子どもが邪魔みたいな
職場の人に、妹に子どもが生まれた事を言ったら、『良かったね』と言ってくれた。
それは、普通だと思う。「普通そうだよね」と思う。
なんか、『子どもは、邪魔』みたいな。
母親と同居していて、離婚した妹が、子どもを連れて一緒に住んでいて、『姪っ子の面倒をみるのが、辛い』『子どもがいない、家がうらやましい』って何、と思う。
低所得者の家庭が、学力が低いと言われているのも。『子どもが可愛い』と思っていないからではないかと思ってしまう。
『勉強、勉強』言っていたら、勉強するものではないよね、と。
『塾に行かせさえすれば、成績が上がるのだ』という考えが、塾に行っても、子どもの成績が上がらない理由なのに、と思う。
本当は、子どもに対する愛、『分からない事があるので教えて』に付き合ってあげられる愛が、子供の成績を上げる方法なのに。
『分からなくても』愛してあげる。それが、子どもの成績を上げる方法なのに。
子どもって、変な所で、引っかかるが。それに付き合ってあげることが、愛で、それが、子どもの成績を上げる方法なのに。
何か、『子ども邪魔』で、『保育所に入れて』『働く事に、まい進する事が、正しい事なのだ』という考えを言う人達がいて。
でも、私の幼稚園の時の、出席みたら、いっぱい休んでいるのだけれども。
『子どもが休むのに』付き合ってあげるのも、大事だよね。
そんなに、イライラしないで。
何か、『これでないとダメ』みたいな。
『正義は一つでないとダメ』みたいな。
「マラソンで、一番を争う事も正しいのかも知れないけれども。子どもの寄り道に、付き合ってはいけないのか」と思う。
アメリカもそんなに正しい国ではないよね。育児休暇がない、有給の、の国なのだから。
『個人が責任を取る』という考えは良くないと思う。
みんなで、助け合えば良いのに。
職場の人達にも良い所はある。子どもの事を、『可愛い、可愛い』と言っている。
何で、『子どもは、邪魔』みたいな考え方の人達がいるのだろう。
そして、『子どもは無視して、働く事を頑張れ』という人達がいるのだけれども。
別にそれは、それで、正しいのかも知れないけれども。「子どもの寄り道に付き合ってはいけないのか」と。
(続き)
アフガニスタンに旅行に行った人が、『ゲイの息子の事を、「お前が死ねば良かったのに」と言っている人がいる。で、そのゲイの人に会いに行ったら、『兄に殺されそうになったので、殺されないように、殺した』』と。
自分の息子に対して、『お前が死ねば良かったのに』も酷いけれども。自分の息子に、自分の兄弟を殺させるのも、ひどいと思う。
そんなに、アフガニスタンって、良い国ではないよね。
その、話を書いていた人は、アフガニスタンの人に同情的に書いてあったが。
科学そのものは、ネガティブではなくて。
科学で、何をするかが、問題だよね。
実際、発展途上国(?)、イスラム教とか、インドで、女性に塩酸を、掛けて、顔を傷つける事件が、いっぱい起きているのだから。
塩酸なんて、入手するのは、日本でも、簡単だと思う。
ほとんど全ての日本人が、塩酸をそういう使い方をしないだけで。
(続き)
結構、強い口調で書いているような気がするが。
「自分にとって、都合の良い事だけを、受け入れて、都合の悪い事を、受け入れない、態度、考えを止めろ」と。
大勢の人達が、宗教の言う事を聞いて、自分の感じている事に従わない。
それこそが、過ちなのに。
理論を聞いて、自分の感情に聞かない。
「自分として、どう感じるのか」を聞かないで、宗教の言う事を聞く。
それが、過ちの原因なのに。
『僕は良い子だぞ』。
正しい判断だと思う。
「自分の、善性を信じる事が、大事」だと。
それが、例え、世間や、宗教の言う事と違っていたとしても。
宗教は、『他の宗教は認めない』という。
例え認めたとしても、『他の宗教団体に行ってはいけない』という。
キリスト教会とかでは、『他の支部に行ってはいけない』という。
何で、色んな人の意見を聞いてはいけないのか、と思う。
日本は、他の寺に行っても良いし、他の神社に行っても、良いが。
キリスト教会は、ダメだと言う。
「使えそうと思うなら、ミトコンドリアの話でも、引用するよ」と思う。
『相対性の中で、自己を定義する、試み』なのだから。
悪魔でも、キリストでも、全部、話だけ、聞けば良いのに、と思う。
それを、信じるかどうかは別として。
一応、脳に、インプット(入れる)する。それが、いつ、出てくるかは、分からないが。
(続き)
国際NGO団体の、『継続した、支援をお願いします』は、間違っている、と思う。
人は、いつだって、自由に、選択する権利があるのに。
『変化は、安定した定数』。
NGO団体が支持されなくなったとしても、それは、正しい事なのに。
『継続した、支援をお願いします』というのは、一種の、宗教だと思う。
『共産主義は、宗教だ』と書いていた人がいたが。
結局、人は、何かを信じているのでしょうね。
例え、その人が、『自分は、客観的である』と信じていたとしても。
自殺の問題を、『どうでも、良い問題』と考えるのも、私から見たら、非常に宗教的に、思えるが。
(続き)
どうして『これは、受け入れるけど。あれは、受け入れない』と言うのだろう。
“これ”も“あれ”も世界の一部なのに。
“これ”を受け入れて、“あれ”を受け入れないという事は、世界の一部を受け入れないと言う事なのに。
なんで、『私の道は唯一の道ではなく、一つの道に過ぎない』と言ったら、スピリチャルに重大な宣言になるのだろう。
「当たり前の事ではないか」と思う。
自分一人で、全ての事が、分かる訳ではないのに。
たった一人のエジソンしかいない社会より、大勢のエジソンがいる社会の方が、良いよね。
何で、そんな簡単な事を言う事が、スピリチュアルに重大な発言になるのだろう。
私達は、世界の一つのピース(かけら)に過ぎないかも知れないけれども。それで、完璧なのに。
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職場の人に、妹に子どもが生まれた事を言ったら、『良かったね』と言ってくれた。
それは、普通だと思う。「普通そうだよね」と思う。
なんか、『子どもは、邪魔』みたいな。
母親と同居していて、離婚した妹が、子どもを連れて一緒に住んでいて、『姪っ子の面倒をみるのが、辛い』『子どもがいない、家がうらやましい』って何、と思う。
低所得者の家庭が、学力が低いと言われているのも。『子どもが可愛い』と思っていないからではないかと思ってしまう。
『勉強、勉強』言っていたら、勉強するものではないよね、と。
『塾に行かせさえすれば、成績が上がるのだ』という考えが、塾に行っても、子どもの成績が上がらない理由なのに、と思う。
本当は、子どもに対する愛、『分からない事があるので教えて』に付き合ってあげられる愛が、子供の成績を上げる方法なのに。
『分からなくても』愛してあげる。それが、子どもの成績を上げる方法なのに。
子どもって、変な所で、引っかかるが。それに付き合ってあげることが、愛で、それが、子どもの成績を上げる方法なのに。
何か、『子ども邪魔』で、『保育所に入れて』『働く事に、まい進する事が、正しい事なのだ』という考えを言う人達がいて。
でも、私の幼稚園の時の、出席みたら、いっぱい休んでいるのだけれども。
『子どもが休むのに』付き合ってあげるのも、大事だよね。
そんなに、イライラしないで。
何か、『これでないとダメ』みたいな。
『正義は一つでないとダメ』みたいな。
「マラソンで、一番を争う事も正しいのかも知れないけれども。子どもの寄り道に、付き合ってはいけないのか」と思う。
アメリカもそんなに正しい国ではないよね。育児休暇がない、有給の、の国なのだから。
『個人が責任を取る』という考えは良くないと思う。
みんなで、助け合えば良いのに。
職場の人達にも良い所はある。子どもの事を、『可愛い、可愛い』と言っている。
何で、『子どもは、邪魔』みたいな考え方の人達がいるのだろう。
そして、『子どもは無視して、働く事を頑張れ』という人達がいるのだけれども。
別にそれは、それで、正しいのかも知れないけれども。「子どもの寄り道に付き合ってはいけないのか」と。
(続き)
アフガニスタンに旅行に行った人が、『ゲイの息子の事を、「お前が死ねば良かったのに」と言っている人がいる。で、そのゲイの人に会いに行ったら、『兄に殺されそうになったので、殺されないように、殺した』』と。
自分の息子に対して、『お前が死ねば良かったのに』も酷いけれども。自分の息子に、自分の兄弟を殺させるのも、ひどいと思う。
そんなに、アフガニスタンって、良い国ではないよね。
その、話を書いていた人は、アフガニスタンの人に同情的に書いてあったが。
科学そのものは、ネガティブではなくて。
科学で、何をするかが、問題だよね。
実際、発展途上国(?)、イスラム教とか、インドで、女性に塩酸を、掛けて、顔を傷つける事件が、いっぱい起きているのだから。
塩酸なんて、入手するのは、日本でも、簡単だと思う。
ほとんど全ての日本人が、塩酸をそういう使い方をしないだけで。
(続き)
結構、強い口調で書いているような気がするが。
「自分にとって、都合の良い事だけを、受け入れて、都合の悪い事を、受け入れない、態度、考えを止めろ」と。
大勢の人達が、宗教の言う事を聞いて、自分の感じている事に従わない。
それこそが、過ちなのに。
理論を聞いて、自分の感情に聞かない。
「自分として、どう感じるのか」を聞かないで、宗教の言う事を聞く。
それが、過ちの原因なのに。
『僕は良い子だぞ』。
正しい判断だと思う。
「自分の、善性を信じる事が、大事」だと。
それが、例え、世間や、宗教の言う事と違っていたとしても。
宗教は、『他の宗教は認めない』という。
例え認めたとしても、『他の宗教団体に行ってはいけない』という。
キリスト教会とかでは、『他の支部に行ってはいけない』という。
何で、色んな人の意見を聞いてはいけないのか、と思う。
日本は、他の寺に行っても良いし、他の神社に行っても、良いが。
キリスト教会は、ダメだと言う。
「使えそうと思うなら、ミトコンドリアの話でも、引用するよ」と思う。
『相対性の中で、自己を定義する、試み』なのだから。
悪魔でも、キリストでも、全部、話だけ、聞けば良いのに、と思う。
それを、信じるかどうかは別として。
一応、脳に、インプット(入れる)する。それが、いつ、出てくるかは、分からないが。
(続き)
国際NGO団体の、『継続した、支援をお願いします』は、間違っている、と思う。
人は、いつだって、自由に、選択する権利があるのに。
『変化は、安定した定数』。
NGO団体が支持されなくなったとしても、それは、正しい事なのに。
『継続した、支援をお願いします』というのは、一種の、宗教だと思う。
『共産主義は、宗教だ』と書いていた人がいたが。
結局、人は、何かを信じているのでしょうね。
例え、その人が、『自分は、客観的である』と信じていたとしても。
自殺の問題を、『どうでも、良い問題』と考えるのも、私から見たら、非常に宗教的に、思えるが。
(続き)
どうして『これは、受け入れるけど。あれは、受け入れない』と言うのだろう。
“これ”も“あれ”も世界の一部なのに。
“これ”を受け入れて、“あれ”を受け入れないという事は、世界の一部を受け入れないと言う事なのに。
なんで、『私の道は唯一の道ではなく、一つの道に過ぎない』と言ったら、スピリチャルに重大な宣言になるのだろう。
「当たり前の事ではないか」と思う。
自分一人で、全ての事が、分かる訳ではないのに。
たった一人のエジソンしかいない社会より、大勢のエジソンがいる社会の方が、良いよね。
何で、そんな簡単な事を言う事が、スピリチュアルに重大な発言になるのだろう。
私達は、世界の一つのピース(かけら)に過ぎないかも知れないけれども。それで、完璧なのに。
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