火曜日には五高記念館に出た。館内見学者を見てみたところ午前中に十四名からあった。何れも県外の者ばかりであった。これは見学者名簿に名前を記載した人ばかりで、二階の展示室を二時間ばかり見学していた者もあったようである。
終戦時の昭和二十年当時の出来事を調査しているがこの中に熊本陸軍幼年学校に関する物が出て来た。昭和二十年八月三〇日で幼年学校を廃止するのでその教官の行き先を調査している物であり、出身学校、出身地、就職希望地、年齢等を調査したものであった。この教官名簿を見ればその学校のレベルも測り知れるという代物で幼年学校の程度はとても高かったようである。
見知り知ったところでは教育学部の国語、津下正章と生物の八戸正夫、両教授の名前が見られた。教官はその外に法文の文へ理学部化学へ行った人もあるようだが詳細はわからない。津下先生は国語担当で、八戸先生から生物の授業は受けたが何しろ六〇年以上の昔のことで内容等に関しては単位を取るため授業を受けたという事で今では完全に忘れている。
その昔山崎と言う先生が居られて、俺の時代にはそのお孫さんだったか体育科担当をなさっている方があった。幼年学校の資料を五高に寄付しておいたが私に対して知らないかの質問が何回か受けた事があった。その資料について「私が知って居るのであればすぐここに展示しておきますよ」と何回返事したことであったろうか?とうとうその資料を寄付されたのかその真偽はわからず仕舞であった。山崎さんお元気だろうか?心配しているこの頃である。
熊本陸軍幼年学校について熊本百科事典を転載する。「旧陸軍の士官養成学校明治二九年日清戦争の結果、陸軍は六個師団の増設、十三個師団の体制を整備するとともに東京、仙台、名古屋、大阪、広島、熊本に地方幼年学校を設けた。城内監物台に開校した。大正十四年軍縮により東京以外は廃校になった。しかし日中戦争の勃発で逐次復活した。熊本では昭和十四年城内に再び開校し十五年三月には清水の現自衛隊地に移転し第二次大戦終結まで約六〇〇人の卒業生を送り出した。」とある。
終戦時の昭和二十年当時の出来事を調査しているがこの中に熊本陸軍幼年学校に関する物が出て来た。昭和二十年八月三〇日で幼年学校を廃止するのでその教官の行き先を調査している物であり、出身学校、出身地、就職希望地、年齢等を調査したものであった。この教官名簿を見ればその学校のレベルも測り知れるという代物で幼年学校の程度はとても高かったようである。
見知り知ったところでは教育学部の国語、津下正章と生物の八戸正夫、両教授の名前が見られた。教官はその外に法文の文へ理学部化学へ行った人もあるようだが詳細はわからない。津下先生は国語担当で、八戸先生から生物の授業は受けたが何しろ六〇年以上の昔のことで内容等に関しては単位を取るため授業を受けたという事で今では完全に忘れている。
その昔山崎と言う先生が居られて、俺の時代にはそのお孫さんだったか体育科担当をなさっている方があった。幼年学校の資料を五高に寄付しておいたが私に対して知らないかの質問が何回か受けた事があった。その資料について「私が知って居るのであればすぐここに展示しておきますよ」と何回返事したことであったろうか?とうとうその資料を寄付されたのかその真偽はわからず仕舞であった。山崎さんお元気だろうか?心配しているこの頃である。
熊本陸軍幼年学校について熊本百科事典を転載する。「旧陸軍の士官養成学校明治二九年日清戦争の結果、陸軍は六個師団の増設、十三個師団の体制を整備するとともに東京、仙台、名古屋、大阪、広島、熊本に地方幼年学校を設けた。城内監物台に開校した。大正十四年軍縮により東京以外は廃校になった。しかし日中戦争の勃発で逐次復活した。熊本では昭和十四年城内に再び開校し十五年三月には清水の現自衛隊地に移転し第二次大戦終結まで約六〇〇人の卒業生を送り出した。」とある。
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