五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

五高記念館周辺散策

2015-01-26 05:48:14 | 自然環境
熊本大学黒髪北地区に入構した多くの見学者の皆様が構内を散策されれば、その記念碑の多さに驚かされることでしょう。
夏目漱石が明治30年十月十日の開校記念日に五高の教員総代として『夫れ教育は建国の基礎にして師弟の和塾は育英の大本たり』と祝辞を述べていますが、この文字は記念碑として構内の西側に建っています。これは祝辞としながらも日清戦争後の軽佻を批判した若者に対する格調高い漢文調で語られております。これを始めとしてそれぞれの碑は現代の若者に、いや日本国民に語りかけているようです。五高記念館の名前が続く限り、武夫原がある限り現代の教育者の心の糧になり続くことでありましょう。

館内の展示室を眺めてみますと濁世の波に思いを馳せ、若い青春を散らした五高健児の校風「質実剛健」「剛毅木訥」の教育精神をも伺い知ることが出来るでしょう。
ここでは構内に残る歴史的記念碑を紹介しましょう。まず重要文化財に指定されている正門(通称赤門)を入りサイン・カーブを通っていると、ラフカジイオ・ハーンの碑とレリーフを左手に見て、右側にある竜南健児の像が昔の気分を思い出せさます。つづいて中門を隔てて眼の前にこれも重要文化財である本館「五高記念館」が見えて来ます。このサイン・カーブの両側とも五高時代は植物園であって薬園由来の碑があります。

ここで植物園について紹介しておきます。「宝暦の改革を行った細川藩第六代藩主細川重孝は領民が天寿を全うしないで、世を去るものが多いのを哀れんで、その苦悩と不幸を救済せんが為に、宝暦六年に竹部に薬草や薬木を植えて御薬園を創設しました。これを「蕃滋園」と称して、薬物の研究や薬の製造を行っています。現在の熊本市薬園町はその名称の名残であります。薬草園は廃藩置県に伴い、細川家からその栽殖の草木は全て藤井家に下賜されました。明治20年の第五高等中学校の設立に際して、中門の左右に植物園が出来ましたが、それは主として明治二十三年「御薬園」の珍しい草や樹木、150種が保管者であった藤井家の当主歌子未亡人から寄贈されたもので、これが熊大理学部植物園の基礎担っています。今尚五高中門付近にはその往時が偲ばれる樹木が残っています。
蕃滋園の説明では以下のような文書があります。龍田山に近い建部の地に宝暦6年(1756)に開かれた七ケ所の薬草園の一つである中央薬園として経営された。開園当初の薬園は500坪余であったが、天明年間には1485坪余となり隆盛を見ている、藩主の来園も数回かあった、薬園の管理は藤井家が当り外来の薬草、薬木を始め、藩内で集められた種類も数多く植えられていた。明治の廃藩置県で廃園になって明治6年に作成された「蕃滋園植物目録」には829種が収められています。

またここ植物園には五高の漢文教授であった黒本植先生の「栽ゑておくかたみの小松色そへよ学びの園の文の林に」の碑文が刻まれています。そのほか第五高等学校跡の碑もあれいます。  
こうしてサイン・カーブを通り記念館に到達するのでありますが、右側の通路を下れば漱石の像と句碑が建っています。
記念館の右側の建物はこれも重要文化財に指定されている通称階段教室と呼ばれた化学教室があって、記念館の裏に廻れば習学寮跡の碑が見られます。
西側のグランドは、これこそが「武夫原頭に草萌えてと」歌われている武夫原運動場であります。南側の体育館の前には講道館柔道の創始者嘉納治五郎の碑が現代の若者を見守っています。  
このようにかっての五高の敷地を隅から隅まで散策すれば往時の五高の歴史を窺い知れる事でしょう。
更に北地区一番奥には昭和6年に、五高に昭和天皇の行幸がありましたがこのときの行幸を記念して「行幸記念碑」が建っています。これらの各遺蹟のキャプションを読んでいくだけでも五高六〇年の歴史を垣間見る手がかりになるのではありませんでしょうか。

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