先般、1日だけではあるが、関西の古代遺物展示施設を巡ったのは、今回紹介する埴輪3点の実物を見てみたいとの、ある種の衝動による。1点目と2点目は、大阪歴史博物館展示の準構造船の埴輪である。先ず、それから紹介する。
準構造船形埴輪(二体成形タイプ) 大阪・長原高廻り2号墳出土 4世紀末
準構造船形埴輪(一体成形タイプ) 大阪・長原高廻り2号墳出土 4世紀末
いずれも重要文化財に指定されている。故・江上波夫氏は戦後間もなく、天皇家のルーツは騎馬民族にあるとして、騎馬民族征服王朝説を樹立され、後年文化勲章を受章された。騎馬民族が王朝を樹立したとは思わないが、騎馬民族は確実に渡海してきた。その騎馬民族が渡海に用いたであろう準構造船である。下の写真の準構造船形土器は、韓国・金海国立博物館の展示物である。4世紀の伽耶国にも、日本の埴輪が示す準構造船と同系の船が彼の地に存在していたことを示している。
(準構造船形土製品 金海国立博物館にて)
騎馬民族は伽耶から、この準構造船に乗って日本列島に遣って来たと考えられる。あるいは騎馬民族の本貫の地である高句麗、具体的には鴨緑江河畔の地から、直接渡海して来たとの妄想も湧く。
3点目の埴輪は、囲い形埴輪である。それは加古川市立総合文化センター博物館に展示されていた。
恥ずかしながら、この囲い型埴輪と中の建物埴輪は、何やら神社建物の祖形ないしは首長の館で、それが塀に囲まれていた・・・程度にしか考えていなかったが、それが下写真の導水施設土製品を伴っていたのである。
つまり、囲い型埴輪の中にある建物埴輪の内部に、当該導水施設土製品が置かれていた。これは被葬者の死体を浄める導水施設であり、殯の宮に相当する。殯の宮であるからして、神社建築の祖形と云える。尚、囲い型埴輪の入口上部には鋸刃のようなギザギザの鋸歯文をみる。これは魔除けの意味で、今日の北タイにおける山岳民族の集落入口で見ることができる。古代においては、人類皆兄弟であったのだ。
<了>
船の埴輪など、殆ど傷もなく、今、作られたような保存状態も良いものですね(^_^)