聖書通読日記 2

2001年ペンテコステに受洗、プロテスタントのキリスト者

イザヤ書55章 つづき

2005年08月26日 | 旧約聖書日記
つづき

『6~7節は、主においてゆるしがあることを保証し、反逆者に主に帰ることを呼びかける美しい文字である。
主を尋ねよ 呼び求めよ 二つとも愛から出るよびかけである。
「呼び求める」とは、神に祈り、ねがいをすることである。
そのためには、自己の姿を正視しなければならない。
それは、悪しき者 正しからぬ人 という自己認識である。
新約聖書は、この認識に達するには聖霊の助けを必要とすることをあきらかにする。
神に帰れ、主は豊かにゆるしを与えられる これは主のあわれみによるのである。

聖書を一貫している告知は、神人関係の正常化が神のあわれみによって実現されるということである。
この背景となっていることは、神は、人間の思いをこえた思いをもっておられ、それによって人間を救いたもうということである。
思いは内部にあり、道は具体的に外にあらわれる。
神の内にあるものも、外部に実践としてあらわれるものも、人間のそれとは、異なっている。
われわれの理性によってはつかむことができないものをふくんでいる。

人間の力ではとうていできないことがある。
それは、地より物を生じさせ、食料を供給することである。
四季の変化、雨風の調節は、人の手には無い。
人のわざが中間的な役割をするにしても、すべての本源は神にある。
神のことばは、かならず効果をあらわす。神のねがいのごとくに作用し、実を結ぶ。
すなわち、人の心に作用し、真理に導く。
神のなさることは、あわれみから出てくることが民に理解されるとき、民は、喜んで、また安心して主なる神の導きに従う。』

恵み深い天の父なる神さま
どうか、自分のことを正視できるようにしてください。
自分の罪を認めることのできない者ですが、
御霊によって、罪を自覚し、罪ゆるされる者としてください。
神のもとへ立ち帰ることのできる者にしてください。
大いなる深い思いの神のみこころが、この地にもなされますように。
主イエス・キリストの御名によってお祈りします。
アーメン

ヨハネ福音書、マタイ福音書と、聖書日記を続けてきたので、
次は、マルコ福音書へ進みたいと思いますm(_ _)m

最新の画像もっと見る