五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

栗野事件について復習する

2011-08-06 03:23:00 | 五高の歴史
栗野事件について
事件は突如として起こった時は明治39年(1906)10月、事の起こりは法科一部乙組に在学していた栗野昇太郎が家庭の事情で第一高等学校に転校したことである。
当時在学中の高等学校生徒は、絶対に他の高等学校への転学は許さないという規則があった。先ずこの時代の文部省、次官、専門学務局長からの通達を列記してみる。
 
明治37年9月30日付、文部次官通達には「本省直轄学校ノ生徒ハ学校長ノ許可ヲ経ルニアラザレバ他学校ノ入学試験ヲ受クルヲ得サルコトニ省議決定相成候条右ノ趣旨ヲ学則中ニ規定スルカ若シクハ其ノ他ノ方法ニ依リ一般生徒ニ知悉セシムル様相当御措置相成度依命此段及通牒候也」とある。学務局長通牒には「直轄諸学校ノ生徒ニシテ他学校ノ入学試験ヲ受クル件ハ今般戸実第3号ヲ以テ次官ヨリ通牒ノトオリニ有之候処高等学校生徒ニシテ其修学部類ヲ変更センカ為メニ更ニ入学試験ヲ受クルニハ右通牒ニ依リ処理セラレ可然候得共単ニ学校ノ変更ヲ目的トスルモノハ許可セラレサルコトニ致度依命此段及通牒候也」と、
続いて明治38年10月28日には「学校長ノ許可ヲ得テ他ノ学校ノ入学試験ヲ受ケタ者はソノ入試ハ無効トスル」という省令が出されている。
このように矢継ぎ早に通知が出されているところを見ると、各高等学校間において転校の希望者が多かったのか、
明治39年3月27日の「生徒転校許可取扱方ニ関スル件」として専門学務局長名で各学校長宛の通牒として次の文章が流されている。「高等学校生徒ニシテ已ムヲ得サル事故ヲ発生シ転校セントスル者アルトキハ双方ノ学校長ニ於テ其事故大ニシテ転学ヲ止ムを得スト認メ其転入スヘキ学校ニ欠員アル場合ニ之ヲ許可セラルルモ差支エナキコトニ省議相成候条御了知相成度此段通牒候也」、更に追伸で「従前ノ通牒ニシテ本文ニ抵触スルモノハ従テ消滅ト御了知相成度為念申候也」と述べられてある。、転学入すべき学校に欠員あるときは、これを許可して差支えないと文部省の転校に対する態度が軟化し、これまで、学校長の許可を受けて他校の入学試験を受けた者の入試を無効としていたことに比べれば、その態度が軟化していることは一目瞭然である。
 
栗野事件は外交官であった栗野昇太郎の父真一郎氏が、ロシア大使に任命されたことに伴い、あと1年で五高を卒業するという昇太郎をわざわざ一高へ転校させるために手を廻し、政府高官に圧力をかけた。その結果、文部省は省令を改正して転校を可能としたのだという。この辺の事情について一高側の展開について向陵誌の栗野事件からを転載する
 
925日臨時委員会を開く、栗野昇太郎(英法3年)の転校問題に就いて福井委員旧委員の報告書を読む。此の事件に就きて委員の意見一定せず、次いで26日総代会を開く、長瀬旧委員より栗野転校問題調査結果報告あり。此問題に対し旧委員中比較的温和手段を主張するものの代表者土屋隆三立って曰く、「余は所謂何派なり。校長の失態は勿論なれども先づ責任を問はるべきものは文部当局者、栗野大使及桂西園寺両総理大臣なり。然れども余は敢へて問ふ諸君果たして其の意気ありや。また翻って三十年来の恩師たる今村校長の光栄ある歴史の最後に汚点を附するに忍びざるに非ずや。又如何に運動するとも栗野の復校するが如き事なかるべしと信ず。果たして然らば余は栗野を追はず。校長の責を問はず。唯文部省々議の撤回を以て満足するを吾々の探るべき最良の手段たるべしと信ず」と。次に強硬派委員三宅正太郎起て曰く「余は強硬なる手段を取らんとする所の者なれども事を好んで為すに非ず。抑此事件たるや、私情を混ずべきに非ず。又此事は教育の神聖に関する大問題なり。此事件たる天下の学生を軽蔑したるもの大臣の権力乱用なり。婦女子の情を容る丶は今日吾人の執るべき手段には非ざる可し」と。是より討議に遷り先づ西寮八番起て曰く。「此事件たるや南北寮事件以上の重要なる問題なり。故に余は之を穏便に解決するを能はざる処なり。且今や一高の元気如何を云々する者甚だ多き時に当りて斯る事件に対して正々堂々たる手段を執るべきものなるを信ず」。此時討議延期の動議出でしも容れられず次の議決に移る。
  1、文部省令の撤回を要求するに留めんとするもの。
2、文部省令の撤回を要求し,栗野に復校を勧告せんとするもの。
3、委員を選出せんと欲せざるもの。
4、委員を選出せんとする者。
大多数を以て2と4とに決議され七名の附託委員三宅正太郎、金井清、新井源水、大井静雄、砂糖荘一郎、翆川潔、福井利吉郎、選挙せらる。二十八日右附託委員の報告あり。佐藤荘一郎、委員調査事項書類を朗読す。二十九日第一大教場に運動部委員及寮委員の会議を開き決議せしこと次の如し。
一、転校事件に関し成る可く過激に奔らざる様委員で注意する事、
二、転校事件に関する顛末を各組総代を集めて之に通告し之より通学生に報告せしめ他日校友一般の歩を合する時の便に供する事。
十月三日右事件に関する報告あり。委員は己に学務局長、次官大臣を歴訪して而も其志を達せざるを以て己むを得ず之を新聞紙上に発表して輿論の批評を待つ事となしたり。此日午後八時半委員は総代と会して曰く。「本日委員は報告会後校長を訪ひて事件の真相を新聞紙上に発表すべき事を告げたるに校長は自己の立脚地を定むる為猶一日の猶予を与へよとの事なり。委員は校長の真意を解せる故に之を諾したり。又二名の委員は本夕此事件を新聞紙上に発表する事に就て報告する為栗野家を訪ひたり」と。四日校長より転校事件に関する告示あり。曰く「栗野を今の儘になし置き。新聞に発表するが如き荒立たしき事を止めて此事件の解決を我輩に委任しては如何」と、同夜総代会に於て先づ委員会の意向を報告す。曰く「委員会は全然校長に信頼し、全く之に委任する事。又今日迄の事進行を新聞紙上に発表する事」質問討論の結果委員会の意向に賛成し、全然新渡戸校長に委任せり。
 
この転校劇は夏休み中に行われ、一高では9月の新学期が始まった時、見知らぬ奴が居るということで、様子を探って見ると情実のもとに省議決定されて、転学が許可されたことがわかったので一高の連中は憤慨して直ちに全国の高等学校に檄を飛ばし、各高等学校に奮起することを促した。
 
五高内部では大川周明(一部甲、文)、柏木純一(一部甲、英法)等は反対の急先鋒として、すぐさまこれに応じて、一高と行動を共にすることを宣言した。滝正雄(一部乙、英法)や高田保馬(一部甲、文)、赤松智城(一部甲、文)、平井文夫()等は穏健派として事態を傍観する態度をとっている。
なお三部生は全くノンボリの無関係の態度を示したが、田原鎮雄(医)、大村一蔵(理)、衛藤増太郎(英法)等は反対演説まで試みている。このため学校側は生徒の動揺を抑えるため、学内の沈静化に勤めた。
明治39年10月9日急進派の大川周明、柏木純一は全学生徒を武夫原の東北端に集め、「一致団結を以て当たるべし」との大演説で集まった生徒に呼びかけ魅了した。
翌日記念式後桜井校長は急遽上京して文部省と前後策を協議したが、此の交渉においては省令の撤回は不可能であり、本省では其の適用は両関係校長に一任することにして以後本省においては学校の内政干渉はせぬとの言質をとり校長は帰校して此の旨を生徒に伝達したので漸くにこの事件は解決することになった。このあたりの事情について五高側から見た対応が『習学寮史』に記載されているのでこれを転載し一高の対応と比較する。
 
 私共が入学して間も無いことであった。或る日上級生の人々から、「全校生武夫原に集まれ。」と達せられた。私共はそこに集まった。誰かが立ち上がったと見ると、教頭排斥の大演説が始められた。一人が終ると又一人が立った。そして全く恐るべき程の熱弁が続いた。そして全校生徒は熱狂して校長問責、教頭排斥の動議が成立した。之は誠にすざましき勢いであった。所謂栗野事件といふのがそれである。(大内兵衛「龍南の思ひ出」より)
 
その原因 従来の規則では、在学中の高等学校生徒は、絶対に他の高等学校への転学は許されなかった。然るに本校法科(一部)在学中の栗野氏が、今年の新学期から、突然一高に転学した。而してそれは同年夏休み中の事であった。一高では、新学年開始後、見知らぬ生徒が入って来た。段々様子を探って見ると、或る情実の下に、規則まで改められて許された。その事に、先づ第一に憤慨して起ったのが、一高の猛者連であった。即ち檄を全国の高等学校に飛ばして、その奮起を要望して来た。
 
その影響 之に対して、一部生は直ちに之に応じ一高と行動を共にすることになったが、三部生は始めより全然無関係の態度を取った。のみならず田原鎮雄、大村一蔵、衛藤益太郎(英法)氏等は、端邦館で反対演説まで試みたが、大勢には勝てなかった。また学校側は、極力に鎮撫に努め、一方、高田保馬、滝正雄、赤松智城、平井文雄氏等の一派は穏便なる考えで、その間に善処する方策を講じたので、一時は沈静の色も見えたが、それも夢のままで、再び非常な勢を以て盛り返し、遂にあのような大事件までに押し進めたのは、当時勉強家として名前通っていた首唱者の大川周明氏とその参謀長とも言うべき柏木純一氏の力であって十月九日全校生徒を武夫原の東北端に集め、一致団結を以て当るべし、との演説が行われた。彼の有名な「諸君起とうではではありませんか」との熱弁は、大川氏が強度の近眼鏡を掛け、夏帽子片手に壇上に、突っ立ちながら、全校生徒に呼びかけて、人々を魅了させた名句であった。
 
翌十日開校記念式後校長は急遽上京し文部省側と種々対策を協議したが結局本省に於いては省令の撤回は不可能であった。文部省の態度はその省令の適用を両関係校長に一任することとし、今後本省は学校の内政には余り干渉せぬ。との言質を得て校長は帰任し、その旨生徒に伝達したので漸く該事件は解決するに至った。尚この騒動に際して、休校二日に及んだが、三部生は一日も休まなかった。
 
事件の結果(桜井校長辞職,教頭,生徒監引退等々) 龍南を吹きまくった栗野事件勃発の三十九年は、あわただしく暮れ、翌四十年一月には、桜井校長も、責任を感じて辞職された。顧みるに三十三年校長に昇任されてから、足掛け八年間、奥生徒監と共に、断行した禁酒令が禍して、生徒側の不満を招き最後に栗野事件に由って、辞職の已む無きに至った桜井校長の心痛は、亦哀しむべきものがあったのである。校長辞職と前後して、時の文部次官澤柳政太郎氏は、来学して、事件後の状況をつぶさに視察し、その結果、渡邊教頭、伊藤生徒監の引退(伊藤先生は生徒監のみ退き、教授として居残る)となり、又これに関係ある高木俊雄、武藤虎太の両教授は、転任となって、事件はやっと解決したのである。此の事件は、全国の高校中でも、実に未曾有の大事件で、それが全国の学校に及ぼした影響も亦大きかった
 
この事件について『習学寮史』ではさらに「決して一時の好奇心から面白半分でやったのではない。学校の威厳を保つために。剛毅木訥の精神をどこまでも明らかにせんがために天下の学生を軽視したる大臣の私権濫用を廃せんとして、文部省を相手取った男らしい大喧嘩であった」と結んでいる。これは一高と五高を中心として当時の高等学校生徒が足並みを揃えた全国規模の学園紛争の走りと言える大事件ではなかったろうか。
 
参考文献  習学寮史  向陵誌

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