ずいぶん前に書いたものだが、内容の訂正はない。
フロッピィだとなくしてしまうので、記録する。
『現代思想』4月臨時増刊号は、「ろう文化」について特集している。
昨年(1996年)3月、木村晴美+市田泰弘の両氏は、「ろう文化宣言――言語的少数者としてのろう者」(以下「宣言」と略)を発表した。本臨時増刊号は、その宣言を受けて、賛否両論を様々な角度から掲載している。
私の率直な感想は、その賛否の論争がかみあっていない、ということである。
その原因は、まず議論の出発において基本的な用語の定義=意味・意義づけが共通のものになっていないことにあると思う。それは「宣言」がこれまで常識的=一般的に使用されてきた用語例えば、手話・日本手話・ろう者などをそのまま使って、その言葉にこれまでとは違う自分たちの思想や意義付けを与え、その両者を区別しないでそのまま使用していることにその要因があると思う。
「宣言」の内容、使われる言葉の概念について、私は疑問や批判を覚えるところも多々あるが、それを越えて私が着目したいのは、「宣言」がろう者を、聴覚に障害を持ち、コミニュケーションの方法においてハンディを持つ、福祉の受益者と言う面が強い等々の外在的アプローチではなく、ろう者であることに自覚や誇りを持ち、自らのアイデンティティ(日本語になじみは薄いが、さしずめ私は“自分らしさ、自分は何ものなのか”という意味合いにおいてこの言葉を使っておく)を求め、それを育て、確立する“主体”としてとらえようとする方法に共感と同時にこれまでとは違うろう者像のアプローチを見るからである。
結論から言うとその試みは充分に成功はしていない、というのが私の考えである。
以下その点について説明する。
少し長くなるが、「宣言」の神髄と思われる冒頭の文章を引用する。
「宣言」は言う、
【「ろう者とは、日本手話という、日本語とは異なる言語を話す、言語的少数者である」――これが、私たちの「ろう者」の定義である。/これは、「ろう者」=「耳の聞こえない者」、つまり「障害者」という病理的視点から、「ろう者」=「日本手話を日常言語として用いる者」、つまり「言語的少数者」という社会的文化的視点への転換である。このような視点の転換は、ろう者の用いる手話が、音声言語と比べて遜色のない、“完全な”言語であるとの認識のもとに、初めて可能になったものだ。】と。
「宣言」では、ろう者について、耳が聞こえないと言うことについて全く触れない。そのことは、自明なことでわざわざの説明が不用と言うことなのか、それとも全く関係ないと言うことなのかは、うかがい知れない。
「宣言」の立場は、耳が聞こえないのは「病理的視点」であり、そのことは考えなくて良い、必要ないと言うことのようである。しかし、ろう者を、アイデンティの観点からアプローチする時、耳が聞こえないと言うことを、障害・病理ととらえるかの評価は分かれるとしても、ろう者が受けてきた社会的歴史的事柄は耳が聞こえないということと無関係ではないし、大きな位置を占めていると私は考える。この点については後述する。
しかし、「宣言」の「ろう者とは、日本手話という、日本語とは異なる言語を話す、言語的少数者である」との考えは、耳の聞こえる人でも、ろう文化を尊重し、日本手話を話すことができるならばろう社会の一員として認めようする閉鎖的ではない開放的なろう社会をイメージ、目指そうとしていることがうかがえる。
耳の聞こえる人に対しこのような開放性を準備しているにもかかわらず、しかし、同時に、他方一度インテグレーションしたろう者に対しては、きわめて冷ややかな態度・拒否的感情を示しているように、私には思える。
この二つの間の隔たり・乖離・不整合性について、私は理解に苦しむ。
「宣言」においては耳が聞こえないことは、「障害」なのか、あるいは生理的=肉体的個性なのかは本質的ことではなく、問わない。つまり、耳が聞こえないことは、例えば、背が高いとか低いとか、男か女か、皮膚の色が黒いか白いか、というような生理的=肉体的個性の違いでしかないということだ、と言う。(したがって、ここで「障害者でないなら障害者手当を貰うのか貰わないのか、貰っているのに、障害者ではないというのは矛盾している、おかしい」という観点からの批判は、的はずれの批判、批判するための揚げ足取りのように感じるが、しかしそれは現実的問題でもあるので、別途検討する問題ではないかと、私は思う。)
次に、自分たちの「社会的文化的視点への転換」は、「手話は完全な(日本語や英語と同じという意味において=増田)言語である」と言う認識を獲得したことにあると言うことについてである。
私は、そのような転換=認識をどのように獲得できたのかと言うことこそが問題であり、重要なのだ、と考える。「宣言」が描いた新しいろう者像をどのようにして獲得したのかを「宣言」は触れない。このことに触れない「宣言」の立場は、私には、これまでの「誤った認識を改めろ」、「意識を変えろ」ということのように聞こえる。これだと、〈意識の問題〉だということだけになってしまう。
私が言いたいのは、こうした認識の転換は手話が言語であると科学的に証明されたことに求めるのではなく、これまでのろう者のアイデンティティを求めての旅=主体確立の格闘があったからこそそのような変革も可能になったのだ、と言いたいのである。
例えば、これまでろう者が行い闘って来た自己解放の歴史、他のマイノリティと言われる人々の運動(例えば、障害者解放運動、女性解放運動、解放運動、在日韓国・朝鮮人3世4世の運動、アイヌ民族の運動、さらに世界の第三世界解放運動や少数民族の運動、南アの黒人解放運動、アメリカの公民権運動や同性愛者の運動、等々)の歴史がなければそのような変革はなかったはずだ。
私たちは、30年前の格調高い「ろう教育の民主化をすすめるために――3.3声明」を知っている。「宣言」は、この「3.3声明」とどう切り結んでいるのだろうか。
また、突然、「自分たちは、ある種の『民族』なのだ」と言う主張と出くわし、他方、「インテグレーションした人は自分たち(ろうコミュニティの成員=増田)とは違う」という主張にぶつかり、とまどい、立ち止まざるを得ない。
「民族」という言葉について、「宣言」は具体的説明をなんらしていない。
私が思うに、「宣言」はアメリカのろう者の経験・運動を意識しているのだと思う。
アメリカの黒人解放運動・公民権獲得運動は「民族」解放運動から多くのことを学んだ。学ばざるを得なかったという方が正確かもしれない。
アメリカの黒人にとって、ベトナム民衆の戦いは人ごとではなかった。ベトナムに派兵された兵士の中に多くの黒人がいた。国内で差別され抑圧されて来た黒人が、今度は、自分たちよりはるかに体格は貧弱で、身なりもみすぼらしいアジアの黄色人種を侵略し殺戮するという現実に直面せざるを得なかった。
軍事力・財力・国力・体力のない遅れたベトナムの民衆が、強大な軍事力を持ち、装備も優れた、常勝先進大国アメリカと真っ向から対決し、退却するどころか逆にそのアメリカをうち負かしている。しかも、自分たちは女・子供・老人までも無差別に殺している。
このことは黒人達の倫理観・道徳観・良心、そして何より自分たちのアイデンティティーを大きく揺れ動かし、混乱させた。
そして、物や金や力より、精神・志・大儀・正義を求める心理の方が何より強い、という単純ではあるが明快な真理を学んだ。
抑圧され続けてきた黒人たちにとってそれは屈折しながらも翻って、自分たちの過去と現在を照射せざるを得なかった。
ブラックパンサーのスローガンは「ブラック イズ ビュティフル」であった。「ブラック」、それはかつて自分の黒い皮膚を白くしようと、肌から血が出てもなお石で削って白くしようとした自分たちが一番嫌っていた色であった。それが一番美しい、この180度の自己の転換を勝ち取ったのである。
マルコムXは、イスラームの息吹を黒人に注いだ。
マルコムXらの武装闘争の実践=失敗と敗北は、キング牧師に引き継がれていく。キング牧師はインド・ガンジーの“非暴力・不服従”を打ち出し、勝利する。こうした一連の運動の中で黒人達は、自分たちを「ある種の民族」と読んだ。そこには、ベトナムの奇跡=ベトナムの人々が自分たちを新しい「民族」=人民へと自分たちを育てた、これまでとは全く違った人間集団の新しい概念の発見・創造があったのである。こうして黒人たちは、自分たちをアメリカの多数者=支配者である白人とは違う、ある種の「民族」と読んだのだ。
【宣言が、自分たちが一番忌み嫌い、耳にするのもいやな「エタ・に栄えあれ」と結んでいることとあまりに印象深く似ている】
アメリカのろう者の運動は、それまでも日本と比較にならないろう者の先進的運動の歴史はあったが、他のマイノリティの運動と比べてはまだまだ遅れていた。アメリカのろう者は、先陣を切った以上述べた黒人解放・公民権運動から多くを学んだ。黒人達が自分たちを「ある種の民族」としたことを受けて、ろう者も自分たちを「ある種の民族」と読んだ=名付けたのだと思う。背景には、こうした歴史と運動があったのだ、と私は思う。
「宣言」は、私には、こうしたアメリカの特殊性・歴史性を無視して、そのまま結論というより言葉だけを取り入れてしまう安易さを感じる。
アメリカの特殊性・歴史性というとき私は、先述したベトナム戦争に関わる歴史性と同時にアメリカは日本とは比較にならない多民族、多人種の国ということ、そのことから自己解放の運動は他者と自己の違いをはっきり区別=独自化しつつ、しかも同時に連帯=融合する事を目指す運動=歴史を持っているという意味で使っている。
アメリカの経験を無媒介的にそのまま言葉だけ借りて説明することは無理がある。
まして、日本においては「民族」という概念はそれほど馴染みがないのだから。
次に、私は、二つのことを思い浮かべる。
一つは、「母国語を生得的に獲得する機会を失った、在日韓国・朝鮮人3世4世が自らのアイデンティティを求めて、母国語を獲得する格闘。
二つは、親に普通学級に通うことを勧められたり、何らかの事情で手話を生得できなかったろう者が自己のアイデンティティとして手話を獲得したいと格闘する姿である。
この両者は自ら選んで「インテグレーション」したのではないにもかかわらず、ろうコミュニティの成員足り得ない、と「宣言」の立場はいう。
私は、「宣言」は、ろう者を、自己を受動的存在としてではなく、主体的存在として定立しようとしながら、言語プロパーにこだわるあまり自己の存在・問題の領域を極めて狭く限定してしまうという落とし穴に陥ってしまったのではないか、と思うのである。
私は、そのような誤りに陥ったのは、ろう運動を歴史的反省・主体の形成=確立という視点を欠いて総括してしまう非歴史性、そして言語プロパーの視点のみに落ち込んでしまった方法にあると思う。
さらにそうした誤りに陥ったのは、「手話は言語である」という主張を、手話が言語学的・科学的に研究され、深められることは重要ではあるが、学説や科学的に証明するという視点から根拠付けようとする方法的弱点に由来していると考える。
ろう者が一人で孤立している間は手話は生まれない。二人、三人のろう者が偶然的に会っていれば、身振り手振りのコミュニケーションは生まれるが、やはり手話は生まれない。
手話が生まれるには、集団としてのろう者が偶然的ではなく恒常的に社会生活を共同して行うという空間と場が必要である。
ろう学校の誕生はその第一歩であった。しかし、戦前のそれは量においても質においても極めて限られたものであった。ろう学校に通うことができたのは、ほんの一握りの資産家の子弟=エリートだけであった。当然手話も地域性という制約を強く持っていた。
本格的ろう者集団=手話の登場は戦後を待たなければならなかった。
こうして本格的ろう者運動の歩みが始まる。
当然、主体は未成熟であり、社会的歴史的制約は強く大きかった。
社会には、ろう者は聴者より人間的に劣っているという強固な常識が存在し続けてきた。ろう者もその常識から自由ではなくとらわれていた。ろう者にとっては、自分がろう者であることは人には知られたくない秘事であり、手話は見栄えの悪い身振り手振りであり、恥ずかしく劣っているものと思い続けてきた。
ろう者の運動は、直接的には社会に存在する差別と不平等に対して戦ってきたのだが、そのことは、同時に自分自身の内部に潜み、しみ込んだ「我々は劣っている」という劣等感や弱点と戦うことであった。
「福祉をお願い」する運動であったとしても、それは、秘事である自分はろう者であることを明らかにする決断を迫った。同時にそれは自分自身の意識のこれまでのありよう=自分たちの奴隷根性つまり自分たちの劣等感、弱点を見つめ、それとの戦い、そうした自己を批判することを伴わずにおかない、痛み・苦しみを伴う、戦いであった。
だからこそ、それは同時に「手話は恥ずかしい」から、「手話はすばらしい」という大転換へとつながり、「手話=自分たちの言語」の獲得となっていった。
こんな分かり切ったことを長々と書いたのは、「手話は言語である」という発見・証明・認識・結論が大事なのではなく、それは、まさにろう運動の歴史の中で自らが一歩一歩、それこそ血がにじむような自己批判を通して勝ち取ってきたものである、ということを言いたいからである。
「宣言」がろう者の主体を論じる以上、そうした自分たちのこれまでの運動を主体の確立、手話の獲得という視点から捉え返すということが基本に据えられなければならない、ということは以上のような事情からである。
30年前の格調高い「3.3声明」とこうして結びつくのである。
そうではなしに、認識の問題=つまり意識・見方を変えろという方法では、その立場に立たないなら、「見解が違うね」、ということで終わり、次に進まないと私は思う。
また、手話・日本手話そのものの評価を自ら下げてしまう結果となると思うのである。
しかし、「宣言」はこうした限界を持ちながらも、この「ろう文化宣言」が、生まれつきのろう者や日本手話を使うろう者が日々の生活の中で、日本語対応手話に抑圧されて来たし、現在も抑圧されている、と感じていることを公に問題を提起したこと、そして「手話は言語である」と改めて高らかに宣言したこと、またろう者の集団は言語をはじめ独自の文化を持っているのだと宣言したこと、等々の名誉と意義は決して小さなものでないことはいうまでもない。
また、新しい問題の提起は、はじめからすべて完全ではあり得ないし、問題が極端=ラジカルに提起されざるを得ないと言うことも当然のことである。
従って、私としては、こうした立場に立つのか立たないのか、双方の非難合戦ではなく、提起された問題は何なのか、課題は何か、が整理され、より豊かに議論され、実りある豊のものへと発展していくことを心から願うものである。
フロッピィだとなくしてしまうので、記録する。
『現代思想』4月臨時増刊号は、「ろう文化」について特集している。
昨年(1996年)3月、木村晴美+市田泰弘の両氏は、「ろう文化宣言――言語的少数者としてのろう者」(以下「宣言」と略)を発表した。本臨時増刊号は、その宣言を受けて、賛否両論を様々な角度から掲載している。
私の率直な感想は、その賛否の論争がかみあっていない、ということである。
その原因は、まず議論の出発において基本的な用語の定義=意味・意義づけが共通のものになっていないことにあると思う。それは「宣言」がこれまで常識的=一般的に使用されてきた用語例えば、手話・日本手話・ろう者などをそのまま使って、その言葉にこれまでとは違う自分たちの思想や意義付けを与え、その両者を区別しないでそのまま使用していることにその要因があると思う。
「宣言」の内容、使われる言葉の概念について、私は疑問や批判を覚えるところも多々あるが、それを越えて私が着目したいのは、「宣言」がろう者を、聴覚に障害を持ち、コミニュケーションの方法においてハンディを持つ、福祉の受益者と言う面が強い等々の外在的アプローチではなく、ろう者であることに自覚や誇りを持ち、自らのアイデンティティ(日本語になじみは薄いが、さしずめ私は“自分らしさ、自分は何ものなのか”という意味合いにおいてこの言葉を使っておく)を求め、それを育て、確立する“主体”としてとらえようとする方法に共感と同時にこれまでとは違うろう者像のアプローチを見るからである。
結論から言うとその試みは充分に成功はしていない、というのが私の考えである。
以下その点について説明する。
少し長くなるが、「宣言」の神髄と思われる冒頭の文章を引用する。
「宣言」は言う、
【「ろう者とは、日本手話という、日本語とは異なる言語を話す、言語的少数者である」――これが、私たちの「ろう者」の定義である。/これは、「ろう者」=「耳の聞こえない者」、つまり「障害者」という病理的視点から、「ろう者」=「日本手話を日常言語として用いる者」、つまり「言語的少数者」という社会的文化的視点への転換である。このような視点の転換は、ろう者の用いる手話が、音声言語と比べて遜色のない、“完全な”言語であるとの認識のもとに、初めて可能になったものだ。】と。
「宣言」では、ろう者について、耳が聞こえないと言うことについて全く触れない。そのことは、自明なことでわざわざの説明が不用と言うことなのか、それとも全く関係ないと言うことなのかは、うかがい知れない。
「宣言」の立場は、耳が聞こえないのは「病理的視点」であり、そのことは考えなくて良い、必要ないと言うことのようである。しかし、ろう者を、アイデンティの観点からアプローチする時、耳が聞こえないと言うことを、障害・病理ととらえるかの評価は分かれるとしても、ろう者が受けてきた社会的歴史的事柄は耳が聞こえないということと無関係ではないし、大きな位置を占めていると私は考える。この点については後述する。
しかし、「宣言」の「ろう者とは、日本手話という、日本語とは異なる言語を話す、言語的少数者である」との考えは、耳の聞こえる人でも、ろう文化を尊重し、日本手話を話すことができるならばろう社会の一員として認めようする閉鎖的ではない開放的なろう社会をイメージ、目指そうとしていることがうかがえる。
耳の聞こえる人に対しこのような開放性を準備しているにもかかわらず、しかし、同時に、他方一度インテグレーションしたろう者に対しては、きわめて冷ややかな態度・拒否的感情を示しているように、私には思える。
この二つの間の隔たり・乖離・不整合性について、私は理解に苦しむ。
「宣言」においては耳が聞こえないことは、「障害」なのか、あるいは生理的=肉体的個性なのかは本質的ことではなく、問わない。つまり、耳が聞こえないことは、例えば、背が高いとか低いとか、男か女か、皮膚の色が黒いか白いか、というような生理的=肉体的個性の違いでしかないということだ、と言う。(したがって、ここで「障害者でないなら障害者手当を貰うのか貰わないのか、貰っているのに、障害者ではないというのは矛盾している、おかしい」という観点からの批判は、的はずれの批判、批判するための揚げ足取りのように感じるが、しかしそれは現実的問題でもあるので、別途検討する問題ではないかと、私は思う。)
次に、自分たちの「社会的文化的視点への転換」は、「手話は完全な(日本語や英語と同じという意味において=増田)言語である」と言う認識を獲得したことにあると言うことについてである。
私は、そのような転換=認識をどのように獲得できたのかと言うことこそが問題であり、重要なのだ、と考える。「宣言」が描いた新しいろう者像をどのようにして獲得したのかを「宣言」は触れない。このことに触れない「宣言」の立場は、私には、これまでの「誤った認識を改めろ」、「意識を変えろ」ということのように聞こえる。これだと、〈意識の問題〉だということだけになってしまう。
私が言いたいのは、こうした認識の転換は手話が言語であると科学的に証明されたことに求めるのではなく、これまでのろう者のアイデンティティを求めての旅=主体確立の格闘があったからこそそのような変革も可能になったのだ、と言いたいのである。
例えば、これまでろう者が行い闘って来た自己解放の歴史、他のマイノリティと言われる人々の運動(例えば、障害者解放運動、女性解放運動、解放運動、在日韓国・朝鮮人3世4世の運動、アイヌ民族の運動、さらに世界の第三世界解放運動や少数民族の運動、南アの黒人解放運動、アメリカの公民権運動や同性愛者の運動、等々)の歴史がなければそのような変革はなかったはずだ。
私たちは、30年前の格調高い「ろう教育の民主化をすすめるために――3.3声明」を知っている。「宣言」は、この「3.3声明」とどう切り結んでいるのだろうか。
また、突然、「自分たちは、ある種の『民族』なのだ」と言う主張と出くわし、他方、「インテグレーションした人は自分たち(ろうコミュニティの成員=増田)とは違う」という主張にぶつかり、とまどい、立ち止まざるを得ない。
「民族」という言葉について、「宣言」は具体的説明をなんらしていない。
私が思うに、「宣言」はアメリカのろう者の経験・運動を意識しているのだと思う。
アメリカの黒人解放運動・公民権獲得運動は「民族」解放運動から多くのことを学んだ。学ばざるを得なかったという方が正確かもしれない。
アメリカの黒人にとって、ベトナム民衆の戦いは人ごとではなかった。ベトナムに派兵された兵士の中に多くの黒人がいた。国内で差別され抑圧されて来た黒人が、今度は、自分たちよりはるかに体格は貧弱で、身なりもみすぼらしいアジアの黄色人種を侵略し殺戮するという現実に直面せざるを得なかった。
軍事力・財力・国力・体力のない遅れたベトナムの民衆が、強大な軍事力を持ち、装備も優れた、常勝先進大国アメリカと真っ向から対決し、退却するどころか逆にそのアメリカをうち負かしている。しかも、自分たちは女・子供・老人までも無差別に殺している。
このことは黒人達の倫理観・道徳観・良心、そして何より自分たちのアイデンティティーを大きく揺れ動かし、混乱させた。
そして、物や金や力より、精神・志・大儀・正義を求める心理の方が何より強い、という単純ではあるが明快な真理を学んだ。
抑圧され続けてきた黒人たちにとってそれは屈折しながらも翻って、自分たちの過去と現在を照射せざるを得なかった。
ブラックパンサーのスローガンは「ブラック イズ ビュティフル」であった。「ブラック」、それはかつて自分の黒い皮膚を白くしようと、肌から血が出てもなお石で削って白くしようとした自分たちが一番嫌っていた色であった。それが一番美しい、この180度の自己の転換を勝ち取ったのである。
マルコムXは、イスラームの息吹を黒人に注いだ。
マルコムXらの武装闘争の実践=失敗と敗北は、キング牧師に引き継がれていく。キング牧師はインド・ガンジーの“非暴力・不服従”を打ち出し、勝利する。こうした一連の運動の中で黒人達は、自分たちを「ある種の民族」と読んだ。そこには、ベトナムの奇跡=ベトナムの人々が自分たちを新しい「民族」=人民へと自分たちを育てた、これまでとは全く違った人間集団の新しい概念の発見・創造があったのである。こうして黒人たちは、自分たちをアメリカの多数者=支配者である白人とは違う、ある種の「民族」と読んだのだ。
【宣言が、自分たちが一番忌み嫌い、耳にするのもいやな「エタ・に栄えあれ」と結んでいることとあまりに印象深く似ている】
アメリカのろう者の運動は、それまでも日本と比較にならないろう者の先進的運動の歴史はあったが、他のマイノリティの運動と比べてはまだまだ遅れていた。アメリカのろう者は、先陣を切った以上述べた黒人解放・公民権運動から多くを学んだ。黒人達が自分たちを「ある種の民族」としたことを受けて、ろう者も自分たちを「ある種の民族」と読んだ=名付けたのだと思う。背景には、こうした歴史と運動があったのだ、と私は思う。
「宣言」は、私には、こうしたアメリカの特殊性・歴史性を無視して、そのまま結論というより言葉だけを取り入れてしまう安易さを感じる。
アメリカの特殊性・歴史性というとき私は、先述したベトナム戦争に関わる歴史性と同時にアメリカは日本とは比較にならない多民族、多人種の国ということ、そのことから自己解放の運動は他者と自己の違いをはっきり区別=独自化しつつ、しかも同時に連帯=融合する事を目指す運動=歴史を持っているという意味で使っている。
アメリカの経験を無媒介的にそのまま言葉だけ借りて説明することは無理がある。
まして、日本においては「民族」という概念はそれほど馴染みがないのだから。
次に、私は、二つのことを思い浮かべる。
一つは、「母国語を生得的に獲得する機会を失った、在日韓国・朝鮮人3世4世が自らのアイデンティティを求めて、母国語を獲得する格闘。
二つは、親に普通学級に通うことを勧められたり、何らかの事情で手話を生得できなかったろう者が自己のアイデンティティとして手話を獲得したいと格闘する姿である。
この両者は自ら選んで「インテグレーション」したのではないにもかかわらず、ろうコミュニティの成員足り得ない、と「宣言」の立場はいう。
私は、「宣言」は、ろう者を、自己を受動的存在としてではなく、主体的存在として定立しようとしながら、言語プロパーにこだわるあまり自己の存在・問題の領域を極めて狭く限定してしまうという落とし穴に陥ってしまったのではないか、と思うのである。
私は、そのような誤りに陥ったのは、ろう運動を歴史的反省・主体の形成=確立という視点を欠いて総括してしまう非歴史性、そして言語プロパーの視点のみに落ち込んでしまった方法にあると思う。
さらにそうした誤りに陥ったのは、「手話は言語である」という主張を、手話が言語学的・科学的に研究され、深められることは重要ではあるが、学説や科学的に証明するという視点から根拠付けようとする方法的弱点に由来していると考える。
ろう者が一人で孤立している間は手話は生まれない。二人、三人のろう者が偶然的に会っていれば、身振り手振りのコミュニケーションは生まれるが、やはり手話は生まれない。
手話が生まれるには、集団としてのろう者が偶然的ではなく恒常的に社会生活を共同して行うという空間と場が必要である。
ろう学校の誕生はその第一歩であった。しかし、戦前のそれは量においても質においても極めて限られたものであった。ろう学校に通うことができたのは、ほんの一握りの資産家の子弟=エリートだけであった。当然手話も地域性という制約を強く持っていた。
本格的ろう者集団=手話の登場は戦後を待たなければならなかった。
こうして本格的ろう者運動の歩みが始まる。
当然、主体は未成熟であり、社会的歴史的制約は強く大きかった。
社会には、ろう者は聴者より人間的に劣っているという強固な常識が存在し続けてきた。ろう者もその常識から自由ではなくとらわれていた。ろう者にとっては、自分がろう者であることは人には知られたくない秘事であり、手話は見栄えの悪い身振り手振りであり、恥ずかしく劣っているものと思い続けてきた。
ろう者の運動は、直接的には社会に存在する差別と不平等に対して戦ってきたのだが、そのことは、同時に自分自身の内部に潜み、しみ込んだ「我々は劣っている」という劣等感や弱点と戦うことであった。
「福祉をお願い」する運動であったとしても、それは、秘事である自分はろう者であることを明らかにする決断を迫った。同時にそれは自分自身の意識のこれまでのありよう=自分たちの奴隷根性つまり自分たちの劣等感、弱点を見つめ、それとの戦い、そうした自己を批判することを伴わずにおかない、痛み・苦しみを伴う、戦いであった。
だからこそ、それは同時に「手話は恥ずかしい」から、「手話はすばらしい」という大転換へとつながり、「手話=自分たちの言語」の獲得となっていった。
こんな分かり切ったことを長々と書いたのは、「手話は言語である」という発見・証明・認識・結論が大事なのではなく、それは、まさにろう運動の歴史の中で自らが一歩一歩、それこそ血がにじむような自己批判を通して勝ち取ってきたものである、ということを言いたいからである。
「宣言」がろう者の主体を論じる以上、そうした自分たちのこれまでの運動を主体の確立、手話の獲得という視点から捉え返すということが基本に据えられなければならない、ということは以上のような事情からである。
30年前の格調高い「3.3声明」とこうして結びつくのである。
そうではなしに、認識の問題=つまり意識・見方を変えろという方法では、その立場に立たないなら、「見解が違うね」、ということで終わり、次に進まないと私は思う。
また、手話・日本手話そのものの評価を自ら下げてしまう結果となると思うのである。
しかし、「宣言」はこうした限界を持ちながらも、この「ろう文化宣言」が、生まれつきのろう者や日本手話を使うろう者が日々の生活の中で、日本語対応手話に抑圧されて来たし、現在も抑圧されている、と感じていることを公に問題を提起したこと、そして「手話は言語である」と改めて高らかに宣言したこと、またろう者の集団は言語をはじめ独自の文化を持っているのだと宣言したこと、等々の名誉と意義は決して小さなものでないことはいうまでもない。
また、新しい問題の提起は、はじめからすべて完全ではあり得ないし、問題が極端=ラジカルに提起されざるを得ないと言うことも当然のことである。
従って、私としては、こうした立場に立つのか立たないのか、双方の非難合戦ではなく、提起された問題は何なのか、課題は何か、が整理され、より豊かに議論され、実りある豊のものへと発展していくことを心から願うものである。