風そよぐ部屋

ウォーキングと映画の無味感想ノート

立教大学公開セミナーに参加して

2005年12月08日 | ろう文化・白馬聴覚障害者のための里山紀行
12月5日、立教大学大学院・比較文明学会総会・公開セミナーに参加した。
《音の無い音楽は可能か》がテーマであった。
この表題はすこぶる刺激的で、何か新しい視点でも提起してくれるかと、ワクワクしながら参加したが、内容は極めてお粗末、まさにガク=「羊頭狗肉」であった。

私の期待は大きく裏切られた。
何ら新しい視点の提起も、発想もない、と言わざるを得ないのです。
これが大学院博士課程修了者のお話なの?って感じ。
30分という短い時間で、このテーマについて一定の見解を述べるのは難しいことは差し引いても、あまりにも「お粗末」でした。
その上、話し方がへたくそ、というより仲間内に話すような口振りで、何とレジメの配布すらないのです。
要約筆記が付いたのですが、手話通訳は付かないのです。
要約は必要で、手話通訳は不要の説明も全くありません。
事前申し込みではないのですから、聴覚障害者が参加したらどうしたのでしょうか?
ホント信じられない不思議さでした。
無料だから仕方ないではすまされません。
開始時間も遅れ、その謝罪・説明もないのです。

講師は、伝音性難聴と感音性難聴について説明したのですが、
伝音性難聴をボリューム=デシベルのレベルでの障害、
感音性難聴を、音の波長=ヘルツについての障害、
という説明は、いささか乱暴に感じます。
伝音性難聴は、外耳から入った音を聴覚神経に伝える過程で生じる障害、
感音性難聴は、確かに音の波長に関する障害も含まれますが、聴覚神経に関わる障害の両方を指すと私は思います。
従って、伝音性難聴の場合は、補聴器の使用や鼓膜などの医学的治療で一定程度改善される可能性があります。
感音性難聴の場合は、それとは異なって、今日の医学的治療・技術では改善は難しく、人工内耳はその改善の可能性を占めているとも言われますが、それはまだむずかしくはっきりしない、と私は、思っています。

一口に聴覚障害といってもその内容はさまざまです。
私は、大きく、ろう者と言う概念を先天的聴覚障害者=産まれてから音を聞いたことがない人、聴覚障害者と言う概念をろう者・中途失聴者・難聴者・加齢による難聴=身体的に聴力に障害を持っている人、として把握し、使い分けて、その言葉=概念を使用します。

中途失聴と言っても何歳で失聴したのか、と言うことは重要です。
では、3歳の時高熱で、失聴した聴覚障害者の場合、音を聞いたという記憶がありますが、その聞いた種類はとても限られていて、音を概念的に把握=記憶してると言えるでしょうか?
18歳で失聴した場合は、音をかなり概念的に記憶していると思います。

先天的ろう者の場合、音を聞いたという記憶があるのか・無いのか。
例えば、母親の胎内にいる時は聴覚に障害が無く胎内で聞いた音は記憶されるのか。
母親の胎内にいる時すでに、聴覚に障害があって、音を全く経験したことがないとき後天的に音を概念的に把握できるのか。
と言うことは問題になり得るのか? どうか。
こんなことは全く関係ないこと、それとも思考に値いすることですか?

講師加藤さんの結論は、「音楽」=「遊び」だから、「音のない音楽は可能だ」と結論づけます。
しかし、加藤さんは、「音楽」、「遊び」の概念について、全く説明しないで話しを進めます。
そして、話に進展にともないその言葉の意味・内容が変化するのですが、変化の説明もないのです。
「竹竿屋」の音声も音楽だし、クラシックも、歌謡曲も、手話ダンスも、手話パフォーマンス、パントマイムも、リズムがあったり、体が動けば全てが遊び=音楽と言うことになるのです。
そうだとすると、音楽=ダンス=運動=遊び、
だから「音のない音楽は可能だ」と言うことでおしまいです。
そんな簡単な説明でよいのでしょうか?
そんな簡単な世界なのでしょうか?
それらを論理で説明説得するのではなく、
『例えば』という、例示の提示で、説明=論証してしまうのです。

「雪がしんしんと降る」
シンシンとはどういう音なの?、はよく話題になります。
いろいろな考えはありますが、
このシンシンはしーんしーんという「音のない音」と言う解釈もありますし、
深々・森々・津々という情感的・映像的という解釈もありえます。
また、「雨だれがポタポタ落ちた」
このポタポタは、擬音語なのでしょうか、それとも情景説明なのでしょうか?
それは、おそらく情景と音の感じ(=実際の音ではない)とが入り交じった表現ではないでしょうか?

では、視点を変えて、
手話は、視覚言語と言われます。
その視覚言語である手話に、詩的=韻=音声を含んだ表現はあるのか?
「雪がしんしんと降る」のしんしんが音とした場合それは手話で(ろう者は)どう表現するのでしょうか。
「彼はわんわんと泣いた」のワンワンを手話ではどう表現するのか。
ろう者は、聞いたことのない音を手話でどう表現するのか?
と言うアプローチはどうでしょうか。

手話ダンス・手話パフォーマンス・パントマイムは、いわゆる「音楽」ではないと私は思います。
手話詩は、韻詩より映像詩です。
つまり音声ではなく視覚的詩です。

音楽=遊びと短絡的結論はなんら重要ではないと私は思います。

大学院の公開講座と言うので大いに期待したのですが、これが大学院のレベルなのと残念でした。

しかし、始まるまでに時間があったので、護国寺駅で下車して、護国寺をみて、池袋を経て立教大学まで、ウォーキングできたことがせめてもの慰めであった。

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1 コメント

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Unknown (トマト)
2020-05-10 11:30:18
詳細はわからないですが、立教大学って、御粗末な学校ですから、さもありなんと思います。
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