五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

栗野事件について

2012-05-04 05:57:46 | 五高の歴史

先の熊日教養講座「五高と近代日本」で丁度栗野事件についての話があったが、五高のエピソードを調査してまとめていた栗野事件について転載して見た。講座の話の中で栗野大使がロシアとの国交断絶を通告したことは新しい情報であった。

事件は突如として起こった時は明治39年(1906)10月、事の起こりは法科一部に在学していた栗野昇太郎が、第一高等学校に転校したことである。

当時在学中の高等学校生徒は、絶対に他の高等学校への転学は許さないという規則があった。先ずこの時代の文部省、次官、専門学務局長からの通牒を列記する。

明治37年9月30日付、文部次官通達には「本省直轄学校ノ生徒ハ学校長ノ許可ヲ経ルニアラザレバ他学校ノ入学試験ヲ受クルヲ得サルコトニ省議決定相成候条右ノ趣旨ヲ学則中ニ規定スルカ若シクハ其ノ他ノ方法ニ依リ一般生徒ニ知悉セシムル様相当御措置相成度依命此段及通牒候也」とある。

学務局長通牒には「直轄諸学校ノ生徒ニシテ他学校ノ入学試験ヲ受クル件ハ今般戸実第3号ヲ以テ次官ヨリ通牒ノトオリニ有之候処高等学校生徒ニシテ其修学部類ヲ変更センカ為メニ更ニ入学試験ヲ受クルニハ右通牒ニ依リ処理セラレ可然候得共単ニ学校ノ変更ヲ目的トスルモノハ許可セラレサルコトニ致度依命此段及通牒候也」と、

続いて明治38年10月28日には「学校長ノ許可ヲ得テ他ノ学校ノ入学試験ヲ受ケタ者はソノ入試ハ無効トスル」という省令が出されている。

このように矢継ぎ早に通牒が出されているところを見ると、高等学校間において転校の希望者が多かったのだろうか?、

明治39年3月27日の「生徒転校許可取扱方ニ関スル件」として専門学務局長名で各学校長宛の通牒として次の文章が流されている。

「高等学校生徒ニシテ已ムヲ得サル事故ヲ発生シ転校セントスル者アルトキハ双方ノ学校長ニ於テ其事故大ニシテ転学ヲ止ムを得スト認メ其転入スヘキ学校ニ欠員アル場合ニ之ヲ許可セラルルモ差支エナキコトニ省議相成候条御了知相成度此段通牒候也」、更に追伸で「従前ノ通牒ニシテ本文ニ抵触スルモノハ従テ消滅ト御了知相成度為念申候也」と述べられている。

転学入すべき学校に欠員あるときは、これを許可して差支えないと文部省の転校に対する態度が軟化し、これまで、学校長の許可を受けて他校の入学試験を受けた者の入試を無効としていたことに比べれば、その態度が一変していることは一目瞭然である。これは先に栗野ロシア大使が息子の昇太郎を五高から一高へ転校させるため政府へ省令の改正をさせた事件以降、生徒の転校に対して文部省が態度を軟化させている証拠である。


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