不幸になるのは、簡単なのだ。
不幸になるのに、何の、善行も必要ない。幸福になるには、善行が必要であるが、と。
アメリカで、イスラムを侮辱した、映画が作られた、とか言って、イスラム教徒の人達が、過激な抗議運動をしている。
でも、その映画とは、10分ぐらいの、映画とは呼べない代物で。誰が作ったのかも、分からないような映画らしい。(映画の作者だと言って名乗りを上げた人が、『お前はユダヤ系アメリカ人じゃないだろう』と言われているらしいので。)
これが、大手の映画会社が、発給した、映画なら、抗議する気持ちは分からなくもないが。アメリカ人からすれば、アメリカは“自由の国”である。3億も人口がいれば、そういう事をする人は、当然いると考えるであろう。なんせ、何十人もに対して、銃を乱射する人も、いっぱいいる国なのだからして。
どちらが罪は重いか。普通のアメリカ人、いや、アメリカ人でなくても、『何十人もの人に対して、銃を乱射した人の行為の方が、悪い』というであろう。それは、常識的意見だと思う。人としても、本来そうあるべきではないか。にも関わらず、イスラム教徒の人達は、過激な、抗議行動をする。これを見た普通の、非イスラム教徒の人達は思うであろう。『やはり、イスラム教徒は、頭がおかしい』と。
生活保護の人達が、ワーキングプアの人達より、豊かな生活を送れるのは、間違っていると思う。
時間に対して、ルーズな人がいる。
豊かさを得るには、善行が必要である。時間にルーズな人が、豊かさを得る事は難しい。
お金に対して、ルーズな人がいる。お金に対して、ルーズな人が、貯金をするのは、難しい。
お金があれば、あるだけ、使ってしまう人がいる。そして、『お金がない、お金がない』と言う。でも、普通の人から見れば、『あるだけお金を使う態度で、お金に対して、ゆとりある生活なんて、出来るはずがない』と思う。そして、友達も離れていく。で、『私は不幸なのです』と言って、誰が信じてくれるというのであろうか、と思う。
辞表をたたきつけて会社を辞めるのは、簡単な事である。何の努力もいらない。でも、『学校卒業後、定年まで同じ会社で働きました』というのは、やっぱり、偉大な事だと思う。
『大人は、そうして、日々戦っているのです』と書いていた人がいたと思うが。
「甘えた意見を言うのは、大概にしろよ」と言いたくなる人がいる。で、生活保護を受けながら、愚痴を言う。
底辺の人間とは、金銭的に苦しい事生活の事ではなく。『皆そういう所を乗り越えて頑張っているのだよ』と言う事が、分からない人達の事だと思う。
そりゃ誰だって、働かずに、お金を貰えるなら、それ以上に楽な事はないと思う。でも、幸せに生きていこうと思えば。『待ち合わせの10分前には、待ち合わせの場所に着くような努力をして』『収入がある分だけ使うのではなく、将来の為に貯蓄をして』、そういう考えを持って生きていかなくてはならない。それが、まともな人としての道というものではないのか。
世間的ルールというものがあると思う。
『殺人をしてはいけませんよ』『人に対して、暴力を振ってはいけませんよ』とかいうのは、“当たり前のルール”ではないのか。それを、イスラム教徒の人達は、『あの映画を、作る事を許したアメリカ人はすべて悪だ』と言う。暴力は自己の側にあるのに。それを、アメリカ人のせいにする。「悪は、あなた達の中にあるのだよ」と、思う。
これらの行為は、普通の非イスラム教徒の心に消えない印象を残す行為であると思う。
私はこの映画とやらを作ったのが、アメリカ在住のイスラム教徒や、亡命イスラム教徒であったとしても、驚かないけれどもね。