昭和十八年三月の春季合宿は三十一日まで連続で行われている。まず総務部主催の五日間の道場合宿の様子、いずれも教官の参加はあるが、学生の道場行は全くの自主的に行われていることは確認できた。春季合宿の日誌は明日にでも記載してみたい。
ここまで昭和十七~十八年の阿蘇道場合宿の様子の日誌を眺めてきたが何れの場合も生徒達は俺たち五高生はエリートである将来の日本の指導者である、エリートであるという態度があちこちの表現で見え見えすることが窺えることは、結局はそのエリート精神が軍国日本として戦争に駆り立てた精神そのものではなかったろうかと思われる。
昨日は学校査閲の問題を掲げたが、昭和十八年度の査閲で五高生が軍部と対立していたとか、当時在校した人の話では生徒には軍部と対立などという気はなくただそれは若気の至りであったとか、
この査閲の時に査閲官は五高生の教練態度が頭に来たのか、生徒の態度はそれ則ち学校の態度が反社会的であるとしたようで、そのため当時の配属将校はすぐに前線に転属させられている。
配属将校を引揚げて査閲官は今後の五高生は幹部候補生の試験は受けさせないと公言したとか、
配属将校を配置しなければ勿論幹部候補生の試験は受けることが出来ないが、そのため校長を始めとする関係教官の心痛ははかり知れないものがあったそうである。
いかに軍部の天下ではあったろうが、査閲官はじめとする軍は学校行政まで口を挟んでいた。
世の中は変わっても七十年後の今日でさえ、対立の対象こそ変わっても世情は大変わりしている感じがしないのは全ての人が感じる事ではあるまいか。