筆したのは徳富蘇峰で戦時中の熊本空襲時には会員が背負って逃げたということである。この扁額は現在五高記念館の展示室に展示されている。

 綱領は本会は日本精神の真髄を体得し、東洋人としての自覚を把握し以て社会人として本然の生活に生きんことを期す。鉄則は義に当たりては一身を顧みず必ず履み行う可きこと 会員相互の間揮毫の妥協腹蔵ある可かざること

鈴木登教授の特別寄稿「東光会の生まれたころ」でメンバーを確認することが出来る。当時2年の江藤夏雄、平尾正民、納富貞雄、篠原智雄、小柳芳孝、榊原祐治,新開長英、高橋道雄、星子敏雄、太田三郎等15人を中堅として2~30名で組織されていた。本部は立田山山中の石田民次郎方ということである。

明日は私が調べている東光会の立田山の発祥の地を紹介する

 

 

 

 

 


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