<続き>
<第4章 6世紀の中・四国地方の古墳>
<その1>
以下、中・四国地方で、上塩冶築山古墳と関連する副葬品が出土した古墳の紹介である。今回は①王墓山古墳(備中)、②岩田14号墳(備前)の展示物を紹介する。
①王墓山古墳
②岩田14号墳
<続く>
<続き>
<第4章 6世紀の中・四国地方の古墳>
<その1>
以下、中・四国地方で、上塩冶築山古墳と関連する副葬品が出土した古墳の紹介である。今回は①王墓山古墳(備中)、②岩田14号墳(備前)の展示物を紹介する。
①王墓山古墳
②岩田14号墳
<続く>
<続き>
<第3章 6世紀末の出雲西部の古墳・続>
前回第3章として紹介しきれなかったので今回は、その続編である。引き続き上塩冶築山古墳の出土品を紹介する。
上塩冶築山古墳周辺の古墳出土品として三田谷3号墳の須恵器壺が紹介されていた。上塩冶築山古墳出土の上掲須恵器壺と比較し頸が短いが、なかなかの造形力である。
<続く>
<続き>
<第3章 6世紀末の出雲西部の古墳>
6世紀末になると、今市大念寺古墳の南約1kmの処に径46mの円墳である上塩冶築山古墳が築造され、大小2つの家形石棺があり、2人が埋葬されたとしている。今回はその築山古墳出土品を紹介する。
先ず、図録の該当Pageから。
上塩冶築山古墳には2つの石棺が存在した。まずその1つの大石棺の被葬者である。
出土品からみると、金銀装円頭太刀をおび、銀装馬具装をつけた馬にまたがっていたという。それなりの権力者であったと思われる。
<続く>
過日、穀物神とくに稲作の神と云われる稲倉魂命(うかのみたまのみこと)と、道祖神とも云うべき久那戸命(くなとのみこと)を祀る苅田神社へ参拝した。
苅田神社の由緒によれば、祭神は苅田比古神と苅田比賣神、さらには下写真の神々である。
不勉強で、苅田比古・苅田比賣なる神が良く分からないが、由緒書によれば神名が示すように農耕神(苅田の田が示すであろう?)のようである。とすれば田ノ神であろう。
目的は倉稲魂命(うかのみたまのみこと)と、境内末社に祀られる久那戸命と猿田彦命である。本殿から末社まで順次紹介する。
神紋は三つ巴のようである。
大年神社・大神山神社・道祖神社の三社が一つの社殿に合祀されている。大年神と道祖神は習合しているであろうが、大神神社も併せて合祀されている経緯がわからない。
石見国で道祖神の存在を見聞しないが、大田市大田町の才ノ峠神社の才ノ神(塞の神)とならび数少ない一つと思われる。
幸神社と下の井戸神社も境内に祀られていた。井戸神社は大森代官で芋代官と呼ばれる井戸平左衛門を祀っている。
最後に苅田神社の位置を紹介しておく。JR山陰線久手駅から約500mほどの位置。
<了>
<続き>
<第2章 6世紀後半の出雲西部の古墳>
6世紀後半になると、突然、大型の古墳が出雲平野に出現する。それが大念寺古墳と妙蓮寺山古墳である。その両古墳に関する展示物を紹介する。先ず出典図録より。
以下、展示物の紹介である。
残念ながら大念寺古墳の飾履は原形を留めていない。そこで写真のパネルで紹介されている大阪府一須賀WA1号墳(大阪府立近つ飛鳥博物館蔵)の飾履を過去にみたので、紹介しておく。
この飾履も朝鮮半島から伝播したと云う。これらの品や馬具をみていると、騎馬民族が遣って来たとしか思えないのだが。
<続く>