五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

栗野事件のつづき

2012-05-05 04:13:10 | 五高の歴史

これは外交官であった栗野昇太郎の父真一郎氏が、ロシア大使に任命されたことに伴い、あと一年で五高卒業という昇太郎をわざわざ一高へ転校させるために手を廻し、政府高官に圧力をかけた。その結果、文部省は省令を改正して転校を可能としたのだという。この辺の事情について一高側の展開について「向陵誌の栗野事件から」を転載する。

9月25日臨時委員会を開く、栗野昇太郎(英法3年)の転校問題に就いて福井委員旧委員の報告書を読む。此の事件に就きて委員の意見一定せず、次いで26日総代会を開く、長瀬旧委員より栗野転校問題調査結果報告あり。此問題に対し旧委員中比較的温和手段を主張するものの代表者土屋隆三立って曰く、「余は所謂何派なり。校長の失態は勿論なれども先づ責任を問はるべきものは文部当局者、栗野大使及桂西園寺両総理大臣なり。然れども余は敢へて問ふ諸君果たして其の意気ありや。また翻って三十年来の恩師たる今村校長の光栄ある歴史の最後に汚点を附するに忍びざるに非ずや。又如何に運動するとも栗野の復校するが如き事なかるべしと信ず。果たして然らば余は栗野を追はず。校長の責を問はず。唯文部省々議の撤回を以て満足するを吾々の探るべき最良の手段たるべしと信ず」と。次に強硬派委員三宅正太郎起て曰く「余は強硬なる手段を取らんとする所の者なれども事を好んで為すに非ず。抑此事件たるや、私情を混ずべきに非ず。又此事は教育の神聖に関する大問題なり。此事件たる天下の学生を軽蔑したるもの大臣の権力乱用なり。婦女子の情を容る丶は今日吾人の執るべき手段には非ざる可し」と。是より討議に遷り先づ西寮八番起て曰く。「此事件たるや南北寮事件以上の重要なる問題なり。故に余は之を穏便に解決するを能はざる処なり。且今や一高の元気如何を云々する者甚だ多き時に当りて斯る事件に対して正々堂々たる手段を執るべきものなるを信ず」。此時討議延期の動議出でしも容れられず次の議決に移る。

1、文部省令の撤回を要求するに留めんとするもの。

2、文部省令の撤回を要求し及び栗野に復校を勧告せんとするもの。

3、委員を選出せんと欲せざるもの。

4、委員を選出せんとする者。

大多数を以て2と4とに決議され七名の附託委員三宅正太郎、金井清、新井源水、大井静雄、砂糖荘一郎、翆川潔、福井利吉郎、選挙せらる。二十八日右附託委員の報告あり。佐藤荘一郎、委員調査事項書類を朗読す。二十九日第一大教場に運動部委員及寮委員の会議を開き決議せしこと次の如し。

一、転校事件に関し成る可く過激に奔らざる様委員にて注意する事、

二、転校事件に関する顛末を各組総代を集めて之に通告し之より通学生に報告せしめ他日校友一般の歩を合する時の便に供する事。

十月三日右事件に関する報告あり。委員は己に学務局長、次官大臣を歴訪して而も其志を達せざるを以て己むを得ず之を新聞紙上に発表して輿論の批評を待つ事となしたり。此日午後八時半委員は総代と会して曰く。「本日委員は報告会後校長を訪ひて事件の真相を新聞紙上に発表すべき事を告げたるに校長は自己の立脚地を定むる為猶一日の猶予を与へよとの事なり。委員は校長の真意を解せる故に之を諾したり。又二名の委員は本夕此事件を新聞紙上に発表する事に就て報告する為栗野家を訪ひたり」と。四日校長より転校事件に関する告示あり。曰く「栗野を今の儘になし置き。新聞に発表するが如き荒立たしき事を止めて此事件の解決を我輩に委任しては如何」と、同夜総代会に於て先づ委員会の意向を報告す。曰く「委員会は全然校長に信頼し、全く之に委任する事。又今日迄の事進行を新聞紙上に発表する事」質問討論の結果委員会の意向に賛成し、全然新渡戸校長に委任せり。

新渡戸稲造について 一高校長をはじめ教育者として尽力 明治36年台湾総督府臨時糖務局長と兼任で京都大学教授となり、植民政策について講義する。翌年から京都大学教授専任となり、明治39(1906)年京都大学より法学博士の学位を受け、同年、東京帝国大学農科教授と兼任するかたちで第一高等学校校長となる。大正2(1913)年退任し東大専任教授となるまでの六年間、稲造は一高校長として欧米的な自由で革新的教育方針のもと生徒を教育し結果的に、多くの立派な人材を社会に送り出している。しかし、当時は学校内外の保守的な人々から批判を受けそのため退官する事となった。明治44(1911)年には初の日米交換教授として、アメリカの大学でも講義を行ない「日米のかけ橋」の役割も確実に果たしていく。またこの頃から『婦人に勧めて』を執筆するなど当時立ち後れていた女子教育にも熱心に取り組み、大正7(1918)年 東京女子大学の初代学長としてその設立に力を尽した。
稲造の教育は一貫して「人格教育」を重視するもので、教え子たちにはコモンセンス(常識)の重要性を教えている。小学館百科事典を転載

 この転校劇は夏休み中に行われ、一高では9月の新学期が始まった時、見知らぬ奴が居るということで、様子を探って見ると情実のもとに省議決定されて、転学が許可されたことがわかったので一高の猛者連は憤慨して直ちに全国の高等学校に檄を飛ばし、各高等学校に奮起することを促した。

五高内部では一部生 柏木純一、大川周明、等は反対の急先鋒として、すぐさまこれに応じ、一高と行動を共にすることを宣言した。滝正雄や高田保馬、赤松智城等は穏健派として事態を傍観する態度であった。なお三部生は全くノンボリの無関係の態度を示したが、しかし田原鎮雄、大村一蔵、衛藤増太郎等は反対演説まで試みた。学校側は生徒の動揺を抑えるため、学内の鎮撫化に勤めたが、10月9日急進派の大川周明、柏木純一は全学生徒を武夫原の東北端に集め、「一致団結を以て当たるべし」との大演説で集まった生徒に呼びかけ魅了した。

このあたりの事情について五高側から見た対応が『習学寮史』に記載されているのでこれを転載し一高の対応と比較したい。

私共が入学して間も無いことであった。或る日上級生の人々から、「全校生武夫原に集まれ。」と達せられた。私共はそこに集まった。誰かが立ち上がったと見ると、教頭排斥の大演説が始められた。一人が終ると又一人が立った。そして全く恐るべき程の熱弁が続いた。そして全校生徒は熱狂して校長問責、教頭排斥の動議が成立した。之は誠にすざましき勢いであった。所謂栗野事件といふのがそれである。(大内兵衛「龍南の思ひ出」より)

その原因 従来の規則では、在学中の高等学校生徒は、絶対に他の高等学校への転学は許されなかった。然るに本校法科(一部)在学中の栗野昇太郎が、この年の新学期から、突然一高に転学した。而してそれは同年夏休み中の事であった。一高では、新学年開始後、見知らぬ生徒が入って来た。段々様子を探って見ると、或る情実の下に、規則まで改められて許された。その事に、先づ第一に憤慨して起ったのが、一高の猛者連であった。即ち檄を全国の高等学校に飛ばして、その奮起を要望して来た。

 その影響 これに対して、一部生は直ちに之に応じ一高と行動を共にすることになったが、三部生は始めより全然無関係の態度を取った。のみならず田原鎮雄、大村一蔵、衛藤益太郎(英法)等は、端邦館で反対演説まで試みたが、大勢には勝てなかった。また学校では、極力之が鎮撫に努め、一方、高田保馬、滝正雄、赤松智城、平井文雄等の一派は頗る穏便なる考えを以て、その間に善処する方策を講じたので、一時は沈静の色も見えたが、それも夢のままで、再び非常な勢を以て盛り返し、遂にあのような大事件までに押し進めたのは、当時勉強家として名のあった首唱者の大川周明とその参謀長ともいふべき柏木純一等の力であって、十月九日全校生徒を武夫原の当北端に集め、一致団結を以て当るべし、との演説が行われた。彼の有名な「諸君起とうではではありませんか」との熱弁は、大川が強度の近眼鏡を掛け、夏帽子片手に壇上に、突っ立ちながら、全校生徒に呼びかけて、人々を魅了させた名句であった。翌十日記念式後校長は急遽上京し文部省側と種々対策を協議した。結局本省に於いては省令の撤回は不可能なるも、その省令の適用は両関係校長に一任することとし、爾後本省は学校の内政には余り干渉せぬ。との言質を得て校長は帰任し、その旨生徒に伝達したので漸く該事件は解決するに至った。尚この騒動にて、休校二日に及んだが、三部生は一日も休まなかった。

事件の結果(桜井校長辞職,教頭,生徒監引退等々) 龍南の野を吹きまくった栗野事件勃発の三十九年も、あわただしく暮れ、翌四十年一月には、流石の桜井校長も、責任を感じて辞職された。顧みるに三十三年校長に昇任されてから、足掛け八年間、奥生徒監と共に、意を決して断行した禁酒令が禍して、生徒側の不満を招き最後に栗野事件によって、辞職の已む無きに至った桜井校長の心事、亦哀しむべきものがあったのである。校長辞職と前後して、時の文部次官澤柳政太郎は、親しく来りて、事件後の状況を視察し、その結果、渡邊教頭、伊藤生徒監の引退(伊藤先生は生徒監のみ退き、教授として居残る)となり、又これに関係ある高木俊雄、武藤虎太の両教授は、転任となって、事件はやっと終を告げた。この事件は、全国の高校中でも、実に未曾有の大事件で、それが全国の学校に及ぼした影響も、また大きかった。

この事件について『習学寮史』ではさらに「決して一時の好奇心から面白半分でやったのではない。学校の威厳を保つために。剛毅木訥の精神をどこまでも明らかにせんがために天下の学生を軽視したる大臣の私権濫用を廃せんとして、文部省を相手取った男らしい大けんかであった」と結んでいる。これは一高と五高を中心として当時の高等学校生徒が足並みを揃えた全国規模の学園紛争の走りと言える大事件であったと言えるのではなかったろうか?

 

 


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