今日のNHKBS2『私の一冊 日本の100冊』は、福原義春さん(資生堂名誉会長)による私の一冊で、鴨長明の『方丈記』でした。
「千年も二千年もの前の人生を経験した事が、古典には書かれている。そうしたことを知っておいて自分の人生を送るのと、何も知らないで人生を始めるというのは大きく違う。そうした意味で古典は大事だし、多くの古典の中でも方丈記は図抜けていますね。」と本に対する思いを語っています。
私は、高校の古典の授業で学習しただけでしたが、冒頭の流れるような文章が印象的で、今でも覚えています。
福原義春さんは、読む年代でそれぞれ感じ方が違うので、気に入った本は何度でも読んだほうがいいとおっしゃっています。
鴨長明は、鎌倉時代の文人。出家後、57歳のときに京都洛南にある日野の方丈(四畳半)の庵で『方丈記』を書きました。日本三大随筆(枕草子・方丈記・徒然草)の一つです。前半は自身が体験した五大災害(安元の大火・治承の辻風・福原遷都・養和の飢饉・元暦の大地震)をテーマに、この世の無常とはかなさを描き、後半は、自身の家系、住環境、出家後住んだ大原山のこと、日野に移り方丈の庵を築いてからの閑寂な生活を描いています。
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ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮ぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例(ためし)なし。世の中にある人と、栖(すみか)とまたかくのごとし。・・・(中略)・・・
朝(あした)に死に、夕(ゆふべ)に生るるならひ、ただ水の泡にぞ似たりける。知らず、生れ死ぬる人、何方(いずかた)より来たりて、何方へか去る。また知らず、仮の宿り、誰(た)が為にか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。その主と栖と、無常を争ふさま、いはばあさがほの露に異ならず。或は露落ちて花残れり。残るといへども朝日に枯れぬ。或は花しぼみて露なほ消えず。消えずといへども夕を待つ事なし。
(現代語訳)
ゆく川の流れは絶えることがなく、しかもその水は前に見たもとの水ではない。淀みに浮かぶ泡は、一方で消えたかと思うと一方で浮かび出て、いつまでも同じ形でいる例はない。世の中に存在する人と、その住みかもまた同じだ。・・・(中略)・・・
朝にどこかでだれかが死ぬかと思えば、夕方にはどこかでだれかが生まれるというこの世のすがたは、ちょうど水の泡とよく似ている。私にはわからない、いったい生まれ、死ぬ人は、どこからこの世に来て、どこへ去っていくのか。またわからないのが、一時の仮の宿に過ぎない家を、だれのために苦労して造り、何のために目先を楽しませて飾るのか。その主人と住まいとが、無常の運命を争っているかのように滅びていくさまは、いわば朝顔の花と、その花につく露との関係と変わらない。あるときは露が落ちてしまっても花は咲き残る。残るといっても朝日のころには枯れてしまう。あるときは花が先にしぼんで露はなお消えないでいる。消えないといっても夕方を待つことはない。