RuN RiOt -marukoのお菓子な美術室-

お菓子好き。F1好き。
美術館行くの大好き。
買い物も大好き。
休日に全力で生きるOLの日記(笑)

チョコレートケーキ

2014-06-30 21:30:00 | 食べ物
チョコレートたっぷりのチョコレートケーキが食べたくて、帰り道の渋谷東急へ。
BEL AMERでモンブランオランジェとショコラみつ豆を購入しました。


えっ!??チョコレートケーキ???

チョコレートがコーティングされてつやつやのオペラみたいなやつが食べたかったんだけどね。。。
なかったもので……。

ダロワイヨへ行かなくてはならないかねぇ。。。

モンブランオランジェはオレンジの香りが爽やか。
ナッツも軽やかでいいアクセント。
ショコラみつ豆も変わっているところがいい、と思って購入。
和菓子好きだからこうゆうのはいい!!



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アートが気軽に持ち歩ける。そう、iPhoneならね。

2014-06-29 21:30:00 | ミュージアムショップのお菓子たち
デュフィ展で購入しました。
(記事はこちら→「その1」、「その2」)

iPhoneケース。
デュフィ、デザインでタチアオイ。
華やかでステキ。
使っていたのがちょうど汚くなってきて、変えたいーって探している最中だったので即決です。
タチアオイの花言葉は。

「大きな志」「大望」「野心」「気高く威厳に満ちた美」「高貴」「平安」「熱烈な愛」「豊かな実り」

多いな……。

そして長いタイトルだな。笑
身近にアートな物があるとなんとなく嬉しい。



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デュフィ展 絵筆が奏でる 色彩のメロディー (その2)

2014-06-28 21:30:00 | 美術
見てきました

Bunkamura ザ・ミュージアム

会期は2014年6月7日から2014年7月27日。

今回はラウル・デュフィ(1877-1953)
明るい色面と踊るような軽快な筆さばきで線描をする様式で知られる20世紀フランスを代表する画家。
この展示は故郷のル・アヴールを出てパリ国立美術学校に入学する1899年から晩年にいたるまでの回顧展です。
昨日「その1」を書いたので、今日は「その2」です。

《第3章 1920-1930年代 様式の確立から装飾壁画の制作へ》
1919年頃、デュフィは南仏のヴァンスでふたたび絵画制作に励むようになりました。
1922年からは、イタリア、スペイン、モロッコに旅行。
フォーヴ時代の光を取り戻し、また競馬やレガッタを好んで取り上げました。
1920年代末から1930年代にはアトリエで裸婦を描くようになり、個人宅の装飾や壁画にも取り組みました。
このあたりから装飾的な記号を用いたり、線と色彩が自立したスタイルで描かれるようになります。
このようなスタイルはテキスタイルの仕事をしていたことがきっかけ。
印刷の際に必ずしも線のとおりに彩色されないことがあり、それをおもしろいと思ったことからでした。

「ヴァンスの眺め」
城壁に守られた中世の街並みを残す街。
家は小さな立方体で表現されています。
山や城壁が曲線を描き、木々の緑が鮮やか。

「カルタジローネ」
立方体を積み上げたように描かれた家々がぎっしりと並んでいます。
太い線で輪郭づけられ色彩も暗めで重厚な印象。

「水上の祭り」
ノルマンディー地方のリゾート地、ドーヴィルのお祭り。
見学する人々も華やかです。
軽やかな色彩です。

「ル・アヴールの水上の祭り」
こちらも上と同じく水上の祭りを扱っていますが、こっちのほうが好き。
海には無数の船が浮かび、それを眺める人々や陸を行くパレードなどが描かれています。
水は踊っているかのように軽やかなタッチで描かれています。
色彩も明るく華やかです。

「ドヴィールの競馬場」
大きな木々が立ち並ぶパドック。
傘射す婦人やスーツ着こんだ男性が眺めています。
デュフィが競馬を見に行ったのはポール・ポワレに連れて行かれたのがきっかけ。
空は青く、建物はオレンジ色。
明るい光景です。

「エプソム、ダービーの行進」
競馬場の全景を描いた作品。
広々としたところに多くの人々。
連なる馬。
素早いタッチで描かれています。

「馬に乗ったケスラー一家」
石油会社創業者、ジャン=バティスト・オーギュスト・ケスラー一家の肖像画。
「森の騎手たち」という作品を描いたのですが、受け取らなかったためにもう一作と描かれたのだそう。
青々とした緑の木々を背景に7人描かれています。
それぞれが馬に乗っています。
小さい子供も小さな馬に。
お金持ちってすごいね。
全員分の馬があるのね、と違うところで感心。笑
これはケスラー邸の階段の踊り場を飾っていたのだそう。
って、この作品、すごく大きい。
これが飾れる階段の踊り場ってすごいねと2回目の感心。笑
なお、受け取られなかった「森の騎手たち」は現在パリ国立近代美術館所蔵です。

「ピエール・ガイスマール氏の肖像」
製紙会社社長を描いたもの。
青いスーツを着て、周りには美術品が。
デュフィの作品も描き込まれています。
この方は美術コレクターだったのだそう。

「ノジャン、ピンクの橋と鉄道」
パリ近郊ノジャンを流れるマルヌ川とそこにあるボートハウスが描かれています。
左側には橋があり、汽車が向かってきています。
水の青には木々の緑が入り混じり、境目が分からず幻想的な印象です。
光を色彩の帯にして分散して表現していました。

「クロード・ロランに捧ぐ」
クロード・ロランはフランスのバロック・古典主義の画家。
"ロランは私の神である"とデュフィは言っていたのだそう。
え、、画風全然違うじゃん、とかは言わない方がいいのでしょう……
画風関係なく尊敬していたってこともあるだろうしね。
ただここに描かれている黒々とした海面はロランの明暗のコントラストによる光の描写から展開されているものだそう。

「アンフィトリテ(海の女神)」
アンフィトリテは海神ネプトゥーヌス(ネプチューン)の妻で海の精ネレイドの1人。
石に腰掛け巻き貝を手にしています。
周りには漁をする人、散歩する婦人、船に山に月など様々なモチーフが描かれています。
これはタピスリーの下絵だそう。

「パリ」
縦に細長いカンヴァス4枚での作品。
左には太陽が描かれ右にいけば夕暮れ、夜となっています。
1日を表現しているのかな。
パリの街全体がその時の日差しに照らされています。
右から2番目に描かれたエッフェル塔は太陽の当たる面が赤色、夜の月の面は暗い色で描かれていて、流れを表現するにはとても素敵です。
下にはそれぞれのカンヴァスに大きなバラが描かれ、華やかです。

「電気の精」
デュフィは1937年パリ万博の際にフランスの配電会社のパビリオン「光と電気館」に10×60メートルもの大きな壁画を手がけました。
これは後年制作された縮小版。
リトグラフにグアッシュによる加筆がなされています。
光や電気の技術の発展を古代からその当時まで、右から左へと描いています。
上部には技術に関するモチーフ、下部には関わった科学者たち。
私が分かったのはエジソンやオームといった人物。
最後は電気の精が空を舞い、オーケストラが演奏しています。
華やかです。
壁画だったらきっとすごい迫力でしょう。
見てみたい。

「ラングルの風景」
麦畑のテーマを求め、ラングルへ行ったデュフィ。
中央に木立が立ち並び、左側は黄金色の麦畑。
右側には2人のニンフ。
近代と古代の融合とのことですが、不思議な光景です。

「ニースの窓辺」
青が美しく爽やかな作品。
デュフィは青を"色調が変化しても本来の個性を保ち続ける唯一の色彩"と考えていたのだそう。
部屋の中から外を描いた作品。
中央に鏡があり、両側に大きく開いた窓。
ニースの海岸を望みます。
明るい色彩で開放的です。

「イエールの広場」
鳥や蝶が戯れる広場。
落ち着いた色彩で描かれ、人物もなく静かな印象。

「裸婦立像」
デュフィは1929年から約5年間、アトリエで裸婦を描きました。
ポーズをとるモデルはロセッティ。
デュフィの作品にたびたび登場しました。
背景の室内にはデュフィの自作が描き込まれています。

「シーツの上の裸婦」
青が美しくて印象的。
裸婦ですがセクシーとかではありません。
現実的、なのでしょうか。

「ゲルマ袋小路のアトリエ」
右側のアトリエは青い壁の色が爽やか。
左側に描かれた奥の部屋はピンクの壁紙。
窓やドアはすべて開けてあり、開放的ですが、どことなく寂しい印象も。

「パリのパノラマ」
まるで屏風のような作品。
左側にはエッフェル塔、手前にはセーヌが流るパリの景色。
これ、ウールと絹のタピスリーとなっています。
変わっていておもしろい。

《第4章 1940-1950年代 評価の確立と画業の集大成》
デュフィは「電気の精」の制作後、進行性多発関節炎となりました。
第二次世界大戦中は、スペイン国境に近い町ペルピニャンに住み、制作を続けます。
1941年から1953年には色彩は単色となり、素早い線でモチーフを描くようになりました。
この時期はデュフィ芸術の完成期。

「シャンデリアのあるアトリエ」
病のため外に出ることができず、アトリエを描いた作品。
オレンジ色のシンプルな室内です。
裸のモデルもいて、イーゼルが立てられています。
病のようすのない、明るい作品。

「サン=タドレスの黒い貨物船」
デュフィは最晩年に「黒い貨物船」をモチーフとした作品が多くなりました。
この作品は左側は黒い海を、右側は白く街並みを描いています。
デュフィの黒は闇としての再現的な価値が保留され、周囲の色彩との関係から黒が光を喚起させることを目的としました。

「黒い貨物船と虹」
黒い海に白い輪郭線で描かれた船。
雨が降ったあとでしょうか、虹もかかっています。
黒を光の色彩とするのなら、雨後の輝かしい世界なのかもしれません。

「マキシム」
ベル・エポックを象徴するパリ随一の社交場マキシム。
美食と音楽に酔いしれる客をパステルカラーで描いた作品。
華やかです。

「オーケストラ」
線と丸の組み合わせで描かれています。
軽やかで踊るよう。
このあたりから、よく知るデュフィの作品となります。

「コンサート」
所蔵先はなんと大谷コレクション。
わぉ、久しぶりと。笑
全体的に赤が使われ、わずかな筆致でリズミカルに描かれています。

「ヴァイオリンのある静物: バッハへのオマージュ」
仕事をしながら教会でオルガンを弾いていた父。
ヴァイオリン奏者の母。
ピアノ教師やフルート奏者の兄弟。
デュフィは音楽に囲まれて生活をしていました。
音楽家へのオマージュ作品は晩年に手がけたシリーズもの。
チェンバロの上にバイオリンが置かれています。
植物文様の壁に自身の作品がかかっています。
色彩も赤や青、ピンクといった華やかなもの。
軽やかです。

「クロード・ドビュッシーへのオマージュ」
ピアノの上にドビュッシーの名前入りの楽譜が置かれています。
黄緑色と青を中心に優しい印象。
こちらも右には自身の作品が描き込まれていました。

「花束」
溢れそうなほどに花がいっぱい描かれています。
軽やかな線と色彩が華やかな印象を強めます。

「果物鉢」
皿には果物がぎっしりと。
机の上にはさくらんぼにレモン、布などが置かれています。
ここまで静物画は少なかったので新鮮な印象。

「麦打ち」
1953年3月23日、デュフィは亡くなりました。
その日の朝、イーゼルにかけられていた作品です。
収穫されたばかりの麦が輝いています。
その前には裸の男女。
中央には脱穀作業をする人々。
"農奴の女神ケレスと農業経営者"ということだそう。
これまでとは違った視線です。
ここからまた新しい取り組みを考えていたのかもしれません。

初期の作品から晩年までが分かりやすく展示されていました。
「オーケストラ」のような軽やかな作品しか知らなかった私には初期のセザンヌ風の作品やフォーヴのような力強さは新鮮でとても楽しめました。



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デュフィ展 絵筆が奏でる 色彩のメロディー (その1)

2014-06-27 21:30:00 | 美術
見てきました

Bunkamura ザ・ミュージアム

会期は2014年6月7日から2014年7月27日。

今回はラウル・デュフィ(1877-1953)
明るい色面と踊るような軽快な筆さばきで線描をする様式で知られる20世紀フランスを代表する画家です。
この展示は故郷のル・アヴールを出てパリ国立美術学校に入学する1899年から晩年にいたるまでの回顧展。
フォーヴィスムとの出会い、ブラックと共に行ったレスタックでの制作、アポリネール『動物詩集』のための木版画制作、そしてポール・ポワレとの共同制作によるテキスタイル・デザインなど、造形的な展開が順を追って展示されています。
今回2回に分けて書いていきます。
今日は「その1」です。

《第1章 1900-1910年代 造形的革新のただなかで》
1899年、美術学校で学ぶためにノルマンディー地方の港町ル・アーヴルからパリにやってきたデュフィ。
最初は印象派に共感を覚えます。
しかし、1905年マティスの「豪奢、静寂、逸楽」を見て刺激を受けます。
固有色にとらわれず、強いコントラストと堅固なフォルムによる画面構成を行うようになります。
さらに1907年、サロン・ドートンヌで行われたセザンヌの回顧展に感銘を受けます。
その翌年にはブラックとともに南仏のレスタックに滞在。
セザンヌ風の技法の体得に励みました。

「夕暮れの時ル・アヴールの港」
パリ国立美術学校で学び始めて間もなくの作品。
故郷の港を描いた作品です。
暗い色彩で描かれた夕暮れの港。
水面に映る灯り、ぼんやりと明るい空。
光がとらえられた作品です。

「サン=ジェルヴェ教会」
人物はシルエットで空には虹がかかります。
粗めのタッチで描かれた作品。

「サン=タドレスの桟橋」
当時、サン=タドレスの浜辺には木製の桟橋があって歩いて水面まで行けたのだそう。
風に揺れるテント、光りがあたり眩しいくらいの砂浜。
構図の中心は水平線。
海の青さも、光の強さを感じさせます。

「マルティーグ」
マルティーグはプロヴァンスの小さな港町。
船や並び立つ建物が水面に映りゆらゆらと揺れています。
絵の具は厚め。

「教会の広場(ジョンキエール、マルティーグ)」
ここまで展示されてきた作品のなかでは全体的に淡い色彩で描かれています。
建物に陽の光があたり、広場が照らされているかのよう。
広場に集まる人も描かれ、これまでとは違った印象です。

「サン=タドレスの浜辺」
パステル調の柔らかな色調が印象的。
年代的にはフォーヴ時代の作品ですが、激しい色使いではありません。
後の優しい色使いを感じさせる作品です。

「トゥルーヴィルのポスター」
街行く人々の後ろには3段になっている大きなポスター。
ポスターは明るい色彩で、空はどんよりと暗めの色彩で。
対比が目立ちます。

「海辺のテラス」
全体的に明るい色彩が使われ、面で色を置いているように見えます。
海辺とはいえ、海はほとんど見えず、テラスでくつろぐ人物がメインです。

「花のある自画像」
花瓶に入った花が手前に大きく描かれ、その向こうに画家がカンヴァスに向かう姿が描かれています。
そういえばデュフィは人物が少ないなぁ。。

「木々」
木炭で描かれた作品。
こういったものを見ると本当に上手いんだなぁ、と思います。
ぼかす加減なども素晴らしい。

「レスタックの木々」
1907年、サロン・ドートンヌでのセザンヌの回顧展でキュビズムに感銘を受けたデュフィ。
翌年にはキュビズムの画家、ジョルジュ・ブラックとともに南仏のマルセイユに近い漁村、レスタックを訪れました。
そこで描いた作品。
緑の木々に黄土色の土。
少ない色彩で平面的です。

「開かれた窓からの眺め」
室内には机、その上にはスイカらしき果物があり、壁には帽子が掛けられています。
窓からは街並み。
室内は暗く、大きな筆致で描かれています。

「網を持つ漁夫」
夕暮れに網を上げようとする漁師。
網もかかっている魚も派手な色。
漁師の腕は太く力強さを感じさせます。

《第2章 木版画とテキスタイル・デザイン》
1907年から1911年ごろまで、デュフィは木版画の制作に力を注ぎました。
1909円末にはミュンヘンに旅行し、ドイツの表現主義画家たちの木版画に興味を抱きます。
またこの年にはファッション・デザイナーのポール・ポワレとの出会いにより、デュフィは装飾芸術の分野に深く関わるようになります。
ポワレが設立した装飾美術学校"マルティーヌ工房"のためのグラフィック・デザインなどを手がけます。
1910年にはギヨーム・アポリネール『動物詩集あるいはオルフェウスのお供たち』の挿絵のために、登場人物であるオルフェウスや動物を描いた40点もの木版画を制作。
1911年にはポール・ポワレと共同で"小さな工場"と呼ばれるテキスタイルの製作所をつくりました。
ここで最初に制作されたテキスタイルのモティーフには、デュフィの木版画が用いられました。
1912年のはリヨンの絹織物会社ビアンキーニ=フェリエと契約を結び、1928年まで布地のデザインを提供するなど、デュフィはこの分野で長らく活動を続けました。

「愛」
抱き合う人物を草花が囲っています。
線が力強い。

「狩猟」
木の陰に隠れる人と猟犬。
木々の隙間からは街並みも見えます。
空には連なって飛ぶ鳥。
張りつめているのは人と猟犬のみでそれ以外はとてものどかな印象。

「三頭の馬」
そのタイトルどおりですが、とても装飾的。
ぱっとみでは理解しきれませんでした。

「ヨーロッパの果物」
大麦と柘榴らしきもの。
あと、鳥もいます。
こちらは麻布に版画の柄をプリントしたものです。

「アラム」
こちらも布。
植物柄ですが、アラムはカラーの仲間みたいです。
このデザインは何度か登場していました。

「ギヨーム・アポリネール『動物詩集あるいはオルフェウスとそのお供たち』」
1911年刊行のアポリネールの詩集、『動物詩集あるいはオルフェウスとそのお供たち』の挿絵です。

『ハツカネズミ』
植物が描かれていて、どこにハツカネズミが??といったかんじで探すのに苦労しました。笑
『ノミ』
こちらは画面いっぱいにどーんと描かれ探す必要性はありません。笑
なぜ、これはアップだったのでしょうか……
でも、植物を描いたりしたら、それこそ見えなくなってしまうかな。
『イルカ』
私の知っているイルカはこんな生き物ではありません。
どちらかというとクジラのほうが近そう。
なんだか不思議な生き物でした。
『タコ』
たくさんの足がくねくねとして踊っているかのよう。

「チャーリー・チャップリン」
まさか、チャップリンを文様にするとは。
左手を挙げたチャップリンが何度も何度も登場するデザインです。

「ばら」
これは一気に実用的。
刺繍っぽい形式で赤と青のバラの花が描かれています。

ここにはデュフィがデザインしたテキスタイルで作られたドレスを着た女性の写真も展示されていました。
「アラム」のドレスもありました。
布だけで見るより、人が着ているところで見た方がそのデザインの良さがわかります。
おしゃれでした。

以上、2章までを「その1」にします。
3章、4章は「その2」で取り上げます。



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禁断のラムネ

2014-06-26 21:30:00 | 食べ物
気になるお菓子を見つけました

そのパッケージのキラキラ具合も気になります。

チョコレートなのに…
禁断のラムネ
新感覚ショコラ

何これ何これ。
しゅわっとしてひんやりする。。。

仕事中にお菓子食べるとき100円程度でこのサイズのお菓子をよく食べるのです。
コンビニで目に付いたこのお菓子。
そりゃ買うよね。笑

"今年も解禁…"
って書いてあるから毎年出ているんだろうな。
なんで気が付かなかったんだろう……
とりあえず、来年も買うよ!!



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プ、プ、プ、プリン

2014-06-25 21:30:00 | 好きなもの
えっ??何で見ているの??食べたいの??

えぇ、かわいくって食べてしまいたい、
ダンボーを。笑

ダンボー好きすぎてダンボーのために小さいサイズのプリンを作りました


うそです
そんなことできない。

正解はこちら。

ひとくちぷっちんプリン

小さくってかわいいって思ったけど、1つじゃやっぱり物足りない……笑



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魅惑のコスチューム:バレエ・リュス展

2014-06-24 21:30:00 | 美術
見てきました

国立新美術館

会期は2014年6月18日から2014年9月1日。

今回は「バレエ・リュス(ロシア・バレエ)」
1909年にパリで鮮烈なデビューを果たし、革新的なステージにより一世を風靡した伝説のバレエ団です。
主宰者セルゲイ・ディアギレフ(1872-1929)の慧眼によって、同バレエ団はワツラフ・ニジンスキー(1889-1950)をはじめとするバレエ・ダンサーや振付家に加え、20世紀を代表する作曲家イーゴリ・ストラヴィンスキー(1882-1971)ら、数々の新しい才能を輩出しました。
ロシアのエキゾティシズムとして人気を集め、のちにピカソやマティス、コクトー、ブラック、ローランサン、シャネルら、当時パリで活躍していた。そして現在の私たちも知っているアーティストを取り込みました。
バレエだけではなく、美術やファッション、音楽の世界にも革新をもたらし"総合芸術"として大きな影響を与えました。
今回、オーストラリア国立美術館が所有する世界屈指のバレエ・リュスのコスチューム・コレクション32演目、約140点の作品を中心に、デザイン画や資料など、これまでにない規模で展示されています。

会場は黒で統一され、そこに作品ごと島が作られ、衣装が展示されています。
とってもおしゃれな印象です。

展示は年代順となっていました。
簡単に書いておきます。

バレエ・リュスは1909年パリのシャトレ座で《アルミードの館》、《ポロヴェツ人の踊り》、《饗宴》(不出品)で鮮烈なデビューを果たします。
その後も短期間のうちに《クレオパトラ》、《シェエラザード》、《火の鳥》、《ペトルーシュカ》、《青神》などの傑作を次々と発表。
1911年ごろには伝説のスターダンサー、ニジンスキーが振付を手がけるように。
《牧神の午後》、《春の祭典》などがあげられます。
鮮やかな色彩で東洋のエキゾティシズムなどを高度なテクニックで表現したバレエ・リュスは異国情緒溢れる甘美な作品を世に送り出しました。
この1909年から1913年ごろが【初期】となります。
また、ディアギレフに依頼されバレエ・リュスのために作曲した《火の鳥》、《春の祭典》などは作曲家ストラヴィンスキーが広く世に知られるきっかけとなりました。
衣装の展示とともに、簡単にあらすじも書かれているのでとても理解しやすいです。
私は《クレオパトラ》がとても気になりました。
またチラシなどにも大きく扱われている《青神》の衣装。
演じたニジンスキーは全身に明るい青のメイクアップを施していたため、裏地にはその青い跡が染み込んでいました。
これは色彩もカラフルでおしゃれですし、ひらっと広がったスカートもかわいらしい。

1914年から1921年ごろが【中期】となります。
1914年には第一次世界大戦が勃発。
世紀末から続いたベル・エポックは終焉を迎えます。
ディアギレフはそれまでの東洋趣味から離れ、パリで活躍していたピカソやジャン・コクトーら若手の前衛アーティストを、積極的に取り込みました。
振付もニジンスキーに代わりマシーンが活躍。
コミカルな動きが取り入れられます。
美術・衣装デザインはゴンチャロワが担当した《金鶏》、マティスがデザインした《ナイチンゲールの歌》など、モダニスムと関わっていくようになりました。
ナタリヤ・ゴンチャローワがデザインした《サドコ》は海のお話ということで展示品はイカの衣装などとなっています。
ウルトラマリンのシルクにメタリックラメで波状の触手を表し、水の揺らめきや海の生き物の輝きなどが表現されています。
そしてアンドレ・ドランがデザインした《奇妙な店》の衣装は犬。
プードルの衣装なのです。
これも驚き。

【後期】は1921年から1929年ごろ。
マシーンはバレエ・リュスを去り、ニジンスキーの妹、ニジンスカが振付を担当。
マリーローランサンが美術・衣装デザインをした《牡鹿》、コクトーが台本を担当し衣装デザインはシャネルによる《青列車》(不出品)などモダンで洗練された作品が生まれます。
一方で、チャイコフスキーやプティパによる伝統的なクラシック・バレエの最高傑作を紹介したいと考え、《眠り姫》、《オーロラの結婚》といったものも上演。
曲は若き音楽家、プロコフィエフに《道化師》、《鋼鉄の踊り》などの作曲を依頼。
その才能を広めるに一役買いました。
ここで驚くべきは《頌歌》
衣装がレオタード。
に蛍光塗料が塗られたもの。
斬新というか未来的です。
ここではローランサンの絵画も展示されていました。

最後は【バレエ・リュス解散後】
1929年に主宰者のセルゲイ・ディアギレフが急死。
この直後には世界恐慌が起きたこともあり、存続が困難となり解散しました。
しかし、バレエ・リュスに触発されたバレエ団が数多く誕生します。
中でも重要なのが1932年、バジル大佐とルネ・ブリュムによって結成された「バレエ・リュス・ド・モンテカルロ」
彼らは「バレエ・リュス・ド・モンテカルロ」にディアギレフの腹心を呼び寄せます。
同バレエ団はディアギレフのバレエ・リュス時代の主要メンバーが参加し活動しました。
しかし1936年に2人は決別。
ブリュムは新たに「モンテカルロ・バレエ」を結成。
残されたバジル大佐は一座を「バジル大佐のバレエ・リュス」と改名。
モナコを拠点としたこのバレエ団は、世界中を広く巡業、オーストラリアでもツアー公演を行いました。
その同バレエ団で活躍したダンサーたちが、後にオーストラリア・バレエの礎を築きます。

リファールはパリ・オペラ座の芸術監督を。
バランシンはニューヨーク・シティ・バレエ団の母体をつくります。
世界各地のバレエ団の礎はバレエ・リュス出身のダンサーたちによって築かれたのです。

ここではジョルジョ・デ・キリコがデザインした《ブルチネッラ》などが展示されていました。

音楽が流れ、煌びやかな衣装が展示された空間。
見ているだけでもウキウキする、とても楽しい展示でした。
そして、その活動が他に与えた影響がどれほどのものだったかも想像できます。
衣装のほかにスケッチや写真などの資料も多く、見ごたえありました。
久しぶりにバレエ観たいな。



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描かれたチャイナドレス -藤島武二から梅原龍三郎まで

2014-06-22 21:30:00 | 美術
見てきました

ブリヂストン美術館

会期は2014年4月26日から2014年7月21日。

中国は古代から近世にいたるまで、アジアの先進国であり、様々なものが日本へもたらされました。
明治維新以降、日本の人々はヨーロッパへ目を向け始めますが、大正時代に日本で中国趣味が沸き起こりました。
芥川龍之介や谷崎潤一郎らが中国をテーマにした小説を次々に発表。
同じように、美術でも中国趣味が。
油彩画の世界では、藤島武二が中国服を着た女性像を描き始めました。
実際に中国を訪れた画家、日本にいて日本女性に中国服を着せて描いた画家。
1910年代から40年代にかけて日本人画家が描いた約30点で構成された展示です。

藤島武二「匂い」
油彩で描かれた中国服を着た女性像としてはもっとも早い時期の作品。
女性がテーブルに肘をついています。
目の前には嗅ぎタバコの小さな瓶。
藤島は中国服を50~60着近く集めていたのだそう。
確かに、複雑な模様や色彩、異国情緒を感じる服は描きたくなるのかもしれません。

藤島武二「女の横顔」
今回のポスター・チラシにも使われている作品。
隣には参考として「芳」のコピーも飾られています。
こちらとそっくり。
比べて違うところは髪飾りがこちらのほうが豪華ということ。
女性の顔が微笑んでいるかのように見えること、です。
「女の横顔」の方が無表情で1点を見つめている印象。
なお、モデルは竹下夢二に"お葉"と呼ばれていた佐々木カ子ヨ(かねよ)

藤島武二「鉄剪眉」
1924年から3年間、立て続けに描いた中国服女性の横顔を描いた最後のシリーズ。
タイトルの「鉄剪眉」について藤島は"なんのことか知らない"と語っていたそうですが、藤島が見た中国人形に着けられてた言葉だそう。
その漢字の並びなどが気に入ったのでは、とのこと。
頭をぐるっとターバンのような髪飾りが覆っています。
中国服より印象的。

藤島武二「台湾の女」
描かれているのは台湾の中央高地に住む先住民、ツォウ族とみられる女性。
青いターバンをし、彫りの深い目元が印象的。
エキゾチックな美です。

久米民十郎「支那の踊り」
なんとも不思議な作品です。
中国服を着た女性が室内で体をくねらせ踊っています。
部屋からも、その女性からも妖しい雰囲気が漂っています。
体の大きさに対し、手や指が長すぎるし、くねくね過ぎる。。。
久米民十郎は1923年9月1日、関東大震災によって横浜のホテルで亡くなった画家。
30歳でした。
翌日からヨーロッパ渡航だったそう。
そのため残された作品も資料も少ないのですが、意外や意外。
20世紀アメリカ文学研究者の間では意外に知られているのだそう。
というのも、ヨーロッパで、エズラ・パウンドやアーネスト・ヘミングウェイと親しく交わった画家だったから。
二人は久米の油彩画を大事に保管していたのだそう。
この作品は亡くなる3年前、帝国ホテルで開催された個展で発表されたもの。
当時の新聞記事には、「霊媒派」という言葉があったそう。
嘘か誠か、制作にあたって巫女を雇っている、と記者に語っていたそうで……
そう言われると信じたくなる不思議な力がありました。

満谷国四郎「焦山」
これは女性ではなく男性の後ろ姿。
そして人物より景色がメインです。
焦山は長江中洲の小さな山。
丸くくり抜かれた明月門の横に男性はいます。
空は灰色。
ここまで人物メインの作品だったので、景色の描かれた小さな作品は目をひくし、ほっとする景色でした。

矢田清四郎「支那服の少女」
東京美術学校の卒業制作と思われます。
室内で机に手を置き立っている中国服の女性。
女性の右側には窓があり、優しい光が室内へ入り込んでいます。
花瓶など室内の装飾も異国趣味となっていました。

岸田劉生「照子像」
描かれているのは岸田劉生の5つ下の末妹。
1919年8月に劉生の家へ療養で訪れました。
劉生といえば、娘の麗子が有名ですが、その麗子もよく懐いていたそうです。
劉生は1920年1月に中国服を着せ3点の水彩を描いています。
これはそのうちの3作目で2日で完成させたのだそう。
暗い背景の中に、青白い顔と鮮やかな中国服が浮かび上がっています。

三岸好太郎「中国の女」
小さな作品。
暗い背景の中に赤茶色の服を着た女性たちが描かれています。
約20人。
白い顔が浮かび上がるかのようです。
ちょっと怖い……。

小出楢重「周秋蘭立像」
"支那服描きたい"と口癖のように言っていた小出に友人の文学仲間が紹介したのは上海出身、神戸住みのダンサー。
芦屋にあった小出のアトリエで描かれたのだそう。
絨毯や花瓶など室内装飾も服と調和が取れています。
ぱっつんの前髪が印象的。

正宗得三郎「赤い支那服」
描かれているのは中国服を着て椅子に座った女性。
モデルは妻の千代子。
ヨーロッパから帰国した翌年(1925年)に描かれたもの。
この旅行で日本人であるアイデンティティーに目覚めた正宗。
帰国後は、日本や東洋の伝統的な美術の研究を始めました。
その一方で、帰国の際に持ち帰ったフランス製の布地を静物画などの背景に用います。
妻の千代子はその生地の一部をつかって"支那服"を造りました。
布はフランス製、製作者は日本人という"支那服"
矛盾しているようですが、千代子は一生懸命に中国風のドレスを手がけたようです。
"サンプルのない支那服を絵になるような美しい変わった形を考案して作るのに苦心しました。
自分の作った支那服が絵になるので、私も張り合いがありました。"
との言葉が紹介されていました。
素敵な奥さん、そして素敵な夫婦関係です。

正宗得三郎「中国服を着た女」
モデルは小田切峯子、侯爵・細川護立からの依頼品かと思われます。
この2人の組み合わせ、東京国立近代美術館所蔵の安井曾太郎「金蓉」と同じです。
(後ほど出てきます)
青に白のドットの中国服を着て、手には黒の猫のぬいぐるみらしきものを持っています。
このぬいぐるみについては梅原龍三郎も描いているのだそう。
画家通しのつながりが垣間見えます。

児島虎次郎「お茶時」
児島は1918年の春に初めて中国に行ったそう。
水辺の茶屋でしょうか、茶を楽しむ中国服の女性。
窓は大きく開けられ自然たっぷりの屋外が見えます。
さらりと描かれています。

児島虎次郎「西湖の画舫」
画舫とは飾り立てた屋形船のこと。
古来、江南地方で春から秋にかけて多くの文人たちが楽しみました。
船の内部では胡弓を弾く男性、歌う女子。
話をする女性とにぎやかです。
色彩も鮮やか。

児島虎次郎「花卓の少女」
傍らのテーブルに肘をつき、ふとこちらを見る少女。
紫色の中国服が目をひきます。
手には赤い表紙の本。
今まで読んでいたけれど、ふと顔をあげた瞬間、といった感じです。
可愛らしいのです。

安井曾太郎「金蓉」
先ほど書きましたが、モデルは小田切峯子。
英語、中国語など5カ国語を話す才媛で、父親は上海総領事を 務めた外交官だったそう。
普段から中国服を着ている娘に、父親は"金蓉"という中国風の愛称をつけました。
この絵のタイトルはまさに彼女の愛称から。
背景は薄いピンクで藍色の中国服が目立ちます。
この作品の製作途中に峯子はハルビンへ帰りました。
その際、この藍色の中国服を置いて帰ったそうで、安井はモデル着用なしで描き上げたのだそう。

藤田嗣治「力士と病児」
これまでの作品とは違い、道行く人を描いたもの。
上半身裸の男性は大道芸人とのこと。
その後ろに描かれている母子はそれを見ていた人でしょうか。
通りかかっただけでしょうか。
街並みも中国らしい鮮やかな色彩が配されています。
着飾った人物ではない人物を描いたところにおもしろさを感じます。

朝井閑右衛門「蘇州風景」
蓮で埋め尽くされた幻想的な池。
船に乗った女性がその花をとる場面です。
全体的に明るい色彩で、空はクリーム色。
とても素敵な作品です。

恩地孝四郎「白堊(蘇州所見)」
創作版画の先駆者のひとりであり、日本の抽象絵画の創始者とされている、恩地。
前衛的な表現を用いて、日本に版画というジャンルを芸術として認知させました。
白い壁と天井、床までもが白い空間。
廊下の先には格子窓。
そこには鮮やかな青い中国服の女性の後ろ姿。
静かで洗練された印象です。

以上になります。
展示数は少ないですが、とても楽しく見ごたえありました。
"中国服"とまとめた展示は初めてでしょう。
視点も面白い展示でした。



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【中止!?】台北 國立故宮博物院/神品至宝(東京国立博物館)

2014-06-21 10:30:00 | 美術
すっごいショッキングなニュースがありました。

6月24日から上野の東京国立博物館で開催予定の特別展
「台北 國立故宮博物院/神品至宝」

これらの一部ポスター、チラシに
「国立」
の文字が入っていないのだそう。
台湾はこれに厳重抗議。
21日夜12時までに「国立故宮博物院」と明記されていないポスターの全面撤去を書面で約束することを日本側に求めたとか。

一部のポスターとなっていますが、東京国立博物館が作ったものにはポスター、チラシ、HPにも入っているそうです。
その他関係者が作ったポスターには入ってない、とのこと。
日本の報道では"その他関係者"の名前が出ていませんが、台湾の中央廣播電臺(Radio Taiwan International)によるとNHKと毎日新聞社が作ったもので入っていないのだそう。
なぜ日本の報道ではその名前が出ないのでしょうか……

チラシをやたら集めて「違うVer.あったよ~」ってするのが大好きな私。
家にあるチラシ確認したらあったよ!!
「国立」があるVer.とないVer.


「国立あるVer.」

裏面はこちら。

九州国立博物館で開催される展示のチラシとなっています。
こちらも当たり前ですが、「国立」あり。

そして「国立ないVer.」

こちらは「国立あるVer.」より厚手です。
というのも見開きになっています。



すごく丁寧。


「国立ないVer.」裏

こんなに丁寧に作っているのに……

東京国立博物館内のチラシ、ポスターはすべて「国立」が"契約通り"入っています。
そう、「国立」と入れるのはこの展示が決まった際の"契約"なのです。
台湾を国として認めていない日本。
当初、「国立」表記については日本側で議論になった経緯がありますが、最終的に「固有名詞として扱う」ということで落ち着きました。
過去にも欧米諸国で台湾の故宮の所蔵品が展示された際もすべて正式名称を使用していたということから日本側の対応に台湾側は納得できない、とのこと。
改善されない場合は中止もありえる、と。
それは東京展のみならず九州展も。

この展示、台湾の故宮の所蔵品が日本に来る初めての展示なのです。
2011年に「海外美術品等公開促進法」が成立してやっと来ることができるのです。
詳細はこちらを読んでください。。。
2013年10月17日 「台湾、国立故宮博物院の至宝、日本へ

なんか、もうね。
上の記事でわかると思うけど、私すっごく楽しみにしていたんだよ。
そして、この展示が成立するまでのことを想像するとね。。。
がっかりどころじゃない……
悲しいとかむなしいとかNHKと毎日新聞むかつく、とかそうゆうレベルを超えてしまったよ。。。
この記事書いている間にもどんどん……

え??中止??そしたらさ。
前売り4月1日から始まってかなり出てるって聞いたけどどうするの??
この展示期間長いけど、その間トーハクの収益なくなること、なんとかできんの??
もう、作品、日本に搬入されているんだよ。その費用どうするの??
ねぇ、教えて。
とか思ってたけど、なんか、それすら、気力が。。。

だいたいNHKスペシャルでこの展示とりあげるじゃーん。。
この展示にあわせて、「台湾の馬英九総統の夫人が日本を訪問することが決まり、日本と台湾の緊密な関係を示すことになりそうです。」ってNHKはニュースもしてるじゃーん。
よく読むと「国立」に触れないようにうまく文章つくられているけど。。
なんで??どうして??
本当にNHKで制作分がないのかな??
なんかすべてが疑わしく感じられてしまうよ。。。
あ、総統夫人の来日は「国立」が訂正されないと中止だそうです。。。

はぁ。。。
悲しい。
NHKと毎日新聞、この展示から外れないかな。。。
今から入れなおすのも明らかな意図的なものを感じるし。
すいませんでした、ってお金だけおいていなくなってくれないかな。。。
今貼られているポスターについては、撤去作業、手伝いに行きたいぐらい。。。

まとまりのない文章ですが。。
今回の件、とても残念です。
台湾、貸し出ししてくれたのに。。。
ありがとう、台湾、ごめんなさい、台湾。

あぁ、私すごく混乱してるわ。。
美術館行って癒されてきます……



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