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弥生時代に倭(日本)語は存在した

2020-03-03 07:21:39 | 古代と中世

過去、「弥生時代に文字は存在した」と題して一文をUP-Dateした。2文字3文字以上の遺物が出土している訳でもないので、確証はないものの、松江・田和山遺跡(弥生期)から出土した硯と思われる石製品に2文字の墨書があるとのニュースが流れた。島根県の担当者氏によると、科学的分析が必要で、結論は出せないとの見解であったが、弥生期の文字発見は時間の問題かと思われる。

以下、それに関する噺であるが、字面のみで恐縮である。『魏志倭人伝』は漢文表記である。しかし倭人に関する箇所は倭語、つまり日本語表記である。

卑奴母離はヒナモリと読め、なにやら夷守と解釈できそうだ。卑狗はヒコ、すなわち彦と思われる。これらは帯方郡使が聞いた発音通りに表記したものと思われる。また卑弥呼の遣使が魏都に至り、その遣使が自らを名のったものを魏の役人が、漢字で表したものとも考えられる。

しかし、これらの想定は、やや安直な感じもする。魏の時代に卑奴母離を本当にヒナモリと発言したのか?・・・検証が必要であろうが、これは当該ブロガーのような素人の手にはおえない。

倭人伝には約30国の国名が表記されている。『伊都国』は今日イトコクと読む。帯方郡使が往来するに常に駐まる所と記す。伊都国は帯方郡使には衆知であり、倭人の間では一般的に、そのように発音されていたのではないか?

また倭人伝では、魏帝の詔書が卑弥呼に届けられたり、帯方郡守の使いが『檄』をもって告諭していることから、卑弥呼の周辺では漢字が読めるブレーンが存在したことになる。

弥生時代の人口は、国立民族博物館の推計で60万人とされている。沖合に漁にでかけ、海流や風に流され、半島や大陸に渡たり戻って来た倭人の一人や二人はいたであろうし、文献(魏志倭人伝)には、卑弥呼の遣使が魏都に至り、倭国に戻っていることを記している。文字は用いられ、今日の日本語とはややことなるであろうが倭語は存在したと思われる。

 

<了>


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