久代の日記

音楽、矯正治療のこと、日々のこと等

報道特集。

2024-08-12 08:34:56 | 日記
太平洋戦争時代、子供達には徹底して軍国主義を教育で教えていたんですね。敵に勝つ事だけを教えていて、特攻も綺麗事のように教え込まれていました。子供達が見る本も全部戦争一色になっていました。飛行機に乗って敵を攻撃する事が、当たり前のように良い事のように書かれてあるのです。沖縄戦でのゲリラ戦では14歳から15歳の子供までかりだされて穴を掘って隠れて、手榴弾を持って、アメリカ人が本土に行く事を遅らせていたそうです。持っていた手榴弾が暴発してしまい、内臓をやられて亡くなって行く子もいました。負傷して歩けなくなり、病院の方すみで軍医に拳銃で殺された子もいました。同じ国の子供を殺すなんて医者じゃないと思いました。捕虜となってしゃべられるのを恐れていたようなんです。考えられないような事ばかり起きています。見ていた人が70年後に教えてくれて深層がやっとわかったのです。中学生を借り出していたんですね。人がいなくて中学生がなんの訓練もなく、説明もなく、借り出されて、拳銃を持たされて、何人もバタバタと倒れていった話は、連れて行かれた当事者が、ドキュメンタリーで話していました。人がいなくなると中学生が借りだされて行くのです。ヒットラーの時もそうでした。戦争末期になると男性がいないので、子供が駆り出されるのです。子供部隊がいました。中学生と小学校の5~6年生位だと思います。可愛い子達が全部亡くなっていきました。そして特攻隊で亡くなって行った人達の遺書や遺品を保管して展示している所が何か所かあるのですが、後継者がいない事と経費の面で存続できなくて、辞めて行く所が出てきています。その当時の特攻で亡くなって行く人達の最後の手紙です。読んでいくと何とも言えない気持ちになります。これを残して戦争を風化させてはならないと思っています。ミイシャが特攻隊が展示されている所に行き、出来た曲が「逢いたくて今」と聞いています。亡くなって人の曲なんだとは思っていました。良い曲なんですが、キイが高すぎて難しい曲でキイを下げても上手く歌えません。世界の戦争一分でも早く終わりますようにと祈ります。日本は二度と過ちを繰り返さない事が亡くなっていった方々の供養になると思っています。


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1万人の被爆者が運ばれた島。

2024-08-10 08:38:52 | 日記
NHKで放送されていました。広島から9キロ離れた所に似島があるのです。軍の検疫所でした。病原菌の拡散を防ぐ為、帰還する将兵を検査する施設でした。戦況が悪化すると1944年4月からはほとんど将兵が来なくなっていました。5千人ほどの衛生材料があり、150人ほどが駐在していました。医者も衛生兵もいたそうです。広島に原子爆弾が落ちたその日、軍より連絡あって船で負傷した人達を迎えに行って、似島まで連れてきて治療していました。船と言っても、つり船を広くした屋根なしの船です。1万人位来ています。みんな瀕死の状態で、1日~2日で亡くなって行く人がほとんどでした。ガス壊疽になっている人が多く、切断した手や足を窓に捨てていたと言うのです。しまいには一杯になり、まど枠の上にまで積み重ねられていたそうなんです。当時の絵が残っているのです。地獄絵ですね。みんなやけただれていて服は焼け肉は焼かれて、体で男女の区別がつく位だったそうです。そしてみんな水を下さいと言うのです。衛生兵が生き残れる人には水をやらないで下さいと島民に行っていたそうです。当時10歳だった人がそう証言しています。水をやるとありがとうと言って亡くなっていくそうです。死んだ軍馬を焼く焼却炉があってそこで、遺体を焼いていたそうですが、あまりにもたくさんの人達なので、間にあわず穴を掘って焼いたり、戦後ご遺体の骨がたくさん出てきていました。20日間、似島にいて、広島に戻れた人は500人だったそうです。初めて知れた事でした。昨日は長崎に原爆が落とされて日でした。二度と同じ過ちを、起こさないようにと祈るばかりです。
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ドキュメンタリー。

2024-08-09 16:46:53 | 日記
広島での原爆の日を、学校の先生が先生の単独判断で学校を休みにしていた為、家にいて助かった人のお話しでした。夏休みのはずが、中学生達がが学校に行き、倒壊した木造の家をみんなの力で運んでいたんですね。先生は広島は軍事施設が多いのにあまり被害がない事に不安を感じ、何か起こるのではないかと感が働いたようなんです。8月6日の前後休みにしていました。他の先生と言い争いになっていたようなんですが、非国民と言われてもいいと言われ、中学2年生達を休みにしていました。広島の記念館に先生が書いた手帳が残されてあり、みんな書かれてありました。学校にいた1年生達300人位はほとんど亡くなっていました。学校にいたら亡くなっていたんですね。先生のおかげで生きていると言われていました。子供達を守った先生です。1年生で一人助かっている人がいました。みんな校舎の下敷きになり、身動き取れず、煙の臭いで死を悟り、校歌を合唱していたとの事でした。生き残った方はその事を語り部として話していたそうなんでが、亡くなっています。今92歳にして家にいて助かったその方は、最後語り部として話しています。いままでは原爆ドームをみる事もいやで、崩れてくれればいいのにと思っていたそうです。そして原爆資料館に行っても気分が悪くなって出てきたと言われていました。当時の事思い出すと辛いものがあるんでしょうね。92歳でも合唱部に入っていて、とても綺麗な声の方なんです。亡くなった人達の思いが声に込められているような感じがしました。
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続き。

2024-08-07 16:21:01 | 日記
広島赤十字病院では結核で入院していた男性が下痢が続く為、赤痢を疑い、隔離病棟に移していましたが、最後は強直性の発作みたいなものが現れ、体の反り返えしが続き、口がこわばり閉まったまま開かなくなり、ベットから転げ落ち亡くなっています。原爆での被害はひどくはありませんでしたが、砂ぼこりから、土ぼこりまで病院に入ってきているので、破傷風の菌が傷づ口からはいったのではないかと言っていました。破傷風の注射をしていますが、間にあいませんでした。破傷風も怖い病気ですね。昨日が広島での原爆の日でしたので、今日のカラオケはクミコ
さんの祈りを歌いたくなり歌ってきました。貞子さんの像が足だけ残って、体誰かに持って行かれていました。2歳で被ばくして12歳まで白血病を抱えながら、懸命に生きてきた人です。貞子さんの事を歌っている「祈り」を貞子さんの気持ちになって歌って来ました。
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命の塔。

2024-08-07 14:33:14 | 日記
NHKで放送されていました。広島で原子爆弾が落とされた日、半径1.5キロの所にあった広島赤十字病院建物は鉄筋で残りましたが、中はめちゃくちゃに壊されていました。院長先生は崩れた建物の下敷きになって、助け出されましたが、7ケ骨折していました。職員さんも亡くなっています。看護学生が亡くなっていく人達を焼いていたようです。この病院にたどりついても、亡くなっていく方達が多くうめき声が響いていました。院長が赤十字を通じてスイスと連絡を取り、アメリカの承諾を得てスイスが助けてくれた国です。医療物資を送ってくれていました。そこにアメリカのGHQが入り込んできた為、医療物資はこなくなりました。GHQは治療もせず、10年位経過を見ていただけです。人体に及ぶ放射線の影響がどれほどなのか知らべたかったんだと思います。治療もしてくれず、自分達の実験材料にしていたんだと思います。人間扱いされていないのです。死刑囚の永山則夫の夫人和美さんが言っていました。あの方も不幸な人生を歩んで来られています。アメリカに渡っています。人種差別の強い国ですよね。黄色人種は黒人よりも下なんだそうです。人間扱いににされてこない状態で、何度もピストルで白人を撃ちたくなる衝動にかられたと言っていました。私はアメリカが黒人よりも黄色人種を下だと思っている国なんで、原爆を落とす事が出来たのではないかと思ってしまいます。何と言ってもアメリカが一番怖い国です。軍事費に関しても、2番から10番の軍事費のある国を入れてもダントツに軍事費が、世界一の国なんですね。驚いてしまいます。軍事産業の国です。だから拳銃はみんな持っている国ですよね。日本はアメリカの笠下にいるみたいですが、他の国がせめてきたらアメリカは助けてくれないのです。平和ぼけしないように考えていかなければならない事です。スイスは自国を守る為にみんなシェルターを持っています。責められた時を考えています。戦争から学ぶ事が出来ない人間は、何度も繰り返しています。
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