
原題は、The Past、「過去」と言うことですか?
今はテヘランに住むイラン人のアーマドは、離婚手続きのため4年ぶりにパリに戻ります。
妻のマリー=アンヌは、すでに新しい恋人サミールや彼の子どもたちと新たな生活をはじめていました。
物語の導入のアーマドとマリーの離婚騒動がストーリーのテーマかと観客はすっかり惑わされてしまいます。
イラン人のサミールの妻はフランス人で鬱病です。
自殺未遂した彼女は、植物状態です。
彼女はどうして自殺しようとしたのか、その「真相」を巡る「すれ違い・勘違い」が物語の中心です。
年頃の娘リュシーは、家の寄りつきません。
サミールは、リュシーは自分を嫌っていると思っています。
リュシーは、重大な過ちをし、その解決出来ないことに深刻なのです。
妻達と恋人達、その家族が背負う過去が次第に明らかにされます。
お互いの葛藤や反発・相互の不審が意思疎通を欠き、その行き違いが互いの溝を広げています。
細かいストーリーは明かしませんが、その互いの溝を広げているのは、各人の「思い込み」にあります。
私たちは、自分の感情や思いは「自分自身の真実・確実なもの」と思っていますが、
実はそれらは私たちが単にそう思っているという「思い込み」・「錯覚」から成り立っています。
人の心の中、感情・思いは本当は誰にもわかりません。
それは自分でも本当はわからず、実はそう「錯覚」、「思っている」に過ぎないのです。
ですからコミュニケーションをしたとしても、心の真実は本来は共有できないものなのです。
わかり合えるというのは実は「幻想」に過ぎないのです。
だからこそ人は安心してつきあうことが出来るのではないでしょうか。
互いが、お互いの真実の感情や心の思いを知り、共有したら息苦しすぎて生活できませんもの。
さて、映画は、「本当のことは誰にもわからない」で終わりした方がよかったのですが、
そうとは行かず、
安易な結末で、尻切れトンボ、息切れという感じでした。
悪い人を誰も出さずに終わらせるには、ありふれた所に落ち着かせるしかなかったのかもしれませんが。
この映画の出色は、サミールの男の子役で、どうしてこんなに上手く芝居できるのだろうかと思いました。
監督は、映画『彼女が消えた浜辺』などを送ったイラン人のA・ファルハディ。
フランスの多民族国家・移民事情や結婚・離婚事情、子どものしつけなども垣間見られます。
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原題は、Labor day は労働者の日(9月の第一月曜日で祝日)。でも、これでは意味がわからないですかね。
フランクは殺人犯です。妻を突き飛ばして殺してしまい、殺人罪で服役中です。
盲腸の手術中に病院を脱走し、スーパーで偶然出会ったアデルとその息子を拉致し、彼女の家に隠れます。
この二人が恋愛関係になってしまうストーリー。
どんな特殊な事情があろうともこれは陳腐としか言いようがないのですが、
こうした題材は、題名は忘れましたが、映画では良く取り上げられます。
実際には起こりえない話なので全く期待しなかったのですが、結構楽しめました。
それは、悲劇がどのような形で訪れるのかにあります。
アデルは元夫との間に数回の流産の経験があり、神経過敏になった彼女は夫に捨てられ、鬱病を病んでします。
大工仕事や料理など、またアメリカの中学生になろうとする男の子がキャッチボールの手ほどきを受けるなど、
陳腐を通り越したアホらしい「優しさ」に彼らは心を奪われ、わずか1週間の間に、すっかりフランクの虜に
なってしまい、彼のカナダへの逃亡を助けるだけでなく、行動を共にしようとするなんて。
計画は失敗し、フランクは捕まり収監されますが、数年後仮釈放後されます。
そして、息子の仲立ちでアデルと再会し、無事結ばれるという何とも無理筋ストーリーです。
「この愛は罪ですか?」とこれまた陳腐な宣伝文句が踊っています。
当然ストーリーにはリアリティは皆無なのですが、「悪人」が出てこないのが味噌です。
徹底してリアリティを排除して、期待した悲劇は起きず、「純愛」のハッピーエンドものに仕上げたのです。
しかし、私としては、フランクは根っからの悪人で、善人を徹底的に演じ、
色仕掛けを含めあの手この手の手管で鬱病の女性を手玉に取り、
カナダへの脱走が成功した後、即座に彼女を捨てさるのですが、
アデルは戻らない彼を信じてうつろな日々を過ごす、と言う方が面白いと思うのですが、…。
今日の二つの映画には、二人の「鬱病」患者が出ましたが、その病に特別な意味があるのかは
私にはわかりません。 【9月1日鑑賞】