小山紘先生の熊日教頭講座よりメモを中心に記載したものである
「我は我、君は君、されど仲良き」佐藤栄作がノーベル平和賞を授与した時この言葉を使った。これは五高の精神であった。最後の大学予科生として保守本流の政治家五高では佐藤栄作、池田勇人時代である。特に大正七年は、日本が大きな転換期を迎えた年で新高等学校令を公布し高等学校史上大きな足跡を残した。「男子のための高等普通教育の場」とされ大学予科は高等科 文科、理科の二科制に成り地名高が生まれた。大正8年から13年に至るまで佐賀、福岡、などの官立の地名高17校が相次いで設置されることになった。
大正7年特需景気はあったものの政府はシベリア出兵のつけを負って居た。
大正文化さまざまは小学校国語読本にハナ・ハトが作られ児童中心を標榜するものになった。7月には鈴木三重吉主宰による「赤い鳥」が創刊され、理想主義、人道主義に燃える武者小路実篤らは本物の新しき村の建設に取り掛かった。
これに対する政府の危機感は募り8月に行われた寺内内閣弾劾関西新聞記者大会を報じた朝日新聞記事「白虹日を貫けり」は新聞紙法違反となり言論弾圧の姿勢を強めた。村山竜平社長は退職して朝日の保身に回った。帝大へ入れる予科一本の時代で古典的完成の時代であった。
明治末期から旧制高校は予科一本の状態で最も安定した古典的な完成期と言われるように各学校とも独自の校風、寮風が確立し生徒は寮自治を掲げ青春を送っていた。 開校30年記念式典で式後運動会が行われている。12月26日には鹿児島で対七高野球対抗戦が行われ4対5で敗れている。大正10年の夏の試合でようやくに雪辱している。
校内では全て習学寮を中心に活動しているが熊本人は寮にはあまり顔を出していない。それが自宅からの通学が多かったので寮にはあまり入ってはいなかった
荒木万寿夫について見れば荒木は八女中学の出身で貧しいお寺の生まれであった、五高に出てきてあだ名をくくりとうせんと言われていた。授業料2円を八女のお寺の2円を七夕にして事務室に出していたからである。
細川千仭は囲碁の大家で学生時代は掛け碁で退学の処分を受けたが、囲碁の好きな白壁傑次郎教授などの尽力で五高卒業生名簿の中に記載されている。池田、春山、荒木万寿夫らの下手の横好きの碁マニアがいた。ウイークデイに文科、理科対抗囲碁大会と看板を立て熱戦を展開した。池田、荒木、春山ら九州大会で10人以上が細川を応援し細川が優勝した後細川は関西を代表するプロ棋士になった。
五高時代の池田と佐藤の場合を眺めてみる。池田と佐藤の共通の友人に下村弥一が居る。昭和40年8月17日の池田の国民葬では弔辞を読んでいる。下村は佐藤たちの臥竜窟が、下宿のちかくであるり先輩たちの仲間と共に池田らと同じクラスになり、京都大学へ池田、荒木と一諸に進学し下村は万中余所治のあとをついで応援団長になった。
◎佐藤栄作と友人たちのケースは?
佐藤栄作ら1部独法の同級生6人は大正8年10月「求道の侍6人で人間形成のための共同生活を始める」として黒髪の七軒町の長屋風の4畳半4軒長屋で合宿を始めた。ここを臥竜窟と名づけて9年12月まで続けた。そのリーダーは土倉正治であとは万仲余所治、佐藤弥、山口喬、辻恒彦、佐藤栄作、
好人物の老女が食事の世話をしてやったので彼らは天下国家を肴に談論を行い、立田山で演説会を開いた。龍南会の総務委員の改選では土倉の当選のため運動した。そして大正8年12月対七高野球戦を復活させた。―方応援団長になった万仲余所治は敗戦の責任を取り丸坊主になった。済々黌、熊本中学出身者は熊本グループと言われ新風連と言われた美作小一郎、水上長吉,伊喜見定吉、辛島文彦、高森真二等があった
◎池田勇人と友人たちのケース?
池田は1年時に落第したおかげで友人の輪が広がっている。竹を割ったような性格でなんでも率直に者を言うし、最初のとっつきは悪いが情にもろく敵を作るタイプではなかった。広島の酒造業の裕福な家庭に生まれたせいか酒飲みで成績はふるはなかったが、殴られる時など喧嘩は口でやれよと笑って済ましていた。五高時代には数多くのエピソードがあり屋台蕎麦屋事件、友人を誘って芸者遊び、細川千仭の囲碁応援等がある。
▽五高生に大きな影響を与えた沢木興道・・曹洞宗老師
明治13年三重県に生まれる。16歳で求道の道を志、養父母宅の三重から歩いて永平寺の門を叩き修行の道に入る。大正5年大慈寺僧堂講師、大慈寺を出たあと1年間熊本市内に大徹堂の参禅道場を開く、万日山に住み全国行脚する。禅の普及に努め高僧の名声が高まり昭和10年駒沢大学教授に、昭和40年12月21日死去