五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

五高卒業二人の宰相について

2015-01-25 06:19:38 | 五高の歴史
池田と佐藤の時代は当時の政治の真ん中に居た人物で当時の日本の政治の本流であった。
二人は吉田茂に見込まれ昭和35年から昭和47年の政権は五高が基盤になっている。派閥の構造は池田から佐藤への政権の禅譲は五高政権の樹立であった。
この政権の誕生はドラマである。

池田勇人について
池田と佐藤の関わり合いは60年安保からで学内のデモはじめ国会への6月19日のデモでの突入は樺美智子の死などあって安保は自然成立させ政府にショックを与えた。タカ派であった岸内閣から池田内閣へ代わり池田は所得倍増論を掲げた。39年は東京オリンピックが開催された年で共同通信は政局の転換から池田首相の入院、池田の退陣で佐藤内閣の成立を見た。50年から55年にかけては政経の記者として官庁周りをさせられ、民間の安倍晋太郎から福田赳夫を取材の対象として世論では田中角栄首班であった。三木内閣が存在したがクライズ政権の三木内閣は既に死に体であった。経団連の会合では三木首相が出てきても拍手さえなく、一方福田武夫が登壇すれば、大拍手して歓迎した。次の政権を担う目前の政権が出来上がっていたが、田中角栄は政権政党として国民の不満を利用していた。50年から55年の池田、佐藤の同士政治の構造は福田内閣では参議院議員選挙で逆転し総裁予備選挙が行われた、同窓とは言え池田と佐藤はライバル意識をむき出しに政治抗争を繰り広げた。
この時期福田は大平と田中ライン連合で五島の選挙介入で大平の勝ちでこの政治抗争の中、大平は消費税を掲げた。けじめを付ける意味で主流派と反主流派に別れ大平は池田の宏池会を引き継ぎ福田は岸派、佐藤の後継者となった。
福田と大平は議場の中で決戦投票をし総理の座を争った。福田派と政和会との国盗り物語である。大平が首班になる。この時代社会党から内閣不信任案が提出され福田、中曽根,三木は第一議員会館に集まり議場には出席しなく中曽根派の懐柔、桜内政調会長のの斡旋、森喜朗、福田派は安倍を連れ出した。その結果社会党の不信任案は可決され自民党会館で遊説を行っている。派閥の首領はマグマの塊である。

五高卒業後の二人は高級官僚の道に進んだ。池田は京大法学部に入学し猛勉強をして大蔵省に入省した。宇都宮税務所長時代落葉性天疱瘡を発症し昭和6年に一旦大蔵省を退職し療養に努めた。最初の婦人は看病疲れで死去した。この難病を克服したのは現在の満江夫人の看護のお陰で満江夫人と再婚している。熊本税務監督局直税部長時代にはエピソードも残している。下村弥一は満江夫人が大蔵省事務次官へおしあげたのだと評価している。

池田と佐藤の時代は当時の政治の中枢に居た人物で当時の日本の政治の本流であった。二人は吉田茂に見込まれ昭和35年から昭和47年の政権は五高卒業が基盤になっている。派閥の構造は池田から佐藤への政権の禅譲が五高政権の樹立であった。この政権の誕生はドラマである。

佐藤栄作について
佐藤栄作の造船疑獄事件が起きる。昭和29年4月佐藤は自由党の幹事長であった

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