今日は元旦に相応しい、晴天の清々しい日でした。
しかし、年賀状が届かない今年の正月。
理屈では分かっていても、友達を全部失ったみたいで、何だか寂しい正月でもあります。
でも、多くの友人に支えらているのが分かって、たまにはこんな正月も、良いのかもしれません・・・
今日はいつもの正月通り、午後から「東京大仏」で初詣。
そして、いつもと同じ破魔矢を買い、いつもと同じように御神籤で今年1年の占いを。
昨年と同じ小吉です。
しかも、去年と同じ“女難”の相が・・・
今年はどんなイジメ?が待っているやらです。
今夜の初夢で、せめていい夢だけは見たいものす。
昔から良い初夢の例えに“一富士二鷹三茄子”とあります。
この例えには、諸説がいろいろありますが、もし、富士山があのような綺麗なカタチの山でなかったら、例え日本一高い山でも、夢の例えに出てこなかったのでは?と思うことがあります。
日本人の美意識も、この言葉に込められているのではないでしょうか。
「ミストラル」や「Lu Mico」も、店を作る根底にあるのは“美意識”の共有です。
ひとつは“ファッション”で、もうひとつはお酒を“綺麗に飲む”美意識の共有。
そのためには、“見えるもの”は当然として、“聞こえるもの”、“匂うもの”、“触れるもの”、“味わうもの”総てに留意しなければなりません。
五感のバランスが整って、初めて“心地良い”空間と云うことになると思います。
その“美”が生活の中に、必要な事は頭で分かっていても、今まで言葉で理由を明確にすることが出来ませんでした。
たまたま、暮から音楽絡みの本を2冊読んでいたのですが、その1冊の中に“美”の果たす役割が分かるような、一文がありましたので書いてみます。
抜粋を書きます。
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それは「純粋な美の肯定」だと思っている。
人間は、やっかいな出来事に日々向かい合っているうちに、人生に澱(おり)のようなものがたまっていく。そのうちにネガティブな感情を抱くこともあるし、この世に生れ落ちたという奇跡に対する感謝と感激の念をすっかり忘れてしまうこともある。
それでも、人間は、時折、まるで一つの啓示のように地上に風雅な光景を誕生させることがある。あたかも、重力の魔から一時的に開放されたような、そこにのみ性質の異なる光が天上から差し照らしているような、奇跡のような空間の広がり。
ザルツブルクの旧市街で私を包んだのは、そのような街並みだった。
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絵や文学であり、音楽であり、ファッションであり、建造物や街並みであり、そして美味しいものもそうだと思うのですが、“美しいもの”に接すると、日々の生活でたまった澱(おり)のようなものが、消える感覚があります。
美しい振る舞いの人に、接するのもそうでした。
どんなにお洒落で綺麗な人でも、道端に平気でゴミを捨てる人に、一番の嫌悪感を覚えるのも、そうした理由だったからかもしれません。
ひとりひとりの美意識の醸成が“文化”につながり、“文化”を根底に持つ地域や国が、繁栄するものだと思います。
“文明”だけで成り立つ国に待っているのは、“荒廃”だけのような気がします。
さて、私の初夢に“富士山”は出てくるでしょうか・・・
しかし、年賀状が届かない今年の正月。
理屈では分かっていても、友達を全部失ったみたいで、何だか寂しい正月でもあります。
でも、多くの友人に支えらているのが分かって、たまにはこんな正月も、良いのかもしれません・・・
今日はいつもの正月通り、午後から「東京大仏」で初詣。
そして、いつもと同じ破魔矢を買い、いつもと同じように御神籤で今年1年の占いを。
昨年と同じ小吉です。
しかも、去年と同じ“女難”の相が・・・
今年はどんなイジメ?が待っているやらです。
今夜の初夢で、せめていい夢だけは見たいものす。
昔から良い初夢の例えに“一富士二鷹三茄子”とあります。
この例えには、諸説がいろいろありますが、もし、富士山があのような綺麗なカタチの山でなかったら、例え日本一高い山でも、夢の例えに出てこなかったのでは?と思うことがあります。
日本人の美意識も、この言葉に込められているのではないでしょうか。
「ミストラル」や「Lu Mico」も、店を作る根底にあるのは“美意識”の共有です。
ひとつは“ファッション”で、もうひとつはお酒を“綺麗に飲む”美意識の共有。
そのためには、“見えるもの”は当然として、“聞こえるもの”、“匂うもの”、“触れるもの”、“味わうもの”総てに留意しなければなりません。
五感のバランスが整って、初めて“心地良い”空間と云うことになると思います。
その“美”が生活の中に、必要な事は頭で分かっていても、今まで言葉で理由を明確にすることが出来ませんでした。
たまたま、暮から音楽絡みの本を2冊読んでいたのですが、その1冊の中に“美”の果たす役割が分かるような、一文がありましたので書いてみます。
抜粋を書きます。
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それは「純粋な美の肯定」だと思っている。
人間は、やっかいな出来事に日々向かい合っているうちに、人生に澱(おり)のようなものがたまっていく。そのうちにネガティブな感情を抱くこともあるし、この世に生れ落ちたという奇跡に対する感謝と感激の念をすっかり忘れてしまうこともある。
それでも、人間は、時折、まるで一つの啓示のように地上に風雅な光景を誕生させることがある。あたかも、重力の魔から一時的に開放されたような、そこにのみ性質の異なる光が天上から差し照らしているような、奇跡のような空間の広がり。
ザルツブルクの旧市街で私を包んだのは、そのような街並みだった。
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絵や文学であり、音楽であり、ファッションであり、建造物や街並みであり、そして美味しいものもそうだと思うのですが、“美しいもの”に接すると、日々の生活でたまった澱(おり)のようなものが、消える感覚があります。
美しい振る舞いの人に、接するのもそうでした。
どんなにお洒落で綺麗な人でも、道端に平気でゴミを捨てる人に、一番の嫌悪感を覚えるのも、そうした理由だったからかもしれません。
ひとりひとりの美意識の醸成が“文化”につながり、“文化”を根底に持つ地域や国が、繁栄するものだと思います。
“文明”だけで成り立つ国に待っているのは、“荒廃”だけのような気がします。
さて、私の初夢に“富士山”は出てくるでしょうか・・・