<続き>
3.出雲弥生の森博物館(1)
(北陸系土器:弥生後期)
(吉備の土器:弥生後期)
(山陰の土器:弥生後期)
銅剣や銅鐸等の青銅器を使ったマツリが廃れた後、四隅突出墳丘墓を造ることに力を注ぐようになったと解説されている。そこからは、吉備や北陸の土器がまとまって出土している。
先に銅剣や銅鐸の一括埋納は、ヤマト王権に屈した証であろうと記述したが、当該解説によるとそうでもなさそうで、四隅突出墳丘墓を築造した人々によって侵略された可能性を、示唆しているようにも受け取れる。ではどのような民族や人々であったろうか?四隅突出墳丘墓の裾には立形の列石や敷石が巡らされ、斜面に貼石がある。これは高句麗・蓮舞里二号墳との類似性が指摘されている。安直で恐縮であるが、してみれば北の遊牧系民族あるいは、誰かさんの唱える騎馬民族か?・・・それらの人々が弥生・出雲王国の主と入れ替わったのか?
墳丘墓の頂には柱穴が残されており、柱を建てたのであろう。これは吉野ヶ里墳丘墓参道脇の柱と、趣旨は同じであろう。それは東南アジア少数民族のラック・ムアン(国の御柱)と同じものと解釈される。
<続く>