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世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

シリーズ④:ピマーイ遺跡・その2

2016-10-16 07:49:09 | イサーン

<続き>

イサーンのムーン川流域に勢力を誇っていたマヒーンダラプラ家。その家出身のジャヤーバルマン6世が、1080年にアンコール帝国の王位に就いた。ピマーイ遺跡の建物群は、このジャヤーバルマン6世の治世下に建造されたと云われている。
ピマーイ遺跡の全貌を知っていただくため、入手したパンフレットを提示しておく。出来る限りそのレイアウトに沿って紹介したい。

先ずは配置図上の2番ナーガ・ブリッジである。ナーガ・ブリッジ正面は左右にシンハが鎮座している。

 

配置図上の3番ゲートウェイ、つまり正面の山門である。破風や屋根があったであろうが崩壊し、一部分が残るのみである。

リンテルには多くの踊り子が刻まれているが、踊るシバ神であろうか?それともたんなる踊り子であろうか?

 

カーラに乗る神、神の顔面が擦り減り様子がよくわからない。何か踊っているようにも見えるのだが。

 

 

高さ28mの拝殿付き主祠堂で、当該遺跡の中心である。下はその破風であるが、踊るシバ神と云われている。

柱も装飾されている。アプサラであろうか?クメール族の顔立ちである。

次回は祠堂内部を中心に紹介する。




                                <続く>


シリーズ④:ピマーイ遺跡・その1

2016-10-14 07:43:50 | イサーン

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今回はピマーイ遺跡インフォメーションセンターの展示品を中心に紹介する。そこには遺跡を中心に出土したクメール陶が展示してある。

 

 

キャップションによると、16-18世紀ロッブリー時代の褐釉象頭貼花文壺とある。出土地はブリラム県プラコンチャイ郡バンブア地区とあり、アンコールのクメール陶の窯が存在していた地区である。以下は、そのクメール陶の陶片展示である。

 

 

 

 

 

 

 

陶片の展示数は多くはないが、黒や褐釉の概要と無釉の焼締陶片を見ることができた。また特有の櫛歯文も見ることができる。次回からピマーイ遺跡について紹介する。

今朝はプミポン国王崩御のニュースである。ミーハーでもないが、国王グッズを数点保有している。タイ国民ほどの思い入れはないが、残念なことである。御冥福をお祈りしたい。合わせてタイの政局に揺らぎがおきないように望む。



                                <続く>


閑話休題:タイ人がタイに嵌る・辿り着けないワット・シーサワン

2016-10-13 07:40:02 | 日記
日本人がタイに嵌るのはしばしばで別に驚きもなく、またやられたか!・・・で終わりであるが、タイ人がタイに嵌る事例も存在する。その嵌る構造は双方同じように思えるのだが・・・。
それはバーンクルアットのナイジアン古窯址見学の後の出来事であった。同じバーンクルアット郡のワット・シーサワンに辿り着けないのである。合わせて十数カ所で尋ねたのだが、尋ねれば尋ねるほど嵌りこんでしまった。多い時には100mほどでたずねるのだが、右へ行けという。100m手前で尋ねると左と云ったのだが・・・。
嫌な予感はタクシーの運ちゃんから始まった。タイ語は4声があり、発音が難しいので書き物をかざしてワット・シーサワンと告げた。下の写真は、かざしたものではないが、同じタイ字を記入したメモを渡した。
案の定、知っていると宣う。遠くても10km圏内であるので安心した。混迷のスタートである。何カ所か右往左往するうちに、寺の事は寺に聞けとばかり、寺によって僧侶に聞くと、もっともらしく地図描いてくれた。地図といっても棒が4本書かれているだけ、こんなもの役立ちそうもないが、忠実に300m行って諦めた。ということで1時間半もウロウロしたであろうか。ついに諦めた。タイ人がタイに嵌った事例である。
そのワット・シーサワンである。それはBlog”の~んびりタイランド2”氏に送信して頂いた資料にワット・シーサワンの、多分布袋と思われる像をみたことによる。

それは、何と周辺から出土した陶片が貼り付けられているではないか。つまりナイジアン周辺のブリラム窯でどのようなクメール陶が焼成されたか・・・理解できるのではとの思いからである。う~ん残念。
噺は飛ぶ。タイの寺院の本尊は立像であれ座像であれ、ほとんどが釈迦牟尼像である。それ以外には写真のように布袋などの弥勒菩薩像や観音を見ることができる。そしてブログによっては、布袋と観音を見かけたら、中国寺院だとおもって間違いないと断定的に記している・・・これもどうかと思うが。
当該ワット・シーサワンはどうであったろうか?しかし、この布袋は近年の物ばかりではなさそうである。
それはラームカムヘーン国立博物館で見た。シーサッチャナーライ陶で、少なくとも500年の時を経ている。このような事例を無視して、ほぼ中国寺院でもないが、中世の代にも布袋信仰が存在していたことになる。とすれば南伝の上座部仏教ばかりでなく、北の中国仏教も影響を受けたか。
シーサッチャナーライの陶工が中國から云々は、近代にチャムロン親王が纏めたタイの年代記集成に収録され、中国側資料には記載なく、信を置けないと一貫して考えてきたが、シーサッチャナーライの当該青磁布袋像を見るにおよび、残念ではあるが、持論の外堀が埋められた思いである。
当該閑話休題は、タイ人がタイに嵌った事例で、それがブリラム陶と布袋に関することであり、忘れることはなさそうである。











シリーズ③:バーンクルアット・ナイジ(チ)アン古窯址

2016-10-12 09:01:40 | 窯址・タイ

<続き>

東南アジア古陶磁ファンには、長らくお待たせしました。ブリラム、スリン両県には多くのクメール陶の窯址が存在するようであるが、クメール陶の愛好家でもないので、保存状態が良いとされる、バーンクルアット郡のナイジアン古窯址1箇所を訪れることとした。

国道24号プラコンチャイ交差点を右折し暫く走行すると、バンクルアットの街並みに至る。その中央付近の交差点を左折(下の写真の交差点)し、4km程度であろうか、上の写真の黄色で塗りつぶした赤丸地点にそれはある。

奥に銀色の覆屋が見えてくるが、それが窯址である。

窯址の覆屋の手前には、タイ芸術局が写真の記念碑を建てており、そこがナイジアン古窯址であることが、即時に認識できる。

 

入り口側から覆屋の奥側を望んだ写真で、手前が煙道、奥側焚口となっているが、これが窯址だと明瞭に見分けることができない。

これが奥側から入り口側を望んだ写真で、写真手前が焚口で一段と低く、1mちかくもあろうかと云う昇焔壁である。窯と窯は隣接しており、一段高くなっている処が一つの窯の区切りのようである。その幅は目分量で1.5m程であろうか。同じような写真を下に、もう一枚掲げておく。

写真では分かりにくいが各窯の中央付近に縦列で孔を見ることができる。これは支柱址で、このように長い窯では、天井部の崩落防止に不可欠であったかと思われる。以下、2葉は横から窯址を写したものである。長さは優に10mを越えている。

 

 

 

 

タイ芸術局が発掘調査し、其の時測量した図面が掲げられている。それを見ると廃棄された窯址の上に窯が築かれており、図中にはA~Eまで記号が振られているので、この中に5基の窯が存在したことになる。幅が狭く細長い窯体であることが、理解頂けると考える。

周囲は畑地や放棄された耕作地で、雨が降り続き下は泥濘状態である。これでは陶片を探し回るどころではない。しかし幸いにも窯址から40-50m入った地点に陶片が散乱しており(写真撮影失念・残念でした)、数点を採取して終わりとした。

 

それは4点ほどであるが、左上から時計周りに黒釉陶片で内側は無釉、壺類の破片と思われる。右上は碗と思われる青磁陶片で、底は高台無しの平底。右下も青磁の碗か壺片で幅6-7mmほどの低い高台をもっている。青磁釉の発色は良好で高台底も施釉されている。左下は日本で云う伊羅保釉で褐色、棒状の印花文と刻花圏線文で装飾されている。壺類の破片であろう。幸いにもそれなりの陶片が採集できた。
これも幸いなことであるが、訪タイ前にBlog”の~んびりタイランド2”氏より写真の資料の一部をメール送信頂いた。

これを参考に後日、ナイジアン古窯址とクメールについて、若干の考察を試みたいと考えている。
                                <続く>




シリーズ②:ムアン・タム遺跡・その2

2016-10-11 07:26:07 | イサーン

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昨日のレイアウト上の6.ライブラリーの破風とリンテルに刻まれたカーラ。何と多くのカーラが刻まれていることか。

 

柱に刻まれた彫刻も見事なものである。最下段も想像上の聖獣であろう。頭がワニ体がライオンはセト神だが、はたしてこれも?

 

ムアン・タムで最も見たかったのが、次の聖牛ナンディンに乗るシバ神であったが、ピンボケで申し訳ない。

下は、カーラに乗る神。

 

 

 

数々のヒンズーの神々が彫刻されている。先のパノムルン遺跡もそうであったが、用いられている石には、必ず下写真のように穴が穿たれていた。想像するに石を運搬するためのものと思われる。

下の彫刻は、ムアンタム遺跡へアプローチする参道に置かれていた破風である。見るとインドラ神が3頭の象(アイラーバタ)に乗っている。ここムアンタムもヒンズーの神々のオンパレードであった。


                                                                          <続く>