風そよぐ部屋

ウォーキングと映画の無味感想ノート

映画/多田便利軒・津軽百年食堂

2011年08月19日 | 映画

面白かった。
映画のタイトルの『まほろ駅』と言う架空の駅・町が出て来る。
どこか見たことがあるなと思うと、やはり町田駅周辺のようであった。
瑛太(多田)はまほろ町で、便利屋を営む。
仕事で出かけた多田は、郊外のバス停で、サンダル履きでいかにも貧しそうな松田(行天)とバタっと会う。
多田は、小学生の時行天の小指に大けがをさせ、そのことに後ろめたさを持っていた。
行天は、伊藤ゆかりの『あなたが噛んだ小指が痛い』を口ずさみ、多田の所に転がり込む。
行天は立ち去る時バス停のベンチの上に「包丁」を捨てて行く。
この事情は、映画の終わり頃に明かされる。
松田龍平を初めて見た。彼は、表情を変えず、台詞も独り言のように話す。
行天の実像がなかなか?なのだが、彼の台詞はとても哲学的味わいがあって(覚えてはいないが)、
映画が進むにつれて、彼の「特異な優しさ」というかナイーブさが伝わり、それがこの映画に深みを与えている。
走るシーンで松田は腕を下の方で小刻みに小さくしか振らない。
これはどう見ても運動の苦手な人の走り方だ。
それは彼の演技なのかどうか分からないのだが、演技だと良いなと思った。
松田龍平は味わいのある俳優だなと思った。
行天の元妻役は本上まなみ、彼女の映像を見るのは初めてだが、意外に背が高く、年取っていた。
彼女のスローな話し方はとても耳に良かった。
瑛太は台詞が単調で上手いとは言えない。
薬とやくざが出て来るが、極悪人でないのは良いが、薬を扱うのは良くない。
多田と行天の二人がいつも煙草を吸っているのは非常に不愉快で、悪い。
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ストーリーに特別の工夫があるわけではなく、いわゆる「ご当地もの」だけ。
青森弘前城の桜はきれいだが、それだけ。
オリエンタルラジオの藤森はへただった。
ソバが題材の映画なのに、ソバを美味しそうに食べる表情でなかったのが残念。

アメイジング・グレイスAmazing grace/Somewhere

2011年08月11日 | 映画

イギリスの奴隷貿易撤廃を巡る物語。
私は、この史実をよく知らなかったので、興味を持って見ていたのだが途中から不愉快さも覚えた。
それは、イギリス社会・文化の鼻持ちならない尊大さに不快感と怒りを覚えたから。
イギリスは、現代民主主義の基礎を気づいたなどと言われるが、それは植民地主義=他民族の侵略と略奪の上に得たものだ。
イギリス上流階級の地主と貴族は「上品」を気取るが、それは多くの人々の犠牲・搾取によって得たものだ。
この映画でも、奴隷貿易反対の根拠・理由は薄っぺらいヒューマニズムだけだった。
彼らの犠牲の上に成り立つ自分たちの「不労裕福」の反省や彼らへの謝罪や賠償などは皆無であった。
イギリス・フランス・スペイン・アメリカらはかつて侵略し搾取した人々への真の謝罪と賠償を今日なお果たしていない。

折しも、イギリスでは民衆の"暴動"が起きている。
発端は、車に乗っていた黒人男性を警官が射殺したことだ。
世界中で、人々は現在を楽しく、将来に希望を持って生活できないでいる。
他方、一部金持ちは円やドルを売ったり買ったりして儲け、先の地震では100億円もの寄付をした人もいるし、
ビル・ゲイツの資産は5.5兆円で、世界の国の中で75番目位、エチオピアや北朝鮮をはるかにしのいでいると言われる。
人々の願いは、遊んで暮らすことではない。
日々まじめに仕事し、税金を払い、食べ、寝、時々余暇を楽しみ、病気になったら医者に行き、年取って死んで行くこと。
そんなささやかな幸せを与えることが出来ない社会に人々は怒っているのだ。
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67回ヴェネチア国際映画祭金獅子賞受賞と言うが、私としては駄作以外の何物でもなかった。
ソフィア・コッポラ監督つまり父親の七光りで受賞したとしか思えないのは私のひがみか。
さて、映画のストーリーは、ハリウッドスター・ジョニーは、フェラーリを乗り回し自由気ままに生活している、
離婚した元妻と暮らす娘と短期間一緒に暮らすことになる、
彼は、自分の日常の日々が空虚な人生だと知るストーリー。
彼らには一切の生活感を感じないし、コッポラ監督はつまらないシーンをノーカットで長時間、例えば、
つまらないデリバリーストリップショウを2回も延々と流す、プールサイドで寝っ転がる二人のシーン、ただ煙草を吸うシーン、
私は、途中で退席しようと何度と思ったことか。
映画祭の"賞"ほどいい加減なものは無いとつくづく感じます。 [見たのは、8月1日]

小出裕章「いま福島原発で何が起きているか」/映画・チャイナシンドローム

2011年08月08日 | 映画
広島原爆の日の8月6日、蕨市のホール『くるる』で映画会があった。 
小出裕章「いま福島原発で何が起きているか」
小出さんは、京大原子炉研究所の先生で、御用学者ではない数少ない原子力研究者の一人。
この日は、講演会ではなく5月頃行われた小小出裕章へのインタビュー「いま福島原発で何が起きているか」(DVD)の上映。
小出さんのお話は、かなり一般的なことだったので私には少し退屈な所もありましたが、
放射能に汚染された農産物を食べて、福島の第一次産業を守る、と言うお話にはドキっとしました。
第一次産業を守るとは、汚染された農産物を政府や東電が買い取って廃棄することで成り立つそれではない。
生産者は、自分の作るものが消費者に食される期待や喜びがあってこそ生き甲斐を持って生産できるのであって、
廃棄を前提とした生産は、生産者の尊厳や矜持を奪うものであって、結局廃れれていくに違いない。
原発に依存した今日の社会を作ってきたことに年配者は一定の責任を負うのであって、福島の第一次産業を守る責任をも持つことになる。
もちろんその前提として、東電は全ての生産物の放射能値を公表し、60歳代はここまで食すことが出来る、などのガイドラインも必要だと説く。
放射線の被曝による影響は、年配になるほど逓減するのだし、多くの人が罹病する癌への特別の影響も加齢によって減っていくのだから。
汚染された作物を食べよう、という主張は新鮮味や重い問題を提起しているが、どれほどの現実味や大衆に支持されるかという疑問は残る。
だが、今日の復興を巡る論議では、人々の誇りや生き甲斐に支えられた第一次産業の存続という視点は全く欠落しているのであって、
実に新鮮で健全な視点を投げかけていることは特筆することだと私は思う。
日本の社会はこれまで、「自分だけ(国・会社・個人)儲かればよい」と言う社会であって、
他の人々の喜びや悲しみにを思いを寄せ、お互いが誇りや共感をを持って生きることが出来る社会の有り様は今後目指すものかもしれない。
私にはその具体的姿や道筋は見えてこないのだが。
第二は、子ども(学童や児童)への被爆の影響は極めて深刻と言うこと。
20ミリシーベルトは、小出さんのように原子力に関わる人の数値なのに、政府はそれを子どもの被曝量限度値にしている。
子どもの被爆をより少なくするためにも恒常的ではない、"疎開"のシステムが必要とされている、との主張も納得できる。
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原題:The China Syndrome、ジャック・レモンとジェーン・フォンダ主演の1979年制作のアメリカ映画のDVD上映。
もし、アメリカの原子力発電所がメルトダウンを起こしたとしたら、地球を突き抜けて中国まで熔けていってしまうと言うジョークから。
この映画が公開されたのは1979年3月16日、そのわずか12日後の1979年3月28日に、スリーマイル島原子力発電所の事故があった。
原発の所長ゴデルは、施設の整備不良があり、今すぐ発電所を止めないと大変なことになることに気づきくが、
彼は追い詰められ、原発の中央制御室を占拠せざるを得なくなってしまい、その場でマスコミを使って訴えようとするが、
利益優先の経営者らの策略で射殺されてしまう。
アメリカ映画としては原発のメルトダウンや大爆発を描くのは無理ではあるが、
警備員の拳銃を奪い、原発の中央制御室を占拠し、警官に射殺されるといういささかちゃちで荒っぽい結末には大失望ではある。

この映画の後、今中哲治さん(京大原子炉研究所の先生)の「低線量被ばくとは」(DVD)の上映が行われたが、
夕方から友人の送別会に参加したので見なかった。
その友人とは、木の根プール再生や原さんのお墓などを身守ってこられた人で、
彼は、この度、35年住み慣れた三里塚を離れ、お寺や古墳のたくさんある関西・奈良の方へユーターンすることになった。

映画=Soul Kitcen/ソウル・キッチン、Never Let Me Go/私を離さないで

2011年07月28日 | 映画

ドイツ ハンブルグの鉄道の駅跡地の場末の三流レストラン=キッチンが舞台の喜劇映画、十分楽しめました。
現在のドイツを反映して、多数の移民達が登場、当然、言葉も料理も習慣も多国籍。
主人公のジノスは、料理の腕はいまいちなのだが、「良き人」で、でも税金を滞納したりとかかなりズボラ。
恋人が中国に特派員として赴任することから、色々なドタバタが始まる。
冷たいスープ"ガスパッチョ"が出され、客が「さめているから温めてくれ」なんて、安易だけど笑えます。
町でばったり出会った昔の同級生で成り上がりのニューマン、彼が胡散臭いことはすぐ分かるのはご愛敬。
また、ジノスの兄貴は、ギャンブル好きの遊び人のチンピラで、これも見るからに軽薄で危うい、これもご愛敬。
ジノスが恋人を追って中国に行くことになり、キッチンを兄貴に托すことになるのだが、
ジノスはぎっくり腰になり、他方ジノスの兄貴はキッチンの権利を賭でニューマンにかすめ取られと、
良くあるパターンの連続もまっいいか。
キッチンでのパーティで大量の催淫薬が入ったデザートを食べた客達があちこちでご乱交となるのだが、
セックスシーンは余分だし、ニューマンが税務署の女職員とご関係を持ってしまうと
この後の映画の展開はすぐ予想できてしまう辺りで、脚本、安易すぎるよとちょっと引き気味なり、
予想通りニューマンは刑務所送りになって……。
せっかく覚醒剤ネタなどを使わずここまでかなり軽妙に進んで来たのに、ここに来て催淫薬を使って予想外の出来事が進展するのは、
喜劇では使ってはならないあまりにも安易な禁止技で残念。
最後の落ちもちょっとひねりがなさ過ぎでした。
前半でネタを使い果たし、後半は息切れって感じですかね。
キッチンを手に入れたい資本家をやっつけるネタは、色仕掛けに彼が負けて彼の奥さんにやっつけられるとか、
やり手税務署職員に脱税で逮捕されるとか、グルメ過ぎて食あたりにあってしまうとか、
もう一ひねり・二ひねりで溜飲を下げるのが欲しかったですね。
ジノスの元彼女が大女で、新しい中国人の恋人はジノスより更に小さいかったりと、かわいい女に強く格好いい男のカップル
というパターンなんてクソ食らえってのも面白い。
私は十分楽しみました。
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原作の日系イギリス人カズオ・イシグロはブッカー賞をもらった作家と言われ、
この映画もいくつかの賞を取ったようではあるが私には映画は何ともつまらなかった。
原作については知らないが、シリアスを装っているが、実は設定がいかにも安易すぎるのだ。
イギリスの名門私立寄宿舎学校かのような雰囲気で映画は始まる。
いかにも「英国式」と言わんばかりの持って回ったような思わせぶりなシーンや台詞が何とも嫌みな映画であった。
実は映画では全く説明がないのだが、この学校は金持ちが自分の将来のために自分のクローンを飼育する学校である。
人の臓器移植だけを目的にするのであれば、人間のクローンを家畜や動物として育てることに徹底すればいいのだ。
言葉や文化や社会生活などは一切教える必要はないのに、養護施設の子どものように育てられるのだ。
敷地外に出でれば、森の悪魔に殺され、食べられるという誠に子供じみた噂で育てられ、それを信じる。
この映画は、クローンを作った金持ち達やこの学校が生まれたいきさつや経営などを一切描こうとはしない。
描くことが出来ないと言った方が精確だろう。
彼らの腕には何かブレスレットのようなものが見えたので彼らは常に監視されていて、
逃亡などを企てると即座に抹殺されるのかもしれないのだが、
そういった事情も一切説明しない。
もしそれらを描いたら、ICチップを体内に埋め込み人間を管理したSF映画『未来 世紀ブラジル』そのもの、となってしまう。
そんな学校で育った三人の男女の姿を映画は、「人並みに人を愛し、悩む」まさに純粋無垢の子どものように描く。
人間的感情を一切押し殺し家畜として彼らを育てるのだが、彼らは人間的感情や理性を獲得し、更に言語さえ獲得し、
さらにこのような現実を生み出した人間と人間社会に反逆を開始するのであれば私は十分納得するのだが、
映画では、彼らには人間的反抗や自主性もないかのように従順であり、 
また、こうした事実を社会やマスコミは知っているのか知らないのか、また知っていて問題なしとしているのか?
映画はこうしたことにも一切全て「ほおかむり」で無視なのである。
人間のクローンは必要か、許されるのかと言った問題を社会的に投げかける意図を持っているのかもしれないが、
「過酷な運命を受け入れひたむきに生きようとする儚い青春の一瞬を描いたピュアな美しさを湛え奇跡の珠玉作」とは、
いかに映画の宣伝とはいえ、よくこんな嘘っぱちを書けるものです。
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一つが喜劇、もう一本がちょっとシリアスではミスマッチそのもの、それが一番の問題でした。[見たのは7/18、満員でした。]

映画/True Grit、Harold&Maude

2011年07月07日 | 映画

グリットとは勇気、映画のタイトルは、"真実の勇気"ってこと?
14才の少女マティの父親は、雇い人に殺され、お金を取られる。
彼女は父の敵を取るために、連邦保安官・コクバーンに賞金を出して彼を雇い、犯人を追跡するというまことに単純なストーリー。
いくら早熟だと言っても14才の少女が、やり手の男達を簡単に口で言い負かしてしまうなんて、もうまるでコメディ。
スピルバーグが制作陣の一員に名を連ねているというのが売りで、10部門でアカデミー賞ノミネートされているというが、
二昔前どころか三昔前のハリウッドの勧善懲悪の西部劇そのもの。
真の勇気の持ち主は飲んだくれ連邦保安官のことを言うらしい。
彼を演じるスタインフェルドは、実年齢は62才だが、映像ではよぼよぼの爺さんって感じ。
追う側には正義・勇気があるのだから何をやっても良いのだ、悪人はまさに虫けらのように殺してしまっていいのだと、バンバン殺される。
「真の勇者」は悪人を有無を言わさず殺しても良いし、それが「勇気・正義」って言うことなんですね。
他方、「悪人」側は、彼女を捕らえても殺さないのだ。
これは、今日のアメリカの姿そのもの。
ビンラディン殺害のためには彼の家族や子ども、そして無関係な市民まで殺して構わないし、
何をやっても良いのだという昔と今のアメリカの姿を見ているようで途中からとても気分が悪くなった。
色んな困難や障害を超人的に乗り越えて、彼らを追い詰め、銃を使わずに捕まえそして公正な裁判にかける。
そうしてこそ「真の勇気・正義」たり得るし、そうした方がエンターテイメントとしても十分楽しめるのに。
こんな映画が、アカデミー賞を取るのであろうか。
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1971年製作だから40年前の映画で、「俺たちに明日はない」などのアメリカン・ニューシネマと言われる一作だ。
これもストーリーは単純。
このポスターのハロルド少年、どう見ても小学生か中学生だが、19才。
自殺を試みるのではなく、自殺の演技・演出つまりパフォーマンスを演じることが彼の「趣味」だと言う。
死んだ夫が大金持ちだったのかその未亡人は息子に高級車のジャガーなどどんどん買い与える。
大金持ちのぼんぼんが、死を弄ぶ映像が何度も繰り返され、とても不愉快である。
一方、79才のモードは、アウシュビッツを生き延びたユダヤ人女性のようである。
ようであるというのは、数字が入れ墨された腕が一瞬スクリーンに映し出されるだけでその説明は無いからである。
彼女は、残された人生を楽しむかのようにかなり自由奔放というか、気ままに生きていて、他人の葬式に顔を出し、
その後、車などを一時拝借するなどを「趣味」にしている。
何度か葬儀場で遭遇し、ハロルドの高級車を改造した霊柩車が彼女に盗まれたことから二人が意気投合し、
二人が恋愛関係に陥り、ハロルドは彼女と結婚すると言い出す。
私は、この結末、つまりどのようにして映画を終えるのかだけが、興味となった。
80才の誕生日の二人だけのパーティの前に服毒した彼女はその日死んでしまう。
彼は、高級車を崖から落とし、バンジョーを弾くところで映画が終わる。
何とも後味の悪い映画であった。
二人が恋愛関係になるのは構わないが、ナチスのホロコーストを生き延びた彼女が何故自死したのか。
金持ちのぼんぼんが暇と金をもてあましているだけ。
極めて安易な設定なのです。
それはそれで映画としては楽しいのだから、死を弄ばず、車の排気ガスで苦しんでいる並木をどんどん山に移植したり、
暇をもてあましている金持ちの爺さんや婆さんをだましてお金をくすねたり、
セックスしか興味のない男女にちょっかいを出してセックスレスの状況を作るとか、
とにかく「不釣り合い」カップルが奇想天外トリックで権力やセックスや見栄や繕いなどをあざ笑う方がよほど楽しい。
ハロルドとモードは大金持ちから大金を詐欺取って、改造したジャガーの霊柩車で愛の逃避行=
人生の新たな旅立ちを始めるって言う終わり方の方がよっぽど洒落ているのに。
ホロコーストを生き延びたモードが死んだのに、ハロルドはノー天気にバンジョーを弾いているんだから。
モードが自死したんのは、ハロルドが結婚を申し込んだからとしか思えない。
“人生讃歌”とはとんでもない宣伝文句だ。

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久し振りに映画館に行ったのだが、駄作で落胆であった。

映画/レオニ・ルイーサ

2011年05月04日 | 映画

松井久子脚本・監督、イサム・ノグチの母の物語。
イサム・ノグチは、日本人の父とアメリカ人の母を持つ日系アメリカ人で、彫刻家・マルチアーティスト。
レオニー・ギルモアは、アメリカで詩作していたイサムの父・野口米次郎(詩人)の出版・編集の仕事に携わり、
彼と恋愛関係になり、イサムを身ごもる。
日露戦争が勃発し、米次郎はイサムの誕生を待つことなく、単身日本に帰国する。
レオニーは一人でイサムを産み、育てる。
その後、彼女は日本で生活するようになる。
イサムが14歳の時、彼にアメリカに留学勧め、イサムは単身アメリカに渡る。
レオニーは、帰米しイサムと一緒に生活する。1933年60歳で病死。
松井は、米次郎や他の男に依存しない女性、自立・独立心の強いレオニーの生涯を描いたのだが、
彼女の魅力と内面を描くことに十分に成功しているとは私には思えない。
また、時代が古いと言うことなのかもしれないが、映像はきれいでなかった。
日本人俳優の英語の台詞がゆっくりで、私にもかなり聞き取ることが出来た。
イサムの生涯を描くことは、この映画のテーマではないが、彼の描き方も平面的に感じた。
太平洋戦争中、イサムは自ら日系人強制収容所に志願拘留された。
しかし、彼はそこで日本人からアメリカのスパイと疑われ、自ら収容所からの出所を希望するが、
今度は、アメリカ側から日本人であるとして出所はできなかった。
私は、彼の芸術活動を詳しくは知らない。
晩年、札幌市のモエレ沼公園の計画に取り組み、その完成を見ることなく、ニューヨークで1988年84歳でなくなった。
モエレ沼公園の写真[引用]  イサムデザインの子どもの遊具







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アルゼンチンのブエノスアイレスで暮らすルイーサは60歳、ある日、寄り添って生きて来た猫が死んだ。
同じ日、彼女は掛け持ちしていた二つの仕事を首になってしまう。
彼女は30年間勤めてきた、"やすらぎ霊園"の受付の仕事を退職金も払われることなく突然解雇され、
有名芸能人の部屋の掃除の仕事も首になってしまう。
彼女には娘と夫がいたがその二人ともすでに失っていた(映画ではその事情は描かれないが)。
猫の火葬代の余裕もない彼女は、冷凍庫に猫の死骸をしまって、これからの行く末を模索する。
人混みが嫌いで、地下鉄に乗ったこともなかったが、銀行に行かなければならず地下鉄に乗ることになった。
そこで彼女が見た物は、実にたくさんの「物乞い」だった。
彼女は、勇気を絞り出して、新しい「商売」に挑戦するのであった。
深刻に成りそうなテーマとエピソードをユーモアと皮肉たっぷりにコメディタッチで描いている。
地下鉄内での、"中国の幸運カード販売"、"松葉杖をつく老女"、"目の見えない老女"など。
「目の見えない彼女」が、スリを目撃して、乗客に「身の回りにご注意を」なんて傑作でしょ。
初めは、地下鉄の乗り方も知らなかった彼女が、どんどん陽気になり、大声を出すことが出来るようになり、
果ては、口げんかさえ出来るようになったり、彼女を首にした女優のポスターに落書きしたり、
最初は、「こんな暗い映画かよ」だったのが、次第に彼女を応援し、最後には彼女に励まされているような感じです。
アルゼンチンの映画を見るのは初めて、私はこの映画を十分堪能した。
彼女の階下に住むアパートの管理人がこの映画に「"節"とアルゼンチン人の優しさ」を感じた。
彼には美人の妻がいるのだが、いかにも風采が上がらない男なのだが、面倒見の良いやさしい男なのである。
館内で笑い声が起きたのも良かった。
映画を見たのは、5月2日。10時50分開始の時、70%の入り、1時20分には通路に座って見る人もいるほどでした。【5/2】

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さて、以下脱線気味だが、
アルゼンチンの事情は知らないが、ソウル、ローマ、パリ、トルコ、アジア、中南米など、
日本の昨今ではこのような情景を見ることはほとんどないが、
私が旅した少なくない国々で、"物乞い商法"と"物乞い"はよく見かける日常的風景でした。
鉄道、繁華街、教会の前、特に多いのが地下鉄の通路と車内です。
私は、彼らが居ると言うことは、それで彼らの生活が成り立っていると言うことだと私は思うのです。
つまり、彼らにお金を払う人々が少なからずいるということであって、
人々が何かしら助け合って生活しているというか相互扶助のような感情が社会にあるのではないかとさえ思うのです。
私には、彼らの紙コップにコインを入れるのは、旅行者よりそこに住む人々の方がはるかに多いと思いました。
電車と地下鉄車内の販売にはユニークで面白い物があります。
ソウルの地下鉄は、特にユニークで明るかった。
CDデッキの大音量を流してCDを売る人、帽子のキャップなどに止めることの出来る懐中電灯を売る人、
これはかつてソウルの地下鉄で大火災があって多くの人が亡くなったためと聞く。
それ以来、ソウルの地下鉄の座席は、布製から金属製になったという。
雨が降ると、黄色の合羽を着て、合羽を売りに来ます。
雨と言えば、イタリアでは雨が降ると、乳母車に傘を乗せた傘売りがたちまち増えました。
欧米人は傘をささないなどと言われるが、フィレンチェ・ナポリではやたら大きな傘を多くの人が持っていました。
鉄道では、女の人が子どもと一緒の写真のコピーを座席に置いて行き、暫くして回収に来ます。
彼女は何の説明もしなかったが、「このコピーを買って」と言うことなのだろう。
どこの国かは忘れたが、メトロの中にバイオリンやアコーディオンを演奏して、チップをもらう人、
そして、ヨーロッパでは、メトロの通路や街頭や公園で楽器を演奏している人がやたら多く、
彼らはもちろん趣味でやっているのではなく、仕事としてやっているのであって、チップを求めてです。
また、街頭で動かないマネキンのパフォーマーも多い。
イタリアのコロッセオの前では、ローマ兵のコスチュームを来たたくさんの男達が居て、
彼らは観光客の記念撮影に応じてチップをもらうのです。
ピラミッドの前では警察官さえもが、観光客のカメラでピラミッドをバックに観光客の写真を撮ってチップをもらう。
交差点で車が止まると、車のフロントガラスをきれいにしてチップをもらう人は、確か中南米の国であったと思います。
署名活動をして、カンパを求める人もいました。
驚いたのは、カンボジアで遺跡から出てくると私の顔写真がプリントされた皿を見せられたことです。
ベトナムでもカンボジアでも"ワンダラー"と子ども達がお土産を売りに来るし、
インドやエジプトでは、売り子が子どもではなく大人でした。
またアジアや中南米やイースター島などではトイレの入り口に係りの人がいて、チップが必要だし、
あるいは、ティッシュを渡したり、お手ふきを渡してチップをもらう人もいます。
ヨーロッパの国々では、鉄道や公園のトイレの多くは有料でした。
私は、トルコで電子辞書、ローマでお金をすられたし、
ローマのメトロの切符の自動販売機の脇では買い方をガイダンスする人がいます、
彼らは、ボランティアでそこにいるのではなく、仕事として居るのであって、チップを要求するのです。
その他、紙コップを手にして、路上や公園や駅なでただ座って物乞いする人もいます。
私は、初めは違和感というか、煩わしさというか、イヤな感情が強かったのですが、徐々に思いが変化していきました。
私には、彼らはいずれも「仕事」としてそれをしているのだとつくづく思いました。
もちろんスリだけはヤですが。
私は、以上のことを「嫌悪感」をもって書いて居るのではありません。
それは日本の常識ではないかもしれませんが、「そこにはそこの文化がある」と言うことではないかと思うのです。
そんなことを感じるのも外国旅行の魅力一つではないかとも思いますが、いかがでしょうか。
『ルイーサ』を見て、こんなことをかなり懐かしく思いだした、という次第です。

映画/白いリボン・リッキー

2011年04月18日 | 映画

原題は、Das weisse Band.
カンヌ国際映画祭パルムドール、ゴールデン・グローブ賞外国語映画賞を受賞したと言うが、
私にはよくわからない映画だった。
舞台は、第一次世界大戦直前の1913年7月、北ドイツの小さな村。
大地主や医者や牧師達が村民・農民達を半農奴的に支配し、一家の家父長は絶対的権力で、
子ども達をプロテスタン的価値観で厳しく躾けていた。
牧師の子ども達は、ちょっとした"罪"を犯すと、むち打ちなどの厳しい"罰"を受けていた。
だが、大人の世界は、不倫・不道徳なことや犯罪的日常や弱者への抑圧がまかり通っている。
そんな村の中で、次々に不可解な事件が起きていく。
最後の犠牲になったのは、智恵遅れの男の子だった。
このエピソードは、確かに次代のナチスの優生思想や民族浄化思想が感じられるはする。
おそらく犯人は子ども達なのだが、
映画は、その謎解をするわけではなく、観客に問題を投げかけ、考えろと言っている様なのだが、
「これは難しいテーマなのだ」、と言わんばかりで、監督の独りよがりのような気がする。
子ども達へのこうした暴力的躾けなどが、子ども達に「社会や弱者や罪人達の浄化」に繋がったというのだろうか?
20年後にヒトラーを支えた世代が、この時代に子ども時代を過ごした、ということを言いたいのかもしれないが、
ヒトラーを生み出し、支えたのは決して青年達だけではないし、
封建的プロテスタンもドイツだけではない。
しかし、封建主義・絶対主義的思想を基底に宗教的原理主義が加わると、
優生思想・浄化思想・選別思想が芽生えるとは思う。
それは福音派・プロテスタント・カトリックの違いはないと思うがどうなのだろう。
また、キリスト教だけに限らないでイスラームや様々な原理主義的宗教にも言えることだと思う。
私にはとても後味の悪い映画であった。
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これもよくわからない映画であった。
シングルマザーのカティは、一人娘のリサと慎ましく暮らしていたが、
同じ工場で働くポコにナンパされ、いとも簡単に同棲を始め、リッキーが生まれる。
しばらくして、リッキーには天使の様な羽根が生え、空を飛べる様になり、一家とテレビ・マスコミ世間は大騒ぎになる。
リッキーをマスコミに披露していたある日、リッキーは空の彼方に飛んで言ってしまう。
彼がいなくった後日、新たに身ごもったカティが部屋で休んでいるなか、
ポコはスクーターの後ろにリサを乗せて、小学校・工場へ向かう所で映画は終わる。     [4/18]

映画/ソフィアの夜明け・彼女の消えた浜辺

2011年03月24日 | 映画

原題は、Eastern plays
ソフィアは、女性の名前ではなく、ブルガリアの首都。
ブルガリアの映画を見るのは初めてだと思う。また、私は、ブルガリアについては知らない。
トルコ人がブルガリアで差別されていることも知らない。
主演したフリスト・フリストフはこの映画の撮影終了直後事故で亡くなったという。
主人公のイツォは、青年芸術家と紹介されているが、中年の様な感じ。
イツォ兄弟は閉塞した社会の中で、生きている実感・現在と将来の希望を持てず、屈折し、うごめき、
弟はネオナチに心引かれ、兄は鋭敏過ぎる感覚故少し精神を病み始め、ほとんどアル中状態である。
あるトルコ人家族が、ドイツにいる兄の所に行く途中、ソフィアに立ち寄り、ネオナチのチンピラに襲われる。
チンピラ見習いの弟はその見張り役であったが、彼は自分の居場所がここではないと気づく。
その場にたまたま出くわした兄は止めに入り、怪我をさせられるが、一家は助かる。
彼は、その一家の若い女性・ウシェルとささやかな交際を始める。
だが、彼女の父親は娘が異邦人とつきあいするのを認めることが出来ず、一家は彼に黙ってトルコへ帰国してしまう。
イツォは一人取り残されるのだが、弟とも心を通わし始め、何とか踏ん張った。
彼が暗闇のソフィアの町を彷徨う映像の後、
一瞬トルコ国旗が映り、その町の雑踏にたたずむイツォの姿が映し出され、映画は終わる。
映画の題材としては、取り立てて目新しいものでもないし、ドラマチックなストーリー展開があるわけではないのだが、
私は、はらはらして映画館にいた。
旧東欧諸国社会は、東の世界からユーロに目を向けたのだが、でもその道は決して平坦ではなく、大きな困難を抱えている。
この映画は、旧東欧社会が行き詰まるほど閉塞し、明るい兆しの見えない時代を映し出していると私は、強く思った。
私の感受性はもうかなり鈍感にはなっているのだが、イツォたちの抱える思いは、日本の若者達が抱くそれであると感じる。
イツォと彼女が結ばれる結末でもなく、絶望して酒やドラッグにはまり、ソフィアの町を彷徨うのでもなく、
トルコの旗が、一瞬映し出された時、あぁ彼は一歩前に踏み出したんだと安堵し、同時に
この終わり方は、すごくありふれているんだけど、私にとっては穏やかに映画館を去ることが出来る終わり方でした。
ちょっとエモーショナルだけど、この映画は佳作です。
イツォとトルコ人のウシェルの会話は、私にも聞き取ることが出来る、ゆっくりでやさしい英語でした。
異なる言語で向き合う民族や人々が、共通の言語やジェスチャーで会話し、気持ちを交わしあうことが出来るのは、やはり素敵です。
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原題は、Darbareye Elly[何語でどんな意味かはわからないが、Ellyはいなくなった女性の名前]
以下の様に色々な賞をもらっているようである。

ストーリーは簡単だが、ちょっと無理がある。
テヘランに住む中流の数家族がカスピ海沿岸にバカンスに出かける。
その目的の一つは、このバカンスを計画した女性・セピデーの、離婚したばかりの弟の見合い、である。
その相手が、エリ。彼女には婚約者がいるのだが、その婚約を破棄したいと思っている。
そうした細かい事情をセピデーは皆に隠していた。
つまりこれはかなり無理なストーリーなわけ。
男達がバレーボールに興じ、女達は部屋の掃除やバカンスの準備にいそしんでいる間、幼い子ども達が海で遊んでいた。
エリに子どもを見ていてと親は頼んだが、こんな荒い波の浜辺で子ども達を遊ばすのが次の無理筋。
たこ揚げを頼まれたエリが、たこ揚げに夢中になり、子守を忘れ、我を忘れるほどたこ揚げに興じてしまうのが、次の無理筋。
ストーリーにいくつもの無理が重なり過ぎで、イライラしました。
子どもの一人がおぼれ、またその頃エリも行方不明になってしまう。
エリもおぼれたのか、自分勝手に帰ってしまったのかでワイワイガヤガヤもストーリーとしては無理。
どんな変人であっても、勝手に帰ってしまうなんてあり得ないもの。
こうした事態に、各自がそれぞれ責任を転嫁したり、非難しあったりで、夫婦・友人の絆、信頼関係がどんどん怪しくなっていく。
そのうち、エリに婚約者がいることが皆にも知れ、その婚約者が登場し、さらに大騒ぎになるって話。
映画の始まりから、小一時間があまりにも冗舌というか退屈であった。
バカンスの場に行くまでの馬鹿騒ぎ、借りた別荘が使えなくなり、使用されていない別荘を新たに借り、その掃除や
バレーボールや皆でのジェスチャー遊びなどが延々と続いた。
この幸せは、不注意や偶然の重なりで、すぐ壊れてしまうもろいものだ、と言う暗喩を示したいのかもしれないが、
10分で十分である。
日本では婚約と婚約の破棄はかなりルーズだが、この映画を見る限りイスラム社会では厳格の様である。
エリは自分の意志で婚約した様なので、自分の意志で婚約を破棄すれば何の問題もないのに。
この映画は多くの賞を取っているが以上のようなわけで、私には佳作とは言えない。
出演している女優達は、息をのむほど、とびきりの美しさです。

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今回の大地震以後、初めての映画であった。
自粛していた訳ではない。
Movixは計画停電で閉館だし、あまりにも混雑する電車には乗りたくなかったからである。
土・日・休日は電車は座れるほど走っていて、ジムも休みだし、雨も降っているので出かけた。
12時過ぎからの回、館内は70%ほどの入りだろうか。おそらく雨の休日としては空いている方かもしれない。【3/21】

映画/冬の小鳥・トロッコ

2011年02月24日 | 映画

文句ない秀作である。
原題は、"Une vie toute neuve"、フランス語で「全く新しい命」と言う意味らしい。
私は、この映画が韓国・フランス映画とは知らなかった。

冒頭、父親らしき人物の運転する自転車に乗せられている幼い女の子・ジニの二人の姿がかなり長い間映り、
その後、買い物をし、食事をし、そして二人で食べるには大きすぎるケーキを買うシーンが続くのだが、
自転車を運転する男の顔は映し出されない。
農村を走っていた車から出て来た少女が田んぼの片隅でおしっこをし、車に戻る時真新しい靴がぬかるみにはまって汚れてしまう。
この冒頭のシーンは、これからジニの身の上に悲しい出来事が訪れることを予感させる。
ジニは、児童養護施設に置いて行かれる。
その時初めて父親の顔が短い時間映される。

以下は、監督・脚本のウニー・ルコントの言葉。
【脚本は、私の母国語である韓国語で書かれるべきでしたが、私はすっかり言語を失っていました。
フランス語で書くことになりましたが、私は映画という共通言語で書くことを信念としていました。
それこそが私のハンデを補ってくれると信じていたからです。
『冬の小鳥』は、私が過ごしたカトリック系の児童養護施設での体験に着想しています。
自伝的な要素を消し去ることは困難でしたが、同時にただ記憶の再現にとどめる気も全くありませんでした。
捨てられ、養子にもらわれていくという途方もない状況に面した少女の感情を、現代にも通用する形で表現したいと思ったのです。
二つの人生が交差したあの日々。諦めることを学ぶ必要もなかったそれまでの人生と、限りなく切望することを知る人生。
その二つの結び目をしっかりほどいて見せることは、映画でしかできないと思ったのです。
私はどのように施設に行ったのか覚えていませんが、ジニのように家族が私を迎えに来るのを期待して、心うつろに待っていた記憶はあります。
あの時抱いていた一縷の希望は、生涯忘れることができません。
この映画は、捨てられた子供が感じる怒りと反抗、子供は受動的な存在ではなく、喪失感や傷を感じられる存在なのだということを描いています。
「養子」の話ではなく万人が理解できる「感情」についての映画です。
ジニはたった一人世界に取り残されてしまいますが、そこから新しい人生を生きていくことを学びます。
これは愛する父親を失ったからこそ学びえたことです。今の私の人生があるのも、両親が私を捨てたおかげです。
同時に「どうして親が子を捨てられるのだろうか」という問いかけも数え切れぬほどしてきました。
ありがたみと捨てられた痛み。実の両親を思い浮かべると、コインの裏表のような感情が複雑に交差します。
実父にこの映画を観てほしいとは思いますが、捜してまで会うつもりはありません。
今まで父が私を訪ねてこなかったのは、父には別の人生があるということですから。】

この映画には、悪人・意地の悪い人は登場せず、暴力やいじめや嫌がらせのシーンも全くありません。
また、ものすごくドラマティックなストーリー展開もありません。
児童養護施設の日常の生活をまさに坦々と描きます。
子ども達が一人、また一人と養子となって施設を出て行きます。
もうすぐで青年になるイェシンは施設を出て行かなければならないのだが、彼女は足に障害を持っている。
彼女は施設に出入りする青年に密かな想いを持っていて、彼に思い切って告白するのだが振られてしまう。
死にきれなかった彼女は、仲間の子ども達の前で謝罪をするのだが、子ども達は笑い声をあげる。
誘われる様に笑い声になった彼女は、老いた夫婦に家政婦のように引き取られる。
このエピソードはこの映画のクライマックスでした。
彼女たちの人生は、自分が選んだものではけっして無く、彼女たちには何の責任もないのだが、
それは個人ではどうにもしようのないほど重たい現実で、理不尽・不条理としか言いようがないのだが、
彼女たちは、ウニーさんが言う様に、新しい人生を能動的に生きていくのです。
そして、「今の私の人生があるのも、両親が私を捨てたおかげです。」というウニーさんの言葉は重いです。

子ども達が養子にもらわれていく時、施設の子ども達は"蛍の光"を歌って送り出すのですが、
その時の表情・笑顔はこの上なく素晴らしいです。
この表情を引き出した監督・カメラ等のスタッフと大人のキャスト達はすごいです。
私は、このシーンだけでもこの映画を見る価値はあると思う、と言うのは私の言い過ぎでしょうか。

これは、スチール写真ですが、映画のシーンはもっと素敵です。
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原作は芥川龍之介の『トロツコ』というが、それは正確ではないと思う。失敗作である。
私は、芥川のトロツコはもう覚えていないが、舞台は台湾では無いと思う[違っていたらごめん、です]。
すでに使われなくなったトロッコで遊んだ郷愁を題材にしているというだけで原作というは、
芥川の名を借りて宣伝する手立ての様な気する。
映画の舞台は、携帯電話の現代であり、敦一家は若くして無くなった台湾人である父親の遺骨を台湾の祖父の元に届ける。
そこにトロッコがあり、トロッコで遠出する。
旅行作家を仕事とする母親は、台湾人と結婚したとは言え、ずっと日本で生活してきたのに中国語がぺらぺらである。
祖父は、日本の植民地政策である創氏改名で日本名を名乗り、帝国陸軍に入隊した経験を持つ。
この植民地政策とその後の日本政府の不誠実な責任の問題が、あたかもこの映画の主題のよう、である。
敦達兄弟は自分たちだけで勝手にトロッコに乗ったのではない、
そのトロッコの持ち主で林業を営む青年に促され、勧められて乗ったのである。
寂しくなった兄弟が泣きながら帰ると言いだした時、そこはもうかなり山奥で、夕方が近づいているのに、
その青年が彼らの後を追わないで、彼らだけで帰すなんて信じられないストーリー展開で、
このあまりに嘘っぽいスクリプトに私は、あ~ぁと思うのでした。

映画/毎日かあさん

2011年02月17日 | 映画

先週末から天気が悪かったのでウォーキングに行かず、映画を見た。
「毎日かあさん」は西原理恵子原作の漫画で、毎日新聞に連載され、テレビでアニメ化され、以前山田優でドラマ化もされた。
その絵は、決して上手くきれいではないのだが、単なるギャグでもなく、かなり独特の世界を持つユニークな漫画で、私は好きである。
映画公開前、毎日新聞紙上では小泉今日子のエッセイ風連載記事も出るなどかなり宣伝されていた。
主演している永瀬正敏は、特に理由は無いのだが、私が好きな俳優の一人だ。

おそらく、山田洋次監督の「息子」、「学校2」、「隠し剣 鬼の剣」などの影響が強いのかもしれない。
今回もとても良かった。
だが、残念ながら映画は失敗作であった。
現在の原作はかなりユニークな子育ての話で、テレビでは夫・父親のカモシダはまだ生きていて、しきりに登場する。
映画では、かつて戦場カメラマンだった西原の夫・カモシダのアル中騒動が主になってしまった。
前半は型破りな二人の交際や子育てでかなりコメディタッチで面白いのだが、後半は一挙にシリアスになってしまう。
私は、コメディタッチの物語を小気味・テンポ良くもっと長くし、アル中騒動はもっと控えめにすれば良かったと思う。
だって、この映画にシリアスさは求めない、と私は思うのです。
アル中の失敗話を軽妙に笑い飛ばすのだが良いんであって、アル中の解決策を求めて映画館に来ているんじゃないでしょ。
酒は飲まずにはいられないでしょ、でもアル中になったらそれは病気だから専門的に治療しようね、で良いと思うんだけど。
NHKのテレビドラマ、漫画の“連れが鬱になりまして”が良かったのもシリアスなんだけど「軽く」扱うのが良かったと思う。
小泉が、失敗する永瀬やブンジをひっぱたく場面は、自然に手が出ている様にほんとにたたいていてよかったし、
永瀬の子煩悩ぶりはまことに自然というか上手く、最高でした。
この"幸せさ"がほおずりしたくなるほど・いとおしいく心温まるだけに、あぁこれが壊れて行くんだなという予感が怖かった。
テレビアニメでは娘・フミはまだとても幼く、会話もままならない。
フミを演じる声優藤井結夏のオトッシャン・オカッシャンのシャンの台詞はとてもかわいらしく、耳に心地よく、
彼女の人気はブレーク中らしい。
映画ではそれがあまりに多様・連発され過ぎ、そのかわいさは減退を越えて、耳障りになってしまったのも失敗でした。
漫画・アニメのブンジはとてもユニークなキャラクターで愛くるしいのだが、映画でその味を出すのも難しかったですね。
つまり、私は期待が大きかっただけに、映画の出来としては感動が小さく、私には期待はずれだったと言うことでしょう。
映画の最後、癌に冒されたカモシダは、それまで忘れてしまっていたカメラを取りだし、日常を撮るシーンは出色でした。
私は、永瀬が実際に撮っているなと感じて見ていました。
すると永瀬が撮影したとのコピーが流れ、その写真がモノクロで紹介、映されました。
それらは良い写真でした。
撮影する永瀬は、ほとんど泣いていました。
それは演技を越えて、彼が死を間近にしたカモシダになりきっていたからだと思います。
元夫婦だった永瀬と小泉が夫婦を演じていました。

映画/闇の列車、光の旅・ペルシャ猫を誰も知らない

2011年02月03日 | 映画
予告遍を見て、ぜひ見たいとは思わなかったのだが見に行った。佳作とは言えないがけっして駄作では無かった。
「闇の列車、光の旅」だけ見て帰ろうと思っていたのだが、「ペルシャ猫を誰も知らない」も見た。


私は中米についてまるで知らないので、この映画が中米の実態をどれほど正確に描いているのかはわからない。
しかし、真実の一部は反映されているのだろうと思う。
貧困とそこから来る、アメリカへの憧れと子ども達がギャング・マフィアに流れていく、そんな事情である。
ギャングのちんぴらカスペルは組に秘密にして女友達とつきあっていた。
そのことを組のリーダーが知り、襲われた彼女は事故で死んでしまう。
だが、カスペルにはなす術がない。
一方、ある人々はアメリカに行きさえすればここよりはましな生活が出来るとアメリカへの脱出に希望を托す。
だがそれは命がけの旅でもある。
カスペルとリーダー達は、貨物列車の屋根の上に乗ってメキシコを通ってアメリカへの脱出を試みる人々を襲う。
リーダーが少女・サイラに暴行しようとする。
カスペルはとっさに彼の首にナタを振り下ろし、彼を殺害してしまう。
こうしてカスペルは組に追われることになる。
助けられたサイラは彼と逃避行を共にすると言うストーリー。
虐げられたもの同士が、より弱いものを襲い、痛めつけるという出口の見えない悲惨さだ。
それはあまりに不条理で絶望的だが、おそらく現実の縮図なのだろう。
逃避行を続けるカスペルには一縷の望みもないのだが、彼の表情が次第に穏やかになってくるのが印象的であった。
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見ないで帰ろうと思っていたのだが、見始めたら結構面白かった。
現代音楽がそれほど好きではない私には、流れる音にかなり騒々しさを感じたのだが、
礼拝を呼びかけるアザーンのような音楽や、穏やかでしみじみした音楽も流れてこちらは良かった。
ネガルとアシュカンの男女は、国内ではこの種の音楽活動が禁じられているので外国に脱出しようと計画している。
彼らに共感し、手を差し伸べる音楽仲間の素朴な優しさがこの映画をさわやかに穏やかにしている。
臭い牧場で音楽の練習をし、牛の乳の出が悪くなったと言われるシーンには思わず笑ってしまう。
アパートの住民が警察に通報するので、ただひたすら彼の外出を待つ彼らなのだが、彼を決して非難はしない。
この種の音楽活動をすると逮捕されることが真実かは私は知らないが、彼らが悲壮さで音楽するのでなく、
ただ音楽したいだけなんだと穏やかに語る彼らはしなやかで強いなと思った。


相棒・劇場版Ⅱ

2011年01月28日 | 映画

警察庁の省化を目論む小野田官房長(岸部一徳)と警視庁の対決、
警視庁の公安幹部がテロのフレームアップを画策し、
それに巻き込まれて殉死した警官の恋人とその友人の復讐劇というちゃちなストーリー。
警視庁の幹部会議に侵入したその元警察官が彼らを人質に取り占拠するが、強行突入でその人質事件は簡単に解決してしまう。
ここまでのテンポは速く良い。
だが、そこから闇の公安幹部が誰かを右京達が暴いていくのだが、すっかり間延びし、からくりもすぐばれてしまう。
簡単に人質にされ、占拠される警視庁は間抜けだし、
小道具が「モールス信号」と「盗聴器」というのも工夫がないなぁ。
ちょっと前に、「ミレニアム2・3」の緊迫感を味わっていたせいか、「相棒」は迫力不足であった。
まだ、見ていない人のために、事件の顛末・小野田官房長の結末は伏せておきましょう。
MOVIXで見たのだが、音響と座席のゆったりは流石によい。
だが、フィルムサイズがテレビ用のためなのか、ワイドで無く小さく、映像は迫力に欠けるのも残念。
シニアの私は1000円。

映画/ミレニアム3・ルンバ

2011年01月19日 | 映画

ミレニアムシリーズ完結編。
前遍で死んだと思ったリベットの父親はなんと生きていて、彼女と同じ病院に入院してした。
彼女の異母兄の消息も明らかにされなかったが、彼も生きていた。
さて、リベットの父親はかつてソ連のスパイで、その後西側に亡命した。
父親はDVで母親を虐待し、娘は12歳の時父親の焼殺を試みた。
大けがを負わせたが、彼は生き延びた。スウェーデンの公安の一部は、彼を防護するため娘を精神病院送りにした。
彼女はそこでも虐待を受けた。こうして彼女の復讐劇が始まった。[ここまでは前作で明らかにされている]
父親と異母兄はリベットの殺害しようとするが、かろうじて難を逃れようとした彼女は父親の頭に斧を振り下ろす。
過去の自分たちの犯罪が暴かれることを恐れる彼らは、彼女を父親の殺人未遂で捕まえ、再び精神病院へ送り込もうと画策する。
映画は、彼女が病院に入院している所から始まる。
これまでのアクション映画とはガラッと様変わり。
『ミレニアム』とは雑誌の名前でその有能な記者ミカエルとその妹の弁護士が、闇の部分を追い詰めていく。
前半のテンポがちょっと間延びしたのが、ちょっと残念だった。
彼女は裁判で無罪を勝ち取る。
さて、いよいよ異母兄への復讐かと思わせるのだが、とても淡泊だった。
彼女は異母兄が住んでいた所に行く。
そこで待ち受けていた彼に追い詰められた彼女は、建築現場などで使う鋲打ち機で彼の足を靴ごと床に打ち付け、身動き出来なくさせ、……。
私は、前作よりこちらの方が面白かった。
リベットがレイプされるシーンは音声とイメージ映像、暴力シーン・セックスシーンはなく、「映倫」の規制はなし。
そう、映画ではそのような映像は必ずしも必要ないかもしれない。
だが、規制はもっとおかしい。

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前回作より、刺激が少なかった。
フィオナとドム夫婦はダンス・ルンバが大好きな教師。
ダンスコンテストで優勝して帰る途中、道に立つ自殺願望の男性を避けようとして事故を起こす。
ドムは記憶喪失、フィオナは左足切断で義足となる。
ドムが失踪して1年後、彼らは偶然再会し、結ばれると言うだけの筋。
今回の身体障害そして記憶障害は安易過ぎる設定で、私としては評価できない。
そう、これは禁じ手だ。
今回は、陰毛やペニスの露出が無く「映倫」の規制なし。
そう、映画ではそのような映像は必ずしも必要ないかもしれない。
だが、規制はもっとおかしい。

映画/アイスバーグ・ミレニアム2

2011年01月14日 | 映画

職場の冷凍室に閉じ込められた女性、すっかり「氷」の虜になってしまう。
冷蔵庫のフリーザーを覗いては、溜息を。
ついに彼女は、夫と子供を捨てて、氷の国に旅立つ。
この主人公の女性、美人でないのがとってもいい。
おっぱいやパンツや下腹部が丸見えになるが隠さないのも自然で良い。
台詞はごくわずか、しかも字幕を見なくてもお話のストーリーはわかる。
どたばたギャクではないのが新鮮だ。全編コメディなのだが観客席からはクスリとも漏れない。
あたかも深い哲学的寓意を探っているようで気持ち悪かった。
もう少しテンポが速い方が良い。
また、次のギャクがわかってしまうのは若干興ざめ。
例えば、ヨットの上で碇で夫を殴ろうとするシーン、綱でつながれていて当たらないだろうと予想できてしまう、など。
『R18+』とタイトル脇にあるが意味がおわかりですか?
18歳未満は見ることが出来ないと言うことらしいのですが、過剰なセックスシーンがあるわけではありません。
朝起床した夫が着替える時パンツを脱ぐのだが、その時ペニスが映ります、
また彼女が水着に着替える時パンツを脱ぐのだが、その時陰毛が見えます、おそらくこの二つのシーンでそうなったのでしょう。
私には、このシーンが絶対に必要とも思えませんが、あったとしても『R+18』に指定する必要は全くないです。

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サスペンスアクション。
主人公の女性はハッカーで調査員だが、シュワちゃん並の超人的肉体パワーも持つ。
生き埋めされた彼女、墓から生還してしまうんだもの。
彼女を追い詰めていく男は、シュワちゃんの2倍ほどのパワーを持つのだが、遺伝的に痛みを感じない体質、には笑える。
かつての東欧の闇の部分、人身売買や売春などは彼女の生い立ちと結びついているのだが、それはあくまでもプロット。
社会派云々は関係ありません。
セックス描写は抑えが効いていていい。
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「ミレニアム2」は『R15+』です。私にはこちらの映画の方が「アイスバーグ」はるかに刺激的・暴力的なのです。
陰毛・ペニスが見えると18+、暴力シーンがあると15+、と言うことなのでしょうか。
アイスバーグなどは小学生が見たって良いし、楽しめると思うんだけど。                           【1/12】

ヤギと男と男と壁と/ハングオーバー!

2010年12月27日 | 映画

今年一番寒いとの天気予報だったので、ウォーキングはやめて、映画を見に行った。
予告遍はとても面白かったので、期待したのだが、結果は残念であった。

ジョージ・クルーニーの喜劇は二度続いての期待はずれであった。
「米軍の超能力部隊養成を巡る」コメディと宣伝文句は歌うのだが、お粗末な作品であった。
実話とか社会派などと言うが、そんなの無視して徹底的にコメディ・パロディに徹すればよい。
例えば、アメリカは呪いによるフセイン暗殺を試みたが、イラク側もこの超能力部隊がいて念力でこの攻撃を阻止した、とか
大統領が気に入った女の子をゲットしようとこの部隊を利用したが、彼女に赤っ恥をかかせられらた、とか、
全く役に立たない超能力というか超主観主義の連続のおかしさ、をいかにもまじめに描いたりとか。
ところが映画は、とても中途半端で創造性も工夫も奇想天外もなく、途中からはすっかり退屈してしまった。
アメリカは、「神秘」となるとアジアとなるのだろう、合気道やヨガのポーズが超能力修行になってしまうあほくささには笑ってしまった。
映画の最後が覚醒剤では、これはもうお笑いとはいえない禁じ手であった。
せっかくの企画なのに至極残念であった。
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原題は、ハングオーバー(二日酔い)と芸がないが、二日酔いではなく覚醒剤酔い。
「独身さよならパーティ」のハチャメチャは過去に何度も映画となっているので普通のストーリーでは笑いを取れないと思ったのだろうが、
単なる酒の飲み過ぎではなく、覚醒剤を飲んでの常軌を逸した騒動、だが、これはコメディでは絶対的に取ってはならない手法だ。
覚醒剤なしに、泥水なしで失敗したり、冒険したり、まじめに行動するのだがどこか歯車がずれてしまっておもしろさを産む所がコメディ。
花嫁の父が、義理の息子にベンツを貸してぼこぼこにされたのに、「独身さよならパーティなら仕方ない」なんてイヤミだ。
「ファック」と言う言葉の洪水は何とも耳障り、もっとおしゃれで皮肉に満ちた台詞にしてよ。
アメリカでは大ヒットしたと言うが、私は文句なしのC級・愚作と思う。

二つの映画は、コメディなのに覚醒剤という非日常のアイテムで笑いを作ったり、物事の解決をしたりと余りに安易だ。
それでも、映画は決してつまらなくはなく面白いのに、映画館には笑い声がほとんどなく、観客は静か。
あたかもコメディではなくシリアスな文明批判の映画をまじめに批評的に見てるって感じでとてもヤな空気であった。
最近の映画館は、静かにしていなくてはいけない、笑ってはいけないという空気が漂っているように感じる。