世界の街角

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伽耶展(9)

2023-09-03 08:33:51 | 日本文化の源流

<続き>

今回は大伽耶と小伽耶出土の金製耳飾りに絞って紹介する。先ずは陜川玉田M4号墳(6世紀前半)出土の耳飾りである。環の下に華麗な飾りを垂らした金製の耳飾りで左右一対であるが、今回は片方のみの展示であった。木の実のような、これを山梔子(くちなし)形と呼ぶようであるが、これは大伽耶の耳飾りの特徴であるとされている。

出品番号・103 陜川玉田M4号墳 6世紀前半 大伽耶 

5世紀後半の北部九州では、新羅系の耳飾りが出土するが、『磐井の乱』の6世紀前半になると、磐井の本拠地・八女古墳群(立山山8号墳)や、玄界灘沿岸の春日市日拝塚古墳などに、大伽耶系の山梔子形の垂飾をもつ耳飾りが副葬される。この変化は北部九州の在地豪族の対朝鮮半島交渉をめぐり、政治的な変動があったことになる。

香春町長畑1号墳出土 新羅系耳飾り 5世紀後半 出典・香春町観光協会Hp

立山山8号墳出土大伽耶系耳飾り 6世紀前半

日拝塚古墳出土大伽耶系耳飾り 6世紀前半

(北部九州で出土する耳飾りが、5世紀後半の新羅系が、6世紀前半に至ると大伽耶系に変化することを理解いただけたものと考える)

倭王権は百済と大伽耶と友好的な関係にあった。『磐井の乱』の前後に、北部九州の有力者たちも倭王権の外交政策に沿わざるを得ず、その結果として大伽耶系の耳飾りが、それまでの新羅系の耳飾りをおしのけて、北部九州で突如として広まったと思われる。

出品番号110は順天雲坪里M2号墳出土の耳飾りである。この雲坪里古墳群について説明する。

西暦510年代に百済が進出した蟾津江(ソムジンガン)下流域の西に、順天(スンチョン)がある。百済と大伽耶の境界にあたる。順天の平野の北側に雲坪里(ウンピョンリ)古墳群が営まれた。5世紀終りから6世紀前半にかけて、高塚の墳墓群が築かれた。古墳群の麓には順天西川が流れ南の海に出ることができる、要衝の地である。その古墳群から出土したアクセサリーが、大伽耶と百済の狭間に生きた集団の性格を表している。

我々日本人は必ずしも単細胞ではないが、彼の地の人々はしたたかであったかと思われる。この古墳群からは2点の耳飾りが出土した。1点は大伽耶系(出品番号・110)で、もう1点は心葉形垂飾がつく新羅系(出品番号・109に似ている)の耳飾りであった。勢力的に弱い立場の人々は、保険をかけていたのである。

参考文献

1.アクセサリーの考古学 高田貫太著 吉川弘文館

2.海の向こうから見た倭国 高田貫太著 講談社現代新書

<続く>