And Li Po also died drunk

勝手に好きな音楽、映画、本を書き連ねる。

小指の思い出

2015-02-15 12:41:29 | 日記
DVDは昔CDケースと同じだったが、いつの間にか縦長に。万引き防止のため大きくしたという話も聞いたことあるが、それならCDはどうなんだと思う。ボックスセットも薄く収納できるようにしても長さが同じならけっこう場所取る。出た当初「宇宙家族ロビンソン」のボックス1と2を買って、しばらくしてから3を見たらCDの2枚組くらいのケースになっていて驚いた。テレビドラマシリーズはみな小さく安くなっているようだ。昔のならともかく今のものレンタルで借りて観ればいいし、たいていは2度観ることはないから、よく販売が成り立つと思う。わかりやすい例で「24」を二度観るか?安いからといって買うか?何でもマニアはいるが少数派だろう。逆に本は文字が大きくなった。文庫も大型サイズが出てるのがある。文庫を見比べると昔はよく読めたと思う。年配者のためともう一つは本を読まなくなってきた若者のためもあるのだろう。さすが旧仮名は見たことない。小林秀雄のとか旧仮名だったが今はどうだろう。ヴァージニア・ウルフの「波」手元にあるのは角川文庫、昭和29年初版で平成元年三版。よく平成元年にこの古くさい訳を出したなと思う。字ももちろん小さい。ドストエフスキー「悪霊」1冊は昭和56年14刷、もう1冊は平成20年44刷。同じ訳者で新しくなって字が格段に大きくなって630ページ、前は530ページと違うのだが本の厚さはほとんど変わらないので外見ではわからない。ハヤカワの新しいSF文庫はちょっと長くなったので大型化になったのか。でもちょっとサイズが違うと並べていると出っ張るので気になる。ドス・パソスの「USA」岩波文庫で第1部2冊が出て全訳されると予告されながら中断したまま。コルタサルの「石蹴り遊び」文庫で出たが、絶版になると一気に中古値段跳ね上がった。トーマス・マンの「ヨセフとその兄弟」は分厚い単行本で読んだが、文庫にならないものはなかなか読まないのは今も昔も変わらない。世界文学のシリーズで3段というの覚えている。今では2段もつらいが、それで昔の単行本を読もうとすると字も小さいので読むのをやめてしまう。学生の頃買ったノーマン・メイラー全集は読まないまま本棚に入っている。プルーストの「失われた時を求めて」は新潮の共同訳で読むことは読んだが、本当に面白く読んだのは文庫になってからだ。そうやって読むのは文庫なのにどうも粗末に扱われる。気軽に読めるの裏返しではあるのだが、やはり本棚に並べておくのは単行本、しかも全集なんかだと見栄えもいい。それも裏を返すと全集など読むことない。魯迅選集、中国詩人選集、大江健三郎同時代論集などの岩波の布張り新書かっこいいけど、とてもケーキ食べながら汚い手で読めない。しかも背が硬く広げて読みづらいし。最近書店行って驚いたのが、小中学生のとき読んだ怪盗ルパン全集が昔の表紙のまま文庫になっていた。懐かしくて全部買ってしまったけど書店へ行くとこういう楽しみがある。テレビドラマのDVDもそうだが昔懐かしいで買ってしまう。そんな歳なのと何か乗せられて買わされてるような気がして。





青い山脈

2015-02-11 11:20:07 | 日記
「カッコーの巣の上で」や「アマデウス」を監督したミロス・フォアマンの両親は強制収容所で亡くなっている。もはやその当時の当人はおろか子ども世代の証人も減ってきている。大江健三郎が「沖縄の戦後世代」という文章書いてから50年も経っているのを考えるともはや戦後世代もいなくなりつつあり、戦後という言葉は死語となっている。虐殺なんて空想の世界、映画の世界になっているのではないか。民族間の争いは旧約聖書の時代からあり今後もなくなることはない。映画も西部劇はとっくに滅び、戦争物もこの間ブラッド・ピットであったが滅多に作られることはない。すると今の映画の主流は何だろう。最近の映画を気にしていないが恋愛ものはいつの時代にもある。事件に巻き込まれるタイプもストーリー作りやすいからあるだろう。子ども向けSF。シェイクスピアや文学ものも聞かない。聖書ものもずっとなかったが、最近モーセのが上映されたらしい。コメディで大ヒットというのも聞かないし、自分は好きでないがホラーもなくならないジャンルだ。大きく分けるとそんなものか。小津安二郎をジャンルに入れると今挙げた中のどこに入るのだろうか。けなすわけではないが、原節子が佐分利信が出てたというのは覚えていてもストーリーなんて何も覚えていない。木下恵介の「日本の悲劇」のような忘れられない結末というのも1本もない。それが小津の個性か。黒澤明はオーバーな演出と三船敏郎の大根演技にうんざりさせられるし。溝口健二で面白いのは作品でなく変人の溝口自身で新藤兼人の「ある映画監督の生涯」が最高。新藤兼人は原爆を題材にした「原爆の子」「第五福竜丸」「さくら隊散る」自分の軍隊体験を証言した「陸に上った軍艦」など先に挙げた監督たちより骨のある映画を多数作っている。ハリウッドもアメリカンニューシネマが出て幸せバカから離れた時代はあったのにそのあとロッキーにスターウォーズだから。ヒッチコックの言うようにたかが映画、楽しめばいいじゃないかとも思うが、「禁じられた遊び」観たあとにプレスリー映画観たら誰もが馬鹿にするなよと憤慨するだろう。「禁じられた遊び」観なくていきなりプレスリーでも憤慨する自分なら。ジョン・ウェインが笑ってインディアンを撃ち殺すのを観て吐きそうになる。「史上最大の作戦」観たらオハマビーチでアメリカ兵が虫けらのように次々殺されたなんてわからない。勝ったことだけ映画にすればいいだけだ。自分の嫌いなスピルバーグの「プライベート・ライアン」冒頭シーン、これが実際に近いノルマンディだったと思うし、こちらに共感する。それならドキュメンタリーフィルム観ればではなく、映画もたかが映画でも嘘ついたらだめだ。戦争に行っても映画の主人公のように自分だけ弾が当たらないと信じる人間ができても困るだろう。

The United People Never Be Defeated!

2015-02-06 23:13:10 | 日記
映画「屋根の上のバイオリン弾き」でヴァイオリンを弾いていたのはアイザック・スターンだったが、有名ヴァイオリニストは例外なくユダヤ系。クライスラーはじめとして名前挙げるのもばかばかしいくらい。なぜユダヤ人がヴァイオリンにというより音楽に才能を持っているのか。ホロヴィッツがこの世には3種類のピアニストがいる。ユダヤとゲイと下手くそだと言ったとされるが、ピアニストではそれほどユダヤ系を知らない。指揮者ならバーンスタインくらいしかぱっと思いつかないがヴァイオリニストはヒット率が高いこと。カラヤンにヴァイオリン協奏曲で名盤がないのは、有名ヴァイオリニストがみなユダヤでカラヤンとは共演しないからではと思っている。元々ヴァイオリンのキンキンいう音が嫌いでヴァイオリン協奏曲はほとんど聴かず、定番のメンデルスゾーン、チャイコフスキーが裏表に入ったのしか持っていなかったが、CDになってレコードはスターンで持っていたのでCDはオイストラフにしようと探したらその組み合わせでなくチャイコフスキー、シベリウスだったがメンデルスゾーンなんてどうでもいいとそれにした。昔クラシックを聴くきっかけになったのがコマーシャルでチャイコフスキーのピアノ協奏曲が使われ、それを聴きたくてラフマニノフと裏表になったカラヤン、ワイセンベルクのレコードを買ったが、チャイコフスキーはすぐ飽きてラフマニノフばかり聴いたことがあった。オイストラフ買ったときも唯一チャイコフスキーの曲の中ではヴァイオリン協奏曲は聴く曲なのだが、初めて聴いたシベリウスに惹かれた。ハイフェッツとは対極にある演奏でハイフェッツもいいのだがオイストラフを選んだというのも正解だったかもしれない。と何人か名前出したヴァイオリニスト全員ユダヤ系。シェイクスピアの「ベニスの商人」でもわかるようにユダヤ人は嫌われの歴史。第二次大戦でも虐殺したのはナチだけでないソ連もというのもわかっている。ナチのポーランド侵攻のときソ連もポーランドに侵攻しているのだから。なぜそれほどまでにユダヤ人が嫌われ続けてきたか日本人にはわからない。ユダヤ人というと金持ち、高利貸しというイメージだが、それは頭がいいとも置き換えられる。昔「日本人とユダヤ人」というユダヤ人と偽った日本人の書いたエセ本が賞までもらってベストセラーになったことがあるが、日本人とユダヤ人は何か似てるような気がする。嘘を見抜けなくて賞までやった大宅壮一ノンフィクション賞は大恥もいいところだ。ノンフィクションでもなんでもなかったのだから。ユダヤはアラブと比べると日本人には親しみやすい。理由はないのだがユダヤを題材にした映画も差別、虐殺も含めて多いからなお身近に感じるのかもしれない。



ハンガリーの不思議な役人

2015-02-03 18:49:09 | 日記
クラシックを聴き始めの頃、ストラビンスキー、バルトークはセットのような感覚でー全く音楽が違うのにドビュッシー、ラベルとひとくくりにされるのと同じくー聴いていた。ストラビンスキーは3大バレーがなじみやすく、特に「春の祭典」など何枚もレコード買った。それに対してバルトークは「管弦楽のための協奏曲」「弦、打楽器、チェレスタのための音楽」であと何あるのというくらい。ヴァイオリン協奏曲もなじみづらいし、弦楽四重奏はベートーヴェンと並ぶくらいの名曲だというので、当時一番評判のよかったジュリアードの演奏ー3回目はまだ出てないので2回目ーを買ったがまったく面白くない。ドヴォルザークのようなメロディ出てくるとは思っていないが、乗らせるフレーズとかないのかと思った。4,5あたりはちょっとひっかかったが、聴くことなくしまったままだった。時は過ぎ、アルバンベルク四重奏団の演奏がCDで出て評判良かったので買ってみたら聴きやすくこれならいいと思った。今では聴きやすいだけのアルバンベルク四重奏団は聴かないが1番から6番まですべてが愛聴曲になったとはいえ、ハイドンの弦楽四重奏と同じ気分では聴かないので心構えが必要になる。バルトークは聴くほどに不思議な音楽だ。比較的誰もが聴きやすいのは「管弦楽のための協奏曲」くらいなもので、絶対サティのようなブームになる作曲家ではない。本当に付き合いづらい作曲家。埋もれていてもおかしくないのに、なぜストラビンスキー、バルトークと並び称されるくらい有名なのだろう。ヒンデミットも7曲弦楽四重奏を書いているが滅多に有名四重奏団が録音することない。それに比べたらバルトークは地味で難しいにもかかわらずハンガリーではないいくつもの弦楽四重奏団が取り上げている。代表作の「弦、打楽器、チェレスタのための音楽」を聴いていると闇から音楽が始まるという気がする。そんな音楽あるだろうか。今日も暗く明日も暗い。その音楽を聴きながらどう日々の生活の疲れを癒やし音楽の楽しみを見出すのか。似たような思いをするのがバッハの無伴奏ヴァイオリン。バッハもこの曲だけは聴くのが修行のような気がする。聴くのがつらいとか退屈だとかいう意味ではない。哲学的な意味があるわけでもない。それを闇とするならばドストエフスキーもカフカも同じ闇を持っている。5分で嫌になるモーツァルトは別にしてもブラームスやドヴォルザークなどの美しい音楽を聴くのが安らぎであるはずなのになぜバルトークに向かっていくのか。バルトークは触られたくないところに入ってくるが、それを許しているときは自分が幸福なときという逆説で考えるとこれこそ安らぎの音楽なのか。


グニェズドヴォの森

2015-02-02 08:37:46 | 日記
ブログで書いたのをきっかけに数十年ぶりに「罪と罰」を読み始めた。もちろん昔買った文庫は字が小さく読めないので新しいのを買おうと書店へ行った。昔は米川正夫訳でほとんど読んだので今回は違う訳者でと思ったが新潮版は昔米川正夫だったのに今は工藤精一郎になってた。そんなことあるんだ。その工藤版すら訳者は故人となってと書かれているのはドストエフスキーの訳は若い学者の訳が出づらい環境にあるのか。昔米川訳でばかり読んだときでも別に読みづらいと思わなかったので新訳でなくてもいいのだけれど、というよりドストエフスキーはわかりやすい。いくら正式名と呼び名が違おうと自分の頭の中で人物が浮かんでくる。もう「失われた時を求めて」では登場人物迷うことないがフォークナーやヴァージニア・ウルフで散々訳わからなくなり、これ誰だったと苦しんだこと思うとそれぞれがちょっとくどい以外は面白く読める。誤解される言い方するならば精神空っぽのヘミングウェイより日本ではドストエフスキーが愛されてもおかしくない。もう世界文学全集も百科事典と同様滅びつつあるなかでドストエフスキーなどは「罪と罰」という題は聞いたことあるくらいのものだろう。かえってヘミングウェイは酒の名前が出てきたり、釣りの話、しかも読みやすい短編もあるで今はどちらが読まれているなんてわかりきったことだ。何の小説にせよ本離れなのだから文庫で本を読んでいるという若者にバスや地下鉄でまた喫茶店で出会うことはまれになってきた。自分と同じ世代でも生まれて一度も小説なんか読んだことないというのはいっぱいいるし、今の若い者はという言葉は紀元前からあるから時代として読まれないわけではなく、スポーツ、博打などが趣味の人には本を部屋に積んでる人間などとても変わった趣味としか思えないのではと思う。いくら面白くても「罪と罰」を1日で読み切る元気は今も昔もないが、ベケットの3部作とかムージルの「特性のない男」を読もうとして何度もくじけそうになりながら最後までたどり着く修行的なものはない。それどころかラスコーリニコフは自分の友人のように気になり、一緒にサンクトペテルブルクを歩いている気にさせられる。それが小説なのだが電子書籍ではそれが味わえない。元々本を読まない人間は電子書籍など読まないし読む人間は減っている、その中でも読むのは紙のほうがいいと思っている人が多いだろうから電子書籍など普及しない。「悪霊」や他の長編はどろどろしてるところがあるが「罪と罰」はサスペンス小説的に読める。もちろん最初からサスペンス小説として読むと退屈するだろうが、「罪と罰」という題に恐れをなして読まないのは人生損する。