旧制高等学校の教育精神
若い世代の人から五高記念館館内案内を頼まれ、展示室資料を説明することがある。その度に「第五高等学校というのは・・・・・・・・・・」と全ての人が、○○大学第五高等学校とか○○大学の付属高等学校とかと言う所謂現代のマスプロ高等学校と同次元で考えている人達ばかりである。一々旧制高校の歴史から説明すれば限られた時間内では無理を感じるので観光案内と云う事を全面に出し「それについてはもう一寸日本の学校制度の歴史について勉強してみませんか」と云う。熊本に第五高等学校が存在して居たということを知っている人が皆無になったということの証拠であり、五高が閉校されて既に60有余年、この学校が存在した時代からは既に孫の時代になっており、歴史の彼方の一事項として時間の経過と共に忘れ去られていく事はいたし方がないことである。しかし昨日も説明に書いたように旧制高等学校が持っていたその精神は現在の学校教育においても十分に引継がれていくべき事柄もあると思う。
ここでは五高のシンボルであったか、教育精神剛毅木訥論について由井質教授が表した説明があるのでこれを転載することにした。(tH)
剛毅木訥論 由 比 質
今茲に題して剛毅木訥論といふ以上は龍南の校風に関係しての立論たるは言うまでも無いことである。抑も剛毅木訥は我が校風中の中堅綱領である。我が校に在りし先輩が唱導し且つ実践して綿々後進に伝えし無形の一重寶である。又現に刺激しつつあるのである。凡そ我国の学校では健全なる校風樹立は極めて必要である。校風という以上は其校員全体に関係することは勿論であるが殊に生徒が校風の中堅綱領を操持することは大いに必要である。
何処の学校でも一部分の生徒は校風の振興は全然学校長職員の責務に属する様に考えているが之は依頼心多き誤謬である。生徒の自覚奮励のない所には校風の振興すべき筈がない。 第一高等学校の校風は何であるか。自治であるか。第二,第三、第四、第六、第七高等学校は如何であるか。これ等の学校に於いて我校風と相対照らすべき綱領あることを聞かないのである。今や遡って此綱領が何時から,如何にして、誰によって我が校に標榜せらるる様になったかと由来を尋ねて見たいが文書の徴すべきものもなく、校友緒先輩の回想を促しても又甚だ要領を得ないのである。尤も初代野村彦四郎氏は剛毅の権化であるかの如き硬骨ある人格を具えられ、代々賢明なる校長の適切な指導は此の綱領の育成に重大の関係あることは勿論であろう。桜井校長の如きは「剛毅の気象ち質杯の風とを以って校風としている。」と三十三年九月十二日の入学式の訓告に明言されている。
又その感化で当時を風靡されたる会津の老儒秋月葦軒翁は「剛毅木訥近仁」と言う事があるといって生徒の風尚を鼓吹されたとの事である。
「剛毅木訥」に関する字句が尤も早く見らるるものは第二号「小野記行」中」「の「木訥生」である。元来校風なる語は度々演説者又は雑誌記者によって唱えられているが愈々弐拾七年五月第二十七号に「井上文部大臣巡回」の項中始めて「天真爛漫剛毅木訥」の字句が見ゆるが之が九州の青年を指し暗に龍南の健児を指している。二十九年十月第四十九号にラフカジイーオハーン氏が「九州学生と居る」に木訥(Rugged)剛毅の気質あることを指示している。而して雑誌記者が公然校風の綱領として剛毅木訥を標榜したのは三十一年十一月第六十八号雑誌欄内に或る。又三十五年以来は盛んに唱導せられているが要するにその由来は不明である。然るに更に退いて考えてみるとその知らざる間に保育せられて来たった事か却ってその尊き所以であるかもしれぬ。元来九州民族の士風は特に剛毅木訥であるまいか。我校は九州青年の重鎮であるから九州士風の権化が剛毅木訥となって次第に校風の中堅綱領を作ったのであろうと推察される。ラフカジオハーン氏は九州精神は日本の大勢力であるといっている。吾輩は是から此綱領に就いて少しくわしく卑見を述べて見たい。
剛毅木訥とは頑固を言うのではない。融通の利かぬようになる意味でもない。粗大なる思想ではない。いたずらに弊衣破帽を得意とするものでもない。肩を怒らし大なる杖を振り横行闊歩する意でもない。是等は吾輩は論外として遠い海にでも山にでも捨てたいのである。龍南健児諸君の中には口には盛んに剛毅木訥を唱えつつも、何となく実践躬行に遠慮せらるゝの気味はないか。更に具体的に表現すれば質素は良き事なるゝ知れど、安い会費で集会を催すのは何となく「ケチ」臭いと若殿原はないか。世上一般に万時旧主義と新思想との両極端が表現されて形式上に、精神上に交々暗闘しているのである。世人の多くはその何れに適従すべきか全く迷うているのである。若しも万一にも龍南健児が一人でも此の風潮に襲われ、酔生夢死の有様で日を送っていたならば龍南思想界の危機之より大なるはなしというべきである。然らば如何なる覚悟が必要であるか。諸君は「剛毅木訥近仁」の金言を咀嚼するを望む。「剛毅木訥」の綱領とこれと必要関係して次に来るべき「近仁」の語の意味とをよく連絡して考えられんことを切望する。聊かたりとも剛毅木訥を以って陳腐とするも、斬新とするも皆これ諸君に懸かれりである。由来進化論は近世学会の一大原動力である。道徳上の原則も亦進化的に活動しなければならぬ。我国人士の頭脳から全然儒教思想を排除する事は到底不可能である。或は儒教の神髄をとって之を今日の進化的科学的基礎に置かねばならぬのである。元来剛毅木訥は主義ではない。方法である。高大遠塾なる仁道の同にも室に入るべき門戸である。資質である、準備である。
ローマを興した精神上の原因は土民の質朴剛健の気象である。ローマを滅ぼしたのも此の気象の進化を誤り遂に之を喪失した為である。龍南の学風は何時までも剛毅木訥であって健児諸君が進化、研究、力行を怠らず科学的培養を加えてならば旧式でもない、浅薄でもない、文学や、美術や音楽と相容れない事もない。遂には涅槃にも天国にも到達する事が企てられぬでもないのである。吾輩は健児諸君の理想が何時までも高、遠、大であることを望むと同時にその理想は堅実に諸君の現実と調和する様に何事も飽く迄研究的態度をとられんことを切望する。もしも諸君が日夕相唱して「その剛健の質なりて玲瓏照らす人の道」とか「思は馳する木訥の流風薫る銀杏城」とか謡ふ時にでも、剛毅は龍田山の神の宣託で木訥は清正公の霊符であると云うような無我夢中の気でいられたならば校風の振興も百年江河の清を待つのと同様であろうと考えるのである。」
この剛毅木訥とはどんな事であるか習学寮史にその理由の記載があるので、一昨年であったかそれを転記したが、改めてここに再び掲げる事にする。
どんな苦しい事が吾身に当つて来ても、それが為に屈することなく、物に負けない所が剛、事に当たって断然物を決する所が毅、これで慾に惑わされる所がない。それが為に如何なる難儀に臨んでも猶豫する所がなく、何処までも毅を以って事を断ずる。木と云うは山から伐り出した木で飾りがないこと。訥というは小人の様に悧口という方でない。言も成るべく控え目にして、成るべく言はうとして控える。言の巧みな所がない。小人は憚る所もなく、間違うても口に於いては巧に利く、行ひを顧みるものであるから、口に任せて言う所がある。君子は草ではない。今言った事が後に行われぬ事があってはと、後の行いを顧みるから言はうとして控える。それが自ら仁に適う所がある。
若い世代の人から五高記念館館内案内を頼まれ、展示室資料を説明することがある。その度に「第五高等学校というのは・・・・・・・・・・」と全ての人が、○○大学第五高等学校とか○○大学の付属高等学校とかと言う所謂現代のマスプロ高等学校と同次元で考えている人達ばかりである。一々旧制高校の歴史から説明すれば限られた時間内では無理を感じるので観光案内と云う事を全面に出し「それについてはもう一寸日本の学校制度の歴史について勉強してみませんか」と云う。熊本に第五高等学校が存在して居たということを知っている人が皆無になったということの証拠であり、五高が閉校されて既に60有余年、この学校が存在した時代からは既に孫の時代になっており、歴史の彼方の一事項として時間の経過と共に忘れ去られていく事はいたし方がないことである。しかし昨日も説明に書いたように旧制高等学校が持っていたその精神は現在の学校教育においても十分に引継がれていくべき事柄もあると思う。
ここでは五高のシンボルであったか、教育精神剛毅木訥論について由井質教授が表した説明があるのでこれを転載することにした。(tH)
剛毅木訥論 由 比 質
今茲に題して剛毅木訥論といふ以上は龍南の校風に関係しての立論たるは言うまでも無いことである。抑も剛毅木訥は我が校風中の中堅綱領である。我が校に在りし先輩が唱導し且つ実践して綿々後進に伝えし無形の一重寶である。又現に刺激しつつあるのである。凡そ我国の学校では健全なる校風樹立は極めて必要である。校風という以上は其校員全体に関係することは勿論であるが殊に生徒が校風の中堅綱領を操持することは大いに必要である。
何処の学校でも一部分の生徒は校風の振興は全然学校長職員の責務に属する様に考えているが之は依頼心多き誤謬である。生徒の自覚奮励のない所には校風の振興すべき筈がない。 第一高等学校の校風は何であるか。自治であるか。第二,第三、第四、第六、第七高等学校は如何であるか。これ等の学校に於いて我校風と相対照らすべき綱領あることを聞かないのである。今や遡って此綱領が何時から,如何にして、誰によって我が校に標榜せらるる様になったかと由来を尋ねて見たいが文書の徴すべきものもなく、校友緒先輩の回想を促しても又甚だ要領を得ないのである。尤も初代野村彦四郎氏は剛毅の権化であるかの如き硬骨ある人格を具えられ、代々賢明なる校長の適切な指導は此の綱領の育成に重大の関係あることは勿論であろう。桜井校長の如きは「剛毅の気象ち質杯の風とを以って校風としている。」と三十三年九月十二日の入学式の訓告に明言されている。
又その感化で当時を風靡されたる会津の老儒秋月葦軒翁は「剛毅木訥近仁」と言う事があるといって生徒の風尚を鼓吹されたとの事である。
「剛毅木訥」に関する字句が尤も早く見らるるものは第二号「小野記行」中」「の「木訥生」である。元来校風なる語は度々演説者又は雑誌記者によって唱えられているが愈々弐拾七年五月第二十七号に「井上文部大臣巡回」の項中始めて「天真爛漫剛毅木訥」の字句が見ゆるが之が九州の青年を指し暗に龍南の健児を指している。二十九年十月第四十九号にラフカジイーオハーン氏が「九州学生と居る」に木訥(Rugged)剛毅の気質あることを指示している。而して雑誌記者が公然校風の綱領として剛毅木訥を標榜したのは三十一年十一月第六十八号雑誌欄内に或る。又三十五年以来は盛んに唱導せられているが要するにその由来は不明である。然るに更に退いて考えてみるとその知らざる間に保育せられて来たった事か却ってその尊き所以であるかもしれぬ。元来九州民族の士風は特に剛毅木訥であるまいか。我校は九州青年の重鎮であるから九州士風の権化が剛毅木訥となって次第に校風の中堅綱領を作ったのであろうと推察される。ラフカジオハーン氏は九州精神は日本の大勢力であるといっている。吾輩は是から此綱領に就いて少しくわしく卑見を述べて見たい。
剛毅木訥とは頑固を言うのではない。融通の利かぬようになる意味でもない。粗大なる思想ではない。いたずらに弊衣破帽を得意とするものでもない。肩を怒らし大なる杖を振り横行闊歩する意でもない。是等は吾輩は論外として遠い海にでも山にでも捨てたいのである。龍南健児諸君の中には口には盛んに剛毅木訥を唱えつつも、何となく実践躬行に遠慮せらるゝの気味はないか。更に具体的に表現すれば質素は良き事なるゝ知れど、安い会費で集会を催すのは何となく「ケチ」臭いと若殿原はないか。世上一般に万時旧主義と新思想との両極端が表現されて形式上に、精神上に交々暗闘しているのである。世人の多くはその何れに適従すべきか全く迷うているのである。若しも万一にも龍南健児が一人でも此の風潮に襲われ、酔生夢死の有様で日を送っていたならば龍南思想界の危機之より大なるはなしというべきである。然らば如何なる覚悟が必要であるか。諸君は「剛毅木訥近仁」の金言を咀嚼するを望む。「剛毅木訥」の綱領とこれと必要関係して次に来るべき「近仁」の語の意味とをよく連絡して考えられんことを切望する。聊かたりとも剛毅木訥を以って陳腐とするも、斬新とするも皆これ諸君に懸かれりである。由来進化論は近世学会の一大原動力である。道徳上の原則も亦進化的に活動しなければならぬ。我国人士の頭脳から全然儒教思想を排除する事は到底不可能である。或は儒教の神髄をとって之を今日の進化的科学的基礎に置かねばならぬのである。元来剛毅木訥は主義ではない。方法である。高大遠塾なる仁道の同にも室に入るべき門戸である。資質である、準備である。
ローマを興した精神上の原因は土民の質朴剛健の気象である。ローマを滅ぼしたのも此の気象の進化を誤り遂に之を喪失した為である。龍南の学風は何時までも剛毅木訥であって健児諸君が進化、研究、力行を怠らず科学的培養を加えてならば旧式でもない、浅薄でもない、文学や、美術や音楽と相容れない事もない。遂には涅槃にも天国にも到達する事が企てられぬでもないのである。吾輩は健児諸君の理想が何時までも高、遠、大であることを望むと同時にその理想は堅実に諸君の現実と調和する様に何事も飽く迄研究的態度をとられんことを切望する。もしも諸君が日夕相唱して「その剛健の質なりて玲瓏照らす人の道」とか「思は馳する木訥の流風薫る銀杏城」とか謡ふ時にでも、剛毅は龍田山の神の宣託で木訥は清正公の霊符であると云うような無我夢中の気でいられたならば校風の振興も百年江河の清を待つのと同様であろうと考えるのである。」
この剛毅木訥とはどんな事であるか習学寮史にその理由の記載があるので、一昨年であったかそれを転記したが、改めてここに再び掲げる事にする。
どんな苦しい事が吾身に当つて来ても、それが為に屈することなく、物に負けない所が剛、事に当たって断然物を決する所が毅、これで慾に惑わされる所がない。それが為に如何なる難儀に臨んでも猶豫する所がなく、何処までも毅を以って事を断ずる。木と云うは山から伐り出した木で飾りがないこと。訥というは小人の様に悧口という方でない。言も成るべく控え目にして、成るべく言はうとして控える。言の巧みな所がない。小人は憚る所もなく、間違うても口に於いては巧に利く、行ひを顧みるものであるから、口に任せて言う所がある。君子は草ではない。今言った事が後に行われぬ事があってはと、後の行いを顧みるから言はうとして控える。それが自ら仁に適う所がある。
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