京都の琵琶湖疏水。明治の初期、若き工学博士・田辺朔郎が手がけた一大プロジェクト。琵琶湖の水を京都盆地に引っ張るという壮大な計画。その水路の一つが疏水分線で、蹴上で本流より分かれ、京都盆地の地形に逆らい北へ流れ、その途中に今回取り上げた南禅寺境内を横切る水路橋、通称「水路閣」があります。
ABCラジオ「桑原征平粋も甘いも」の木曜日、午後2時台のコーナー「征平の、私は忘れない」で先週と今週の二週に亘って、征平さんの中学時代の水泳武勇伝がありました。征平さんが中学の頃、暮らしていた京都、疏水(琵琶湖疏水のこと)の水で発電する、蹴上発電所から流れ落ちる水流に揉まれたり、その先の鴨東(おうとう)運河を動物園からの(フン混じりの)排水と一緒に泳いだり、南禅寺の疏水分線を泳ぎ、南禅寺から若王子の水路トンネルをくぐったり、嵐山の保津川で、あの急流を泳いだりと、相当な無茶振りだったそう。そして昭和30年代前半の京都市の様子が目に浮かぶ、とても興味があるお話です。
昨日の放送で、このレンガアーチ橋を観光客がカメラを向けているというお話があり、画像を出してみました。ここは三回ほど訪れており、その最初に訪問した時の画像。
通称「水路閣」と呼ばれているこの橋、1890年(明治23年)の竣工。西欧風のアーチ橋、今では文化財にもなっていますが、建設当時にも景観論で反対が多かったと聞きます。
南禅寺境内、法堂と南禅院の間を東西に約70mの橋梁です。
100年以上経った今日、レンガの色は自然に溶け込んでいるようにも思えます。後方は南禅院。
橋脚もアーチ形で整えられており、アーチが連続する様子は、正に芸術ですね。これを写す方が結構おられます。
画像撮影は、2007年2月。そんな冬の夜に出かけるモノズキはおらず、人に邪魔されずにゆっくり写せました。しかもこの日が初めて南禅寺境内に足を踏み入れたんです。この上を征平さんが泳いで行かれたわけですね。
この水路閣を越えてトンネルをくぐると若王子。流れる水は今は少ないですが、昭和30年代はとうとうと流れていたのですね。そこから先はかの有名な哲学の道といわれている、道沿いに流れます。
疏水(琵琶湖疏水)など明治の近代化遺産は、私にはとても関心のある分野です。しかし事が大き過ぎてなかなか纏められない。個別に小出しに小出しにしていくしかないかな。
この水路閣の画像は、昼間にも写しております。しかしその画像を探す時間が無くて、すいませんね、夜の画像だけで勘弁を。また昼間に上に上がった時にも、今回の夜の画像を使うかも。
この風景と言うのは、いろんな捕らえ方が出来ますね。
無粋と言えば、そうでしょうし、南禅院に溶け込んでいると言えば、そうでしょうし・・・。
それにしても、カメラを向けるには、いい対象物ですね。
この場所だったんですねぇ。
それにしても、ライトアップされてるからか、存在感ありますね。
パレット・ブルーさんも書かれてますが、確かに被写体としては心惹かれますね。
>パレット・ブルーさん
この琵琶湖疏水については、またいずれ記事にするつもりでいますが、明治の建設時期にはこのレンガ構造物もさぞや目障りな物だったでしょう。明治維新で寺社の影響度が下がったからという理由もあります。
検索で「水路閣」と入れれば、それはたくさんのページが見つかるほど、多くの方が写されています。
それと南禅院は南禅寺境内にある塔頭の一つですので、よろしく。
>テルテルさん
この橋の上を流れる水路を泳ぎ、続くトンネルをくぐったわけです。
今はチョロチョロ程度しか水が流れていませんが、以前は大量の水が流れていたのでしょうね。トンネル内で天井との空間20cmくらいという話から想像できます。
ちなみに今は、この橋など水路は水道局管理になっています。
ところで、画像は夜に写したものですが、ライトアップはやっていなかったと思います。
明るい街路灯がありましたけど、照明はそれだけ。
この画像は三脚使用の長時間露光によるものです。