goo blog サービス終了のお知らせ 

世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

ターペー通りの骨董店:袁世凱2題・その1

2016-05-04 09:31:19 | 陶磁器
仕事の関係でチェンマイに赴任して1年目頃であったろうか、ターペー通りの骨董店にて、「洪憲年製」の落款入りの盤をみた。その盤についての噺である。
洪憲年製陶磁については、天野浩伊知氏の著作に詳しく記述されている。概要は以下のとおり。
1915年、辛亥革命に乗じて中華民国の大総統に就任した袁世凱は、帝政復活の野望を抱き、1916年元旦をもって元号を「洪憲」と定め、自らが皇帝になる事を宣言する。しかし、その野望は崩れ去り、1916年2月9日に予定されていた「皇位戴冠式」は行われず、袁世凱は失脚した。帝政復活を宣言し、新元号を「洪憲」と定めたのが1915年の年末、そして袁世凱が失脚したのが1916年の3月22日である。
 中国では清朝以来、皇位戴冠の際に部下の高官に対して高級磁器を配るという慣行があった。袁世凱は自分の堂斎銘である「居仁堂」という銘款を入れた焼き物を作らせていたので、戴冠式に向けて高級磁器製作を景徳鎮に命じたであろうと言われている。しかし、袁世凱は失脚、予定されていた戴冠式も行われず、その為に用意されていた高級磁器もその役割を果たせぬままとなった。その後陶磁器の所在は?である。ところが後年、「洪憲年製」と落款された磁器が存在することが明らかになった。
それらが果たして本当に袁世凱が作らせたものかどうか?僅かに散見される「洪憲年製」磁器は清朝でも、最高の磁器が製作された「乾隆帝時代」のものと比べて、遜色ない出来栄えのものが多い。中国陶磁研究者の中には、この「洪憲年製」磁器はよく出来た贋物だという人が存在する。つまり、袁世凱が大総統時代に焼いていた「居仁堂」にあやかり、でっち上げたというものである。
つまり、袁世凱が「洪憲」という元号を決めたのは1915年の年末であり、皇帝戴冠式は2月である事から、時間的にまず磁器の製作が間に合わないと言う事実。また、当時は景徳鎮から北京までの陸送に1ヶ月以上かかっていた。つまり時間的に符合しないということである。
一方、中国古陶磁器研究者の中で「洪憲年製」磁器は間違いなく存在したという説がある。袁世凱は「洪憲」と言う元号を随分以前から決めており、その時に大量の磁器の製作を景徳鎮に命じたいたという事が一つ。もう一つは現存する「洪憲年製」磁器の品質は清時代の官窯の作品と比べても遜色のない出来栄えで、こんなに優れた贋作は有り得ないという説である。
この言い分に対して反論する人は、当時はまだ清時代皇帝専属の窯、いわゆる官窯で働いていた熟練陶工がまだ存命な上、生活が苦しかったので、贋作者の注文にも必死に応じたのではないかという意見である。
何やら堂々巡りのようで、容易に結論はでないが、「洪憲年製」は偽款(倣款)と見るのが妥当であろう。しかし、青花・赤色・藍料の方款「居仁堂製」・「洪憲年製」・「洪憲御製」は、その優品に限って1916年から1925年までの10年間の品々、これらは本歌ではないが、本歌に準ずる品として珍重されている。
そのような精作に、ターペー通りの骨董店で出あった。それが下の写真である。先ずは何故、香港や上海ではなく、チェンマイでということであるが、それは驚くことではない。チェンマイには多くの中国人移民が存在するからである。


実に手の込んだ落款で、朱と金彩で描きこまれている。先に示した10年間以降、つまり1925年以降の焼成品と考えられなくもない。しかし、見込みに描かれる龍鳳凰文や花唐草は精作そのものである。
上海で入手した書籍「清代瓷器賞鑑」が手もとにある。

大清光緒年製なる官窯銘をもつ粉彩龍鳳凰文盤が掲載されている。先の「洪憲年製」の盤と比較すると、龍と鳳凰の形はやや異なるが、その精緻さにおいて引けをとらない。
同書には、倣款が掲載されている。それが下の写真である。そして「洪憲年製」をもつ陶磁は、すべて倣作として取り扱っている。
インターネット・オークションには、洪憲年製の落款をもつ陶磁が出品されているが、いずれも雑な絵付けであまりにも酷い。すべての写真を掲載すれば、商売の邪魔になるので、出品陶磁の落款のみ掲載しておく。



袁世凱も死して、後世に話題を提供しているさまは、本望であろうか。ターペー通りの骨董店で入手した洪憲年製・粉彩龍鳳凰文盤を見るたびに、袁世凱の禿げ頭を思い出す。



                            <続く>




ターペー通りの骨董店:謎のラオス陶磁

2016-05-03 09:04:45 | 陶磁器
<ターペー通りの骨董店シリーズ・#1>

ターペー・ゲートからピン川方向に100-150m程の処に、骨董店があったが6-7年前に閉店した。その骨董店で入手したのが、写真の花瓶である。

老主人はタイ語のみで、当地に赴任したて(20年前)の当該ブロガーには、さっぱり理解できなかったが、幸いにも主人の娘さんが英語を話した。
聞くと具体的な焼成地は分からないが、北タイ産であると云う。当時3000B程だったので、迷わず購入した。老主人は、何を根拠に北タイ産と云われたのか、根拠を聞かなかった。鉛緑釉はカロンの一つの特徴であるが、当該花瓶の掛け流しの緑釉と比較すると、どことなく味わいが異なる。合わせて浅薄な知識ながら、カロンに掛け流しの装飾はなさそうなので、確かにカロンではなさそうだ。それではパーンであろうか?・・・でも、なさそうだ。
月日は経過した。上記写真を見て、富山・佐藤記念美術館の学芸員氏から、ラオスのジャール平原では・・・との指摘を受けた。調べると掛け流しの緑彩陶磁が特色で、時代は若干下り16世紀頃とのことである。
その後、このジャール平原の緑彩陶磁について調べるが謎が多すぎて、真実に辿り着けないでいる。どうも、窯址さえ発見されていないようである。
写真はハノイ国立博物館展示のキンマ用のライム・ポット(石灰壺:15-17世紀)で、緑釉が掛け流しされている。上のジャール平原産と思われる緑釉掛け流し壺は、この安南陶磁の影響が考えられる。
ジャール平原は、ラオス・シェンクワーン県に在る。県都ポーンサワンから7号線を西に20kmのムアン・ソイのプー・ケンという山の斜面に、例の謎の石壺が在る。その一帯のどこかに窯が存在していたであろうと云われている。
黎朝大越国5代・黎聖宗(在位:1460-1497)は、洪徳10年(1479)8月ランサーン王国へ親征し、5方面から進軍した。王都ルアンプラバーンを破壊、ポーンサワン地域に鎮寧府を設置し、7県を置いて統治したという。ルアンプラバーンは平地がないが、ポーンサワンは東西25km程の盆地で、ベトナムにも近く鎮寧府を置くには適していたであろう。
16世紀と云われる先の花瓶、15世紀末大越国による鎮寧府の設置。これらを勘案すると、鎮寧府設置後ベトナム人の関与により、ジャール平原の辺りに窯が設置され、ベトナム風の上記花瓶等が焼成されたものと思われる。
このジャール平原産陶磁については謎が多い。若き研究者により謎の解明が進むことを期待したい。








三川内伝統産業会館・三上次雄コレクション

2016-04-27 07:28:45 | 陶磁器
川内伝統産業会館には、三川内焼の歴史展示のほか、現川焼も展示されているであろうとの期待で訪れた。残念ながら大きな目的である現川焼の展示はなかった。代わりと云えば語弊があるが、三上コレクションが展示されていた。展示点数は少ないものの、氏の広範な活動を伺うことができた。


タイルとしては、最もポピュラーなラスター彩鳥花文星形タイルである。色数は少ないが縁の藍色はラスピラズリを思わせ、イスラム寺院の尖塔を思い出す。
色釉鹿花文タイルで17世紀サファビー朝のもの。やはり藍ないしは青色が基調である。

ラスター彩花文二段瓶。同じく17世紀のイラン・サファビー朝で焼成されたもの。ラスター彩とは金属ベースの釉薬で文様を描いたものである。
シーサッチャナーライの青磁瓶でよく目にする一品である。
これもシーサッチャナーライの鉄絵ケンディーで、これもよく目にする一品。

クメール、タイ、安南等々広範に展示されているが、スペースの関係からか?展示数が少ない。貴重な品々をもっと鑑賞したい、三川内伝統産業会館には再考願いたい。














平戸紀行 #5 (波佐見・やきもの公園)

2016-04-21 08:39:14 | 陶磁器
<龍窯・中国>



<穴(窖)窯>
穴窯の断面模型である。これをみていると北タイの中世の窯は、ここから派生したであろうと、容易に想定される。同様に龍窯もこの穴窯の発展形であろう。
北タイの中世の横焔式単室窯は、直接的には安南(ベトナム北部諸窯)の影響を受けたと考えるが、その更にオリジンと思われる映像(・・・と云っても極一部であるが)を過日見た。それは北宋・徽宗期の雨過天晴磁を焼成した汝官窯の窯址である。その窯址は小型窯で秘色青磁を焼くため、小型にして温度制御に注力したという。それが下の写真であるが、窯高さは言及なし。
写真といっても、発掘地点を図面化した映像で、Y19とかY20がそれであるが、図面からみるに単室窯である。これだけでは倒焔式か横焔式か分からないが、横焔式単室窯に見えなくもない。
横道の話はこの程度にして、やきもの公園内のほかの窯について、紹介を続けたい。
<登り窯>

日本に導入され、現在も用いられている薪投入窯。
<景徳鎮の薪窯>

やきもの公園内に復元展示されている窯は以上である。全体的印象は中途半端で食い足りない。遣るからにはもっと充実して欲しいと、勝手ながら感じた次第である。














平戸紀行 #4 (波佐見・やきもの公園)

2016-04-20 07:13:49 | 陶磁器

<レンガ焼成窯・中国>

 


<倒焔式窯・トルコ>

 

 


<昇焔式・オリエント窯>

 

 


<昇焔式石炭窯>

 

いずれも日本では馴染みのない窯ばかりであるが、土地と云うか国あるいは民族により、窯構造を色々と着想するようである。高温を得られる窯、燃焼効率のよい窯を目的に応じ考えられた結果であろう。




                             <続く>