世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

チェンマイ国博ガイドブック・#9

2015-12-27 09:23:41 | 博物館・タイ
<続き>

<第3期:ティローカラート王―パヤ・ケーオ王(1441-1525)>

この期間は、全ての面に渡ってランナーは繁栄した。仏教とその芸術が盛んで、その黄金期として知られている。
ティローカラート王は、スコータイから僧侶を招き、仏教について学んだ。彼は1477年、第8回の仏教世界結集をチェット・ヨート寺院で行い、仏教経典や教義の正当性を検討した。この時期ランナー文学は頂点を迎えた。
        (スケッチは、ワット・チェットヨート)
多くの仏教経典、歴史書及びその他の文献が、この時期に完成した。それらの一部の文献が今日残存し、現タイ語と英語に翻訳されている。
この時期の芸術は、スコータイの影響が拡大するとともに、土着の源(ソース)も寄与した。ランナーの彫像はアユタヤ、ウートン様式と接触があった証拠を示している。しかしながら北タイのパヤオ、ナーン、ファンで新しい様式も出現している。
精緻な青磁がチェンマイや他の北タイ地域で生産された。仏教に関する絵画は、多色の彩色で飾られた。その幾つかの事例をチェンマイ国博で見ることができる。9回にわたって連載して来た。これからチェンマイ国立博物館を見学される方の参考になれば幸甚である。しかし、現在リニューアル工事中で全貌が見学できないのが残念である。




                          <了>



Central festivalシャトル時刻表

2015-12-27 09:18:23 | チェンマイ
チェンマイに逗留を始めて8カ月となったが、センターン・フェスティバルには月2-3回通ったであろうか。2015年12月現在の各ルート(何れも無料サービス)の時刻表を掲げておく。何らかの参考になればと思う。

<Route 1>ナイトバザール シャングリラ・ホテル方面

<Route2>二マンヘーミン通り(カンタリー イースティン)方面

<Route3>旧市街方面

<Route4>空港(センターン・サナンビーン)方面
時刻表記載の主要ホテルには、時刻表のコピーが備えられているので、レセプションにて申し込めば入手できると思われる。









12/25付Bangkok Post2題

2015-12-26 09:37:45 | タイ王国
昨日のバンコク・ポストから日本に関して2題。一つは、Better than an A is A5. との記事で神戸、三島、松阪、近江、飛騨牛がA5で、口の中で溶けると紹介されている。いまやバンコクを中心に裕福なタイ人には、和牛しかもA5が大人気である。
それは良いとして、三島?・・・である。三島牛より優れる和牛は多いであろう。バンコク・ポストの記者に何かつかませたのか? 我が田舎、島根和牛については何も取り上げられない。・・・県の役人は島根和牛拡販の為何をしているか?!

三菱のMRJはタイでも記事になっている。燃費の良さからタイでも注目されているであろう。良いことで記事になるのはいいが・・・。
400機以上受注し、納期が1年以上遅れて2018年第2四半期になるとの記事である。タイは多くの航空会社が入り乱れての激戦区である。多くの航空会社が関心を寄せているのは事実である。5度目の延期はありませんぞ。




チェンマイ国博ガイドブック・#8

2015-12-26 09:31:28 | 博物館・タイ
<続き>

<第2期:クーナー王―サームファンケーン王(1356-1443)>

1357年、ランナーはより強固となった。クーナー王は1時的にチェンセーンに移っていたが、そこからチェンマイに戻り権力を強固なものにした。
この時期の初期段階に、ハリプンチャイ時代から継承されていた、モン族の影響を受けた仏教の信仰形態が変化した。
それは彼が著名なスマナー長老をスコータイから招いたことによる。仏陀の遺物もまたチェンマイに持ち込まれ、スアンドック寺院に安置された。スアンドック寺院では、スコータイの影響を受けた蓮の形をした仏塔が建立(後に釣鐘型に改修)された。他のスコータイの特徴としては、仏塔の基壇に象をかたどったものがある。

           (写真はワット・チェンマンのチェディー)
またスコータイはランナーの仏像形式にも影響を与えた。この時期のランナーの仏像は、初期のチェンセーンとスコータイ様式が混合したスタイルを示している。この様式は第2期のチェンセーン様式に繋がることが知られている。スコータイ文字もランナーの書体に影響を与えた。




                        <続く>

チェンマイ国博ガイドブック・#7

2015-12-25 10:08:49 | 博物館・タイ
<続き>

<ランナー芸術>

ランナー芸術はランナーに居住していたタイ・ユワン族文化の特徴と、メンライ王が征服したハリプンチャイ文化の特徴をもっている。
彼は1296年、ピン川の西岸とステープ山麓の間に新都を築いた。以降600年に渡ってランナー芸術は進化した。次の期間に区分し紹介する。

第1期:初期段階のランナー芸術は、ハリプンチャイに見るようなMON-Khmer様式の影響を受け、西方ビルマの様式も見ることができる。
第2期:14-15世紀からは、スコータイ芸術の影響を受けた。
第3期:14から16世紀半ばまでを通じて、特にティローカラート王とケーオ王までの間、ランナー芸術は頂点の高みに達した。
第4期:16世紀の半ば以降は衰退し、ラオスのランチャンやビルマ様式がランナーの地域に影響を与えた。
第5期:近世については省略。

以下、ガイドブックが示す1~3期までを紹介し、4期以降は省略する。

<第1期:メンライ王―パーユー王(1296-1355)>

メンライ王がハリプンチャイを征服して以降、チェンマイの南にウィアン・クムカームを建設した。そこはピン川の氾濫により破壊されたので、新しい都を建設する必要があった。1296年メンライ王はルワ族が居住する地を新都と定めた。
 
(写真はワット・チェディー・リアム)
最もハリプンチャイの特徴を残すのは、ウィアン・クムカームのチェディー・リアム寺で、それを建立したとき、そこに居住した。寺院は、その後リノベーションが何回か行われたが、ランナー様式のオリジナルな姿が残存している。
(13-15世紀のランナー様式の仏陀座像。どこがランナー様式なのか?ど素人の当該ブロガーには分からない。ランナーの仏像と云えば、ほとんどが写真のように降魔印を結んでいる。何か理由がありそうだ。)
この時期にランナー芸術に影響を与えたのは、他に西方がある。記録①として残っているのは1290年、ビルマの首都パガンから職人をメンライ王が連れてきた。


①記録の出典については記載なし


                           <続く>