goo blog サービス終了のお知らせ 

風そよぐ部屋

ウォーキングと映画の無味感想ノート

映画/ネブラスカ

2014年07月13日 | 映画

ロードムービーです。
デイビッドの父、ウディは「100万ドル支払う」という雑誌社の手紙を受け取ります。
でもそれは、「当選番号と一致すれば」の条件がつくジョーク=インチキなのですが。
ウディは一人で歩いて遠く離れたネブラスカに賞金を取りに出かけます。
同棲相手から三行半を貰い落ち込むデイビッドは「長くない親父と少しつきあうか」と軽い気持ちで、ウディを車に乗せます。
彼は軽度の認知症気味と私には思われます。
死ぬ前に、もう一度故郷を訪れたいとの思いに駆られたのでは無いでしょうか。
二人の珍道中が始まります。
途中から身を案じたウディの妻・ケイトとデイビッドの兄も合流し、両親の故郷(ホーソーン=架空の都市)に立ち寄ります。
何十年ぶりに訪れた彼らは、かつての隣人達と懐かしい再会をします。
ウディが「くじに当たった」と知るや、「昔、彼に金を貸したので返せ」、と彼らは豹変します。
「皆私のパンツの中身を狙っていた」が口癖の彼女の「Fuck you!」(字幕は"くたばれ")の一言で、
無心に来たかつての隣人は退散です。
ケイトのキャラクターが傑作で、彼女がこの映画を非常に魅力ある映画にしました。
全編モノクロが落ち着いた雰囲気を醸しだし、デイビッドの穏やかさと優しさがそこに上手く溶け込んでいます。
二人が強盗に襲われ、「当選した手紙」が奪われるシーン不要でした。
それを除いて、特別なドラマチックな出来事がないのも良いです。
ロードムービー2作でした。「旅人は夢を奏でる」は、珍しいフィンランド映画でしたが、
私は、「ネブラスカ」の方に軍配をあげます。                   【7月7日鑑賞】

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

映画/旅人は夢を奏でる

2014年07月10日 | 映画

原題はフィンランド語でTie Pohjoiseen 、意味は、「北への道」
日本の題名、「旅人は夢を奏でる」は、陳腐です。
ティモは、有名で人気のあるピアニストです。彼の元をみすぼらしい姿の男が訪れます。
彼は、ティモが3歳の時、家を出た実の父親レオでした。
ティモの妻は、彼に愛想を尽かし、実家に戻っています。
レオに足が悪いので北のウルフランドまで送ってほしいと無理強いされたティモは向かいます。
その車は、レオが駐車中の車の窓を開け盗んだもの、普通はそんな車には乗らないのに。
ティモは、その存在を知らなかった異母姉、次に祖母の元に案内されます。
彼らとの話の中で、彼は実の母と育ての母がいるらしいことがわかります。
次々と明らかにされていく彼の過去に彼は戸惑いを覚え始めます。
にわかに映画は、ロードムービーからミステリアスになっていきます。
途中、妻の実家に立ち寄ると、妻は男性と親しげに話しているのでした。
最後に、二人は、ティモの実母のもとを訪れます。
レオは、彼女と結婚したかつての銀行強盗仲間に銃で撃たれ、そして死にます。
「北への道」は、自分の人生はそう長く無いと感じたレオが、ティモの出生の秘密、
別居するティモの妻のところに彼を連れて行く道だった、でした。
飲んだくれで、不良のレオが「善良な父親」って言うことなのでしょうか。
レオの声は、気味が悪いほどの低音で、魅力的でした。
ティモはレオの音楽の才能を受け継ぎ、同時に糖尿病も受け継いでいました。
映画は、ティモがピアノを弾く場面で終わります。
その曲名を私は知りませんが、冒頭の濃厚なクラシックでは無いシンプルな音楽でした。
ノーネクタイで演奏する姿は、彼の一皮も二皮もむけたティモを示すのですが、
出て行った妻と簡単に"寄り"を戻してしまうなんて…。
おいおい、それは無いだろっ、です。
偽造パスポートを所持するレオ、万引きしたパンストを被りコンビニ強盗、車を盗み、ガソリン代を踏み倒す、大麻(?)を吸う、
最後は銃での殺人など、それらはただ映画を面白くするための小道具としか言いようがありません。
そんな異や奇の衒い過ぎは不要で、フィンランドの雄大な自然の中、
レオやティモ達の揺れ動く内面をシリアスにならない程度にコミカルに描く方が私の好みではあります。
でも、それだと違う映画になってしたでしょうが。
フィンランドでは大人気を博したそうですが、普通の出来です。  【7月7日鑑賞】
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

映画/小さなおうち・そして父となる

2014年06月26日 | 映画

山田洋次監督の腕もだいぶ耄碌したなって感じました。
ストーリーも台詞もほとんど工夫や創造性、新鮮みが無いからです。
倍賞千恵子、橋爪功、笹野高史、小林稔侍など山田洋次ファミリーなどともてはやされていますが、辟易・うんざりでした。
松たか子が下手くそな吉岡秀隆と不倫するなんて問題外、ミスマッチです。
戦前の懐かしき昭和モダニズムなどと言いますが、庶民の生活とはほとんど無縁のプチブルの目線だけです。
小さなおうちなどと言いますが、決して小さくはありません。
この映画、つまり、お金持ちの家の不倫騒動だけのお話です。
さて、体が弱く招集されて来なかった正治(吉岡秀隆)も招集されることになります。
女中・タキは、女主人の時子に「不倫相手・正治と会うのはまずい、手紙を書け」、と言います。
ところが、タキは時子の手紙を正治に渡しませんでした。
彼女は、独身を通し、その手紙を死ぬ最期まで持ち続けます。
タキは手紙を渡さなかった負い目と時子が好きだったので義理を通したのか、
それとも自分が正治が好きで時子の邪魔をしたのか、
好きな時子が正治の虜になるのが耐えられなかったのか、結末はもったいぶってぼかされています。
いずれの筋書きも説得性はありません。
松たか子の美しさと艶っぽさがせめてもの救いでした。
なんと言っても、136分は饒舌すぎ、長過ぎで退屈しました。
---------------------------------------------

2ヶ月ほど前、フランス映画「もう一人の息子」を見ました。
同じように病院で赤ちゃんが取り違えられました。
こちらの映画は、一方はイスラエル人、他方はパレスチナ人と状況はかなりシリアスです。
と言っても、当事者に取っては状況は関係なく、シリアスさは同じですが。
「もう一人の息子」の主人公は思春期を迎えた青年です。
「そして父になる」の主人公は父親・親です。
この二つの映画は、題材がとても似ているのですが、親の視点から捉えるのか、子どもの視点から捉えるのか、大きく違います。
二つの家族にとってはどちらの親が真の親かは重要ですが、
自立し始めた青年には、それ以上に自分達のアイデンティティー・これからどう生きるかの問題がはるかに重大です。
日本映画、「そして父になる」は、残念ながら映画としては普通です。
何よりダメなのは、両方の親・家族の描き方が余りにステレオタイプ過ぎるのです。
福山雅治演じる父は、ハンサムで一流企業のエリート。
他方、リリー・フランキー演じる父親は、生活は豊かでは無いが電気屋を営み子煩悩な庶民。
福山は企業人間ですが、家庭や子どもも大事にするのですが、子を自分が描く理想とする姿に育てようとしています。
そう、途中で、映画の結論、以降のストリーが見えてしまうのです。
二人の子どもの体格が極端に違い過ぎるのも違和感がありますし、子役の芝居が余りに下手くそ過ぎです。
彼らの描き方もこれまたステレオタイプで、新しい現実に直面した二人の内面や彼らの疑問にはほとんど触れません。
「解決出来ない悩み・苦悩」の内面を徹底的にえぐりたいのだが、解決作は無い、どうしたら良いんだろう、
その判断を観客に委ねるのが良いのですが、それを映画でどう表現すれば良いのかは、私にはわかりませんが…。
親の一方的都合立場で双方の子どもを交換しますが、結局上手くいかず、再交換となります。
福山の両親の設定・登場も不自然・イヤミ、しかも父親の夏八木勲は例の通り大げさです。
「もう一人の息子」は、見終えた後、様々な思いが巡りましたが、「そして父になる」は余りに薄っぺらでした。 【6月23日鑑賞】
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

映画/鑑定士と顔のない依頼人、メイジーの瞳

2014年06月13日 | 映画


面白い映画ですが、良・悪の評価は分かれます。
良い点は、謎の依頼人は誰かという謎解きと、彼女に恋心を抱いたヴァージル・オールドマンの運命や如何に、です。
悪い点は、鼻持ちならないイギリス的「貴族趣味」と、どんでん返し後の後味の悪さです。
高い授業料だった、生身の人間は名画よりなんぼも素敵だと新たな女性を求める終わり方ならどんなに良かったでしょうか。
比類の鑑定眼を持つヴァージル、ろくに調査をしないで、謎の女・クレアに籠絡され、ついには詐欺されます。
彼は、やばい手で入手した数多くの女性達の肖像画で囲まれた秘密の部屋で過ごすことを至福としています。
生身の女性を知らないだけならそんなに特別では無いのですが、
食事を摂る時も手袋をするというのは、どう見ても尋常ではありません。
この映画のもう一つの恐ろしい面白さは、観客の持つ「覗き見」のスケベ心です。
ヴァージルは、クレアが扉を開けて出てくる様子や、彼女が椅子に座って怪我した足の親指をなめる姿、
その時、彼女の股間が見え隠れする様などを彼は盗み見します。
股間が見え隠れするシーンは、「エマニエル婦人」など映画で何度も使われています。
ヴァージルが覗き見していると同時に観客も同様後ろめたく覗き見しているのです。
彼女は実は覗き見されていることを十分承知し、演出し、彼を虜にしていくのです。
観客は、段々こうして彼女のこうした不可解な言動に疑問・作為を感じ始めます。
映画の最後の方で、ヴァージルは彼女に孤児院で育って這い上がってきたこと告白します。
母親、家族を知らないで育ち、這い上がってきたのだから、彼の貴族趣味もしょうがないか、
生涯で一度の恋愛の成就も認めてやろうかと思う反面、そんな単純なハッピーエンドはあり得ない……。
ヴァージルは結局の所、見事にダマされるのですが、その黒幕ははっきりと名指しされません。
それはおそらく、ヴァージルが絵を手に入れるために組んできたパートナー、ビリーでしょう。
彼は、ヴァージルの虚栄心や弱点や貴族趣味、女を知らないことなど彼のすべてを熟知しているからです。
この映画、イタリア映画ですが、台詞は英語です。
イタリアでは大ヒットしたそうですが、イタリアではイタリア語の字幕だったのでしょうか。
ヴァージルの名前が、オールドマン=老人というのは恐ろしいですね。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

登場人物がまさにステレオタイプ、安っぽいアメリカ映画って感じです。
ストーリーにリアリティがなさ過ぎます。メイジーの父親は彼女のベビーシッター・マーゴと出来てしまい、
ロック歌手の母親は若いバーテンダー・リンカーンと再婚してしまいます。
適齢期のマーゴがなぜベビーシッターをしているのか、リンカーンがなぜ母親と結婚したのか全くつじつまが合わないのです。
そんなディテールやシリアスさはこの映画には全く関係ないのですが。
父親と母親は仕事人間というより、幼稚でわがまま、他方マーゴとリンカーンは若いのに大人で人の面倒見が良く優しい。
「血よりも優しさ」、「大人度は年齢とは無関係」と、言いたいのでしょうか?
それよりも「安っぽいヒューマン」と言うのは言い過ぎでしょうか。           【6月9日鑑賞】


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

映画/偽りなき者、ハンナ・アーレント

2014年06月07日 | 映画


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

彼女は、ハイデッガーに師事した哲学者のドイツ人で、ナチスの強制収容所から脱出し、アメリカに亡命しまし。
映画は、彼女がアイヒマン裁判を傍聴し、そのレポートをザ・ニューヨーカー誌に発表し、その反響・顛末を描きます。
1960年、アルゼンチンに逃亡し、最後のナチス戦犯と言われていたアイヒマンをイスラエル諜報特務庁(モサド)が探しだし、
イスラエルに連行し、裁判にかけます。
アメリカがビン・ラーディンをアフガニスタンやパキスタンの主権などお構いなしに殺害したように、
モサドも各国の主権など全く無視して行動します。
アイヒマンは、ドイツの親衛隊の中佐で、決して大幹部ではありません。当時の世論は「極悪非道な彼に弁護の余地は無い」です。
彼女は、「悪の凡庸さ」を言います。ナチスの犯した悪事は、特殊な「怪物」が成したのではない、人間的思考を停止し、
命令されるまま、己の「義務」とされることを淡々とこなす小役人的行動の帰結として起こったのだ、と言います。
また、彼女は「ユダヤ人指導者の中にもアイヒマンに協力した者がいた。それによってユダヤ人の犠牲が増えた」と言います。
それはそうしたユダヤ人指導者を糾弾するためでは無く、「悪の凡庸さ」は被害者側のモラルの崩壊をも引き起こすことを言いたいためです。
オーム事件も、連合赤軍事件も、ポルポトの悲劇、そして日本の皇軍等々の出来事も、「悪の凡庸さ」から来る悲劇かもしれません。
「人間は誰でも思考を放棄すれば悪になり得る」と言うのは一面の真実かもしれませんし、
「命令されない悪の凡庸さ」の危険さは、今の日本の感情的「右傾化」を支配している空気かもしれません。
むずかしいテーマを興味深く扱っています。しかし、この映画は成功しているとは言えません。
彼女のいわゆる伝記物にしなかったのは良かったのですが、彼女の夫とのエピソードなどは割愛し、
また、かつての友人達との軋轢や彼らの批判と議論などもっと冷静に静かに描いた方が良かったです。
一番嫌だったのは、彼女がいつもタバコを吸っていることです。                           【5月26日鑑賞】
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

映画/マッド、ジンジャーの春

2014年06月05日 | 映画

--------------------------------------------------

いろんな賞を取っているようですが、つまらない映画でした。
ジンジャーとローザは、病院の隣同士のベッドで生まれ、以来、双生児のように育ちます。
時は、1960年、米ソの核競争は際限なく一度戦争が起きれば人類どころか地球すら破壊しかねないと言う「危機」の時代でした。
折しも、キューバ危機が起きます。フルシチョフも賢くないですが、ケネディはもっと阿呆です。
ケネディはフルシチョフを脅せば彼は身を引くと思っていたのですから。
ジンジャーは、高校生ながら核の危機を早熟に感じています。
ところが、ローザはジンジャーの父親と深い関係になってしまうのです。
ジンジャーの父親は、思想家と言われるが、これまた阿呆としか言いようがあり得ません。
「おいおい、こんなのありっ」、核の問題なんて「刺身のツマ」なんです。
今日の二本は映画は退屈でした。つくづく映画もギャンブルだと思います。見てみないとわかりませんから。 【5月19日鑑賞】
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

テルマエ・ロマエ

2014年05月04日 | 映画

見てきました。
過日見た、ムード・インディゴとビフォア・ミッドナイトがあまりにもつまらなく欲求不満気味だったので。
文句なく楽しかったです。リアリティを求めるのは「野暮」です。
シリウスは、皇帝からこれまでに無い「理想の温泉郷」を作れと命じられます。
彼は、湯船の排水溝に引き込まれ、平たい顔をする日本の銭湯やスーパー銭湯にタイムスリップしてそれをローマに持ち込みます。
顔が太り頭に黒いズッキーニのような物を乗せている琴欧洲や現役の相撲取りも出演、前回以上におもしろい出来となりました。
曙が超強いグラディエーターで登場しています。
映画の半ば頃、「字幕に疲れたろうでしょうからと字幕無し=日本語にします。」と字幕が出ます。
見事な日本語を話すローマ人にも大笑いです。
この映画の面白さは風呂好きのイタリア人には通じると思いますが、他の外人には?かもしれませんね。
私の大好きな古代ローマの雰囲気もちょっぴり味わえます。
奴隷の描き方は、難しかったでしょう。必ずしもアフリカ系では無いですし。
ウォシュレットもマッサージ器も、その中に奴隷が入っていてサービスするのです。
モグラたたきのモグラの奴隷は顔を出すと頭をたたかれるので渋っているのですが、背中をつつかれ、頭を出してたたかれます。
鍼や灸も面白かったです。
ところが、後半、ローマの政争の話になって面白さは急に半減したのが残念でした。
浪越徳治郎の「指圧」も余分でした。
箱根の小涌園のいろんな温泉やミストやジェットバスなどの紹介などの方が良かったのでは。


以下は、公式サイトの"予告編"です。

【5月1日、川口MOVIXで。】
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ムード・インディゴ、ビフォア・ミッドナイト

2014年05月01日 | 映画



あの"アメリ(オドレイ・トトゥ)"が帰ってきた、胸弾ませて見に行ったのですが、大期待外れでした。
前半は、ちょっとアメリカのコメディのパロディぽくテンポも良かったのですが、
クロエ(オドレイ・トトゥ)が、胸に「睡蓮の花が咲く」病気にかかって以降は、何ともつまらない映画になってしまいました。
主人公をコランではなく、クロエにするべきです。オドレイ・トトゥあっての映画なのですから。
彼女の現実的で無いきれいさとかわいさやおとぼけさをこれでもかこれでもかとたっぷり描いて、
奇病にかかってあっけなく死んで行くのが良いです。
コランが彼女のために意味不明な仕事に就いたりするなど全くの興ざめでした。
オドレイ・トトゥの魅力がほとんど引き出されず、大失敗作となってしまいました。
見終わって考えると、前半のコランの金持ちぶりも何のひねりもない子どもだまでした。
-------------------------------------------

見る前から、好きではない映画でした。
「ビフォア・サンライズ 恋人までの距離」(95年)、「ビフォア・サンセット」(04)の完結編の映画です。
柳の下を狙ったのでしょうが駄作で、全くつまりませんでした。
ウッディ・アレンの機関銃のような台詞の連続の場合は、皮肉や隠喩や似非ディレッタントだったりですが、
この映画では、ほとんど意味の無いどうでも良い会話を延々と繰り返すのです。
それがこの映画の「ウリ」なのですが、会話に真実みが無く、心に残る台詞は全くありません。
40歳の設定ですから、人生の機微や愛惜やを求めるのは無理だとしても、あまりにも二人が薄っぺらで幼稚すぎます。
途中で退席を考えたのですが、結論見たさに我慢しました。
何度もしょうも無い喧嘩をして、つまりは元の鞘に収まるだけでした。
「本物の愛に辿り着く」とは、なんと白々しい。
映画は、見てみないと良いか悪いかわからないギャンブルです。  【4月28日】

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

映画/SAYAMA-見えない手錠をはずすまで

2014年04月24日 | 映画

映画『映画/SAYAMA-見えない手錠をはずすまで』を見ました(4月22日)。
---------------------------------------------------
狭山事件が起きてから50年、半世紀が経ちました。
石川一雄さんは、第一審で死刑判決、控訴審で無期懲役、31年余の服役後、1994年に仮出獄となりました。
最近、袴田事件の再審決定、足利事件の無罪判決、布川事件の無罪判決などえん罪事件の無罪判決が相次いでいます。
しかし、石川さんの再審要求は全く無視されています。
えん罪事件に共通する最大の問題は、検察が持っている証拠が開示されないことです。
袴田事件と同じように、狭山事件でも証拠のねつ造が行われたことは疑いの余地がありません。
狭山事件当時は、DNA鑑定がまだ普及していませんでした。
サスペンス風や法廷裁判劇風に映画化することも可能かもしれませんが、この映画はそれを廃し、ドキュメントに徹しています。
そして、事件と裁判の経過については極めて禁欲し最小限度にしか触れません。
権力や裁判所を糾弾したり、批判をしていません。そして運動への参加を要求したり、「一切の煽動」も皆無です。
それが成功しています。
映画は、石川さん夫妻の全くありふれた日常生活を淡々と描いています。


そこから醸し出される二人が、石川さんの無実を見事に雄弁に語っています。
布川事件の桜井さんは映画の中で、「人は罪を犯していたら10年15年と無実を叫び続けられない」と言っています。
早智子さんの故郷・徳島の海で浮き袋で戯れる石川さんが映っています。
スニーカーを履いて、はげ頭の石川さんが浮き袋でフワフワしているのはとてもユーモラスなのですが、

石川さんは、このシーンの採用を渋ったそうです。「遊んでいていて良いのか」と思われないかと案じると言うのです。
"お花見"もしたことが無いと言います。
無罪になった暁には、「ケニアに行って動物を見たい」、「夜間中学に行きたい」そうです。
石川さんは貧乏で学校に行けず、ほとんど字が読めず、書けませんでした。
二人の日常は本当に質素で慎ましいです。朝食は、一雄さんがミルクとトマトと豆腐とパン、早智子さんがサンドイッチとミルクとトマト。
晩ご飯は、おそばと豆腐とイチゴ、一雄さんのイチゴは2個、しかし早智子さんのイチゴは5個でおそばには納豆が乗っています。

そして早智子さんは、後で菓子パンを食べるから太るのよと笑います。
私は、早智子さんの明るさがとりわけ印象的で、素敵だなと思いました。
彼女のその明るさが無かったら、この映画は「深刻過ぎ、重過ぎ」になってしまったでしょう。
この映画では、"笑い"が溢れ、映画館でも笑い声が溢れていました。
そんな彼女が、おじいさんが語ったことについて、「そうだね」と頷かないで、口答えしたことを悔いていました。
とても素敵なシーンでした。
映画館では、笑い声と同時に涙も溢れていたのでは無いでしょうか。
現地調査と若者との交流シーンがありましたが、私はこれらを禁欲して割愛した方が良かったと思いました。
とにかく説教的、啓蒙的にならなかったのが何より良かったです。
映画の途中で、何度か枯れたヒマワリが映されました。そして映画の最後は、きれいに咲いたひまわりでした。
 
私は、監督の金聖雄を知りませんが、在日の人だと想像します。そのことも私はうれしいです。
映画館は、下高井戸シネマ、京王線下高井戸駅すぐ、座席数126のミニシアター、色々な割引があります。

  【終わり】
           
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

映画/ペコロスの母に会いに行く、さよなら渓谷

2014年04月19日 | 映画

ペコロスとは、3~4センチ程のタマネギのこと、主人公の頭は禿げていて、彼のあだ名です。
彼の母親がだんだんボケだし、その日常を描いています。
前半は、テンポ良く、コミカルで面白い味を出していたのですが、後半は人情話物になってしまい、面白さが激減しました。
シリアスさを排除してコメディに徹っしたら良かったのに。
記憶がまだらになって行く日常はどんな物なのでしょうか。この恐れは、今日本の高齢者にとって一番深刻な問題では無いでしょうか。
昔から幼児期のことも、青春の思い出もその鮮明さは失われている私ですが、この先どうなるのでしょうか。
----------------------------------------------------------

極端な設定で、リアリティは皆無です。
尾崎俊介と一緒に住んでいるかなこは、高校生の時、俊介らに集団レイプされました。
その二人がその後巡り会った経緯と一緒に生活するようになった経過も説得的には描かれていません。
かなこは言います。「あなたが私より幸せになることは許さない。」と。
セックス描写は過激ではありませんが、不要です。
また、一つのショットがやけに長いのです。その必要性もよくわかりません。
おかげでストリーの展開も間延びし過ぎ、2時間近い長い映画となってしまいました。
何か奇をへつらうようで私にはよくわからない映画でした。             【4月14日鑑賞】
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

映画/もう一人の息子、少女は自転車に乗って

2014年04月04日 | 映画

2012念東京国際映画祭、グランプリ&最優秀監督賞受賞
秀作です。
ストリーは、シンプルです。
湾岸戦争勃発時生まれた男の赤ん坊が、病院で入れ替わってしまいます。
一人はユダヤ人、一人はパレスチナ人。思秋期を迎えた二人の青年とその二つの家族のドラマです。

写真上・右は、入れ替わった二人の青年ですが、どちらがユダヤ人かパレスチナ人かは区別がつきません。
左の男性は、サイモンとガーファンクルのガーファンクルのような風貌、右の男性はアフリカ系の男性の感じです。
ユダヤ人もアラブ人も人種ではなく、言語・文化・宗教などによるので外見からは見分けることはできないと言われています。
肌・髪・目の色なども様々、使う言語も様々で、ユダヤ人の定義は単純では無く、「誰がユダヤ人か」は複雑と言われます。
また、パレスチナ・イスラエル問題も単純では無く、複雑です。
私の考えでは、一番責任があるのは、第二次世界大戦処理を巡る、二枚舌・三枚舌のイギリス帝国主義とアメリカ帝国主義です。
しかし、この映画のテーマは、いわゆるパレスチナ・イスラエル問題ではありません。
人々の「アイデンティティとは?」 が投げかけられていると私は思います。
「アイデンティティ」と言う言葉・概念は日本語にはなじみが無いのですが、様々なもので説明される「私」の総体とでもしておきましょう。
そう、それは決して一つの概念では無く、ステレオタイプの概念では断じてありません。
日本人、アジア人、男、団塊の世代、……と無限と思える修飾語が連なり、それらの総体まさに"社会的歴史的諸関係の総和"で、
考え出すとキリがありません。
だいぶ脱線気味したついでに、最近の日本の歴史認識の問題について。
日本政府は、安重根(アン・ジュングン)をテロリストと言いますが、当時日本は紛れもなく朝鮮を併合し、朝鮮では、
合法的独立運動など許されない状況下でした。今日の尺度で「テロリスト云々」で非難するのは全くおかしいのです。
従軍慰安婦問題も同様です。官憲が関係した確固とした証拠は無いと日本政府は言いますが、敗戦時、多く資料などを焼却したのです。
官憲は一切関係しなかったという証拠を日本政府がまず挙証しなければならないので、被害を受けた人々に挙証責任があるなどとは
本末転倒・逆立ちしています。
南京虐殺問題もそうです。60万人虐殺の証拠は無いと日本政府は言います。
ナチスが何人のユダヤ人虐殺したかの証拠が必要というのでしょうか。
私は、これらの問題は今の私と私たち日本人のアイデンティティに関わる問題だと思うのです。
さて、映画に戻りましょう。2時間でこうした問題への解決などはあり得ません。
また、パレスチナとイスラエルの市民レベルの交流が問題の解決の糸口だ、と軽々に言っているのでもありません。
私がこの映画で感じたのは、ユダヤ・アラブに対するステレオタイプの見方・感じ方を捨てよう、と言うこと、
それは先に述べたキャスティングにも現れていますし、この映画はフランス映画ですが、多くの言葉が飛び交い、
たくさんの「ナショナリティ」の人々が携わったのだろうな、との思いでした。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

秀作です。
ストーリーはシンプルです。
サウジアラビアは、アラブ諸国のなかでも、イスラームの宗教的慣習が強いと言われています。
私を含め多くの日本人は、サウジアラビアとそこの人々の生活をほとんど知りません。映画に描かれている日常生活が、
現実を反映しているのかも私にはわかりませんが、その一端を知ることは出来るのでは無いでしょうか。
原題のWadjda は、主人公の10歳の女の子の名前です。
サウジアラビアでは、女性・女の子がしてはならないしきたりが多くあるようです。

禁じられているスニーカーを履き、ヒジャブ(スカーフ)を被らず、「お転婆」、「問題児」と言われるワジダは、
自転車がほしくてたまりません。塀の上を走るような自転車、車の上に積まれて店に運ばれるあこがれの緑の自転車です。

彼女は、一念発起して、自転車を手に入れようとします。一等賞金1000リヤル(3万円弱)のコーランの暗唱大会が開かれることになりました。
彼女は、見事優勝するのですが、自転車を買うなどとはとんもないと、賞金はパレスチナへの寄付を強制されるのでした。
落胆するワジダに彼女の母親は、緑の自転車を用意していました。
ワジダの父親は、他の女性も妻に迎えます。ワジダの母親も、自立の道を選ぼうとします。
監督はサウジアラビア初の女性監督となったハイファ・アル=マンスールさん。
------------------------------------
アラブ・ユダヤの世界を描いた今日の二本の映画は、私たちには珍しい映画でした。
「二人の息子」はちょっとヘビィだったので、「少女は自転車に乗って」は少し軽快に見ました。
「自転車」は自由の"象徴"と言うのは大げさで言い過ぎですが、すがすがしさは十分に伝わってきました。 【3月31日鑑賞】
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

映画/セッションズ、危険なプロット

2014年03月20日 | 映画

------------------------------------
原題のThe sessions は「研修」でしょうか。
ポリオを患ったマイクは、首から下は麻痺して動かすことが出来ず、また自力呼吸も長時間は出来ないので、
一日の多くは「鉄の肺」と言われる人工呼吸器で生活しています。
詩人でジャーナリストの彼は、障害者の性について記事を書くことになります。
彼のペニスは勃起し射精するのですが、手足が麻痺しているのでオナニーしたことも女性との性体験も全くありません。
彼はセックス・サロゲートを雇い、彼女からセックスの手ほどきを受けます。
セックス・サロゲートの適当な日本語訳がありませんが、6回のセックス・セッション(研修)で、
「愛撫・挿入・射精・オーガニズム」が出来るような訓練を受けることのようです。
セラピスト、シュリルを演じるのは、大女優、ヘレン・ハントです。
深刻になりがちな問題をとてもさりげなく表現するのがとても良いのです。
出演を決意し、役作りに苦労したと思いますが、本当に自然な感じです。
ハントの脱ぎっぷりは大胆と言うより自然です。彼女のヘアーは何度も写ります。
この映画で彼女はアカデミーの助演女優賞を受賞したそうですが、納得です。
彼の筋肉は麻痺して動きませんが、感覚はあり、触られたり愛撫されれば気持ちいいのです。
第一回のセッションでは、彼はシュリルに触られただけで射精してしまいます。
挿入のセッションでは、5秒間でした。笑い声が起きても良いのですが映画館はシーンとしていました。
セッションは6回まで出来るのですが、4回で終わることを選びます。
このセッションで、二人はオーガニズムを体験し、恋愛感情が抜き差しならぬほど大きくなって来てしまったからです。
最後のセッションの報酬をシュリルが部屋の中に忘れるシーンは印象的でした。
映画に登場する、四人の女性と四人の男性は皆魅力的でした。
四人の女性とは、マイクが初めて好きだと告白した看護人の女性、次の看護人で中国系の女性、シュリル、
そしてその後マイクと生活を共にするスーザン、
男性は、マイク、マイクが懺悔する教会の牧師、シュリルの夫、モーテルのスタッフの中国系男性。
つまり、登場人物は"良い人"ばかりです。世間ではそんなことは決してあり得ないことですが、これが良かったです。
障害者差別者が登場すると、テーマが"障害者問題"になってしまいます。
映画は、障害者と性が話題ですが、それは決してテーマではありません。
そうなると、"障害者差別は良くない"とか、「お説教」になってしまいます。
あくまで喜劇チックなエンターテイメントであって、決してシリアスな啓蒙番組では無いのです
笑える場面の連続なのですが、観客からはほとんど笑い声は上がらないのが不思議でした。
この種の映画は、シリアスにしないで、喜劇チックにするのが良いと僕は思います。
多くの人にとって、性は興味深い刺激的なことで、そうであるから深刻にもなりかねないのですけど……。
停電でマイクの鉄の肺が動かなくり、彼は生死を彷徨いますが、患者を励ますボランティアのスーザンに彼は言います。
「僕は、童貞じゃ無いんだ。」
彼の、自信にあふれた表情は素敵でした。
蛇足ですが、シュリルはユダヤ教に改宗しますが、その儀式のほんの一部が描かれました。
キリスト教牧師も、ちょい悪風の長髪で、ビールを飲んだりタバコを吸ったり、良い味でした。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
素敵なイタリア映画に、「人生、ここにあり」があります。            
イタリアは、1978年、世界初の精神科病院廃絶法(バザーリア法)で、精神病院を画期的に廃絶しました。
それで問題が解決した訳では決してありませんし、私はそれらの事情をほとんど知ってはいないのですが、
イタリアのこの試みは実に多くの示唆を与えていることは間違いないと思います。
この映画は、バザーリア法にまつわるエピソードを描いた映画(喜劇)で、明るく彼らの性を取り上げています。
私のブログは、「人生、ここにあり」 です。
また、メル・ギブソンが鬱を演じた映画、「それでも、愛してる」も、同じように喜劇でした。
私のブログは、「それでも、愛してる」 です。 
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  【3月17日鑑賞】
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

映画/眠れる美女、父の秘密

2014年03月15日 | 映画

------------------------------------------------------

  3月10日鑑賞
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

映画/Paperboy、Magic Mike

2014年02月21日 | 映画

-------------------------------------------------

                          【2月17日鑑賞】
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

映画/クロワッサンで朝食を。タイピスト

2014年02月07日 | 映画

----------------------------------------------------
原題は、パリのエストニア人でしょうか。ストリーはとてもシンプルです。
エストニア人のアンヌは、飲んだくれの夫に愛想をつかし、三行半を下し、看護して来た母親が亡くなります。
彼女は、パリに住むエストニア出身のフリーダの所に家政婦の仕事に就きます。
フリーダを演じるのがジャンヌ・モロー、85歳を越えて彼女に往年の美しさはありません。
さらに彼女の声は低くドスが利いていて、凄みさえあり、その台詞は嫌みと皮肉に満ちています。
フリーダの昔についての詳しい説明はありませんが、彼女はとても金持ちです。
アンヌの雇い主は、フリーダの息子と思っていたのですが、かつての彼女の若い燕(ステファン)でした。
「お母さんですか?」と言うアンヌの問いに、彼は、「母親とは寝ない」と答えます。
「スーパーのクロワッサンは、プラスチック、本物はパン屋で買わなくちゃ」、と彼女は口にしません。

帰国を決意し、家を出たアンヌは、フリーダの元に戻り、映画は終わります。
映画では、アンヌとステファンの間に男女の問題があるように描いていますが、それは不要で失敗でした。
それが無ければ、私としては、エストニアへの思い入れがあるとしても、秀作と言うかもしれません。
----------------------------------------
私は、昨年5月エストニアのタリンを一日だけ訪れました。小さくきれいな町で、とても素敵な町でした。
その時の一部の写真です。

私が昨年訪れた時の私のブログは次です。タリンの町
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

-----------------------------------------
原題は、"Populaire"=ポピュラー。ストーリーに特別な工夫はありません。
主演のデボラ・フランソワは可愛く、監督はオードリー・ヘップバーンの世界を意識させたようです。
かつてのヌーベルバーグや色々な映画の場面を意識、参考にしたようで、楽しいです。
映画では、ローズがルイを好きになってしまいますが、逆の方が良かったと思います。
ヘプバーンのようなモノセクシュアルな感じなのにコケティッシュな振る舞いにルイがメロメロになってしまうような。
後半はちょっと退屈でした。舞台は1950年代、女性が社会に進出し始めます。
ところで、一般的なタイプライターのキィボードは、今日のパソコンのキィボードと同様、左上から「QWERT…」となっています。
この配列は、多用する「ERTAS」などが左サイドにあり、使いにくい配列です。
印字が早すぎるとアームが絡むので、わざわざ使いにくしたとの説があります。
使いづらい・人間の生理に反する「逆立ち」した状況なのに、タイピストもキィパンチャーも過剰なスピードが求められました。
1960年代に入り、IBMが表面に活字が並んでいるタイプボール方式を開発しました。
それまでは、各キーの先に活字がアームでつながっているアーム式でした。
このアーム式はあまりは印字されるとアームが絡んでしまう欠点がありました。
でも、使いやすい配列への試みは何度もなされましたが、結局普及せず、
革命的であったコンピュータの世界にも引き継がれます。世界はやはり「保守的」なのでしょうか。
映画では、このボール方式をルイがIBMに無償で提供したことになっていますが、ことの真実を私は知りません。
軽い喜劇で、フランスでは大ヒットしたそうですが、秀作とは言えない普通作です。
最もこの映画がアメリカで作られたらきっとおもしろくなかったとは思いますが。       【2月6日鑑賞】
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする