今回から、日本最古の水田跡で縄文晩期と云われる菜畑遺跡と、出土品を展示する末盧館を紹介する。
入口
末盧館
先ず、日本最古の水田跡だが、復古田として稲作が行われていた。刈り取り前の様子をご覧願いたい。
想定復元された竪穴住居内の様子。
男性は黒漆塗の碗をもつ。女性は杓子で御飯のような調理済みの食べ物を掬い取っている。当時の食事風景として大きな齟齬はないと思われる。尚、箸はまだ存在していなかったと思われるが、スプーン状の木製匙は存在していたであろう。今回はココまで。
<続く>
今回から、日本最古の水田跡で縄文晩期と云われる菜畑遺跡と、出土品を展示する末盧館を紹介する。
入口
末盧館
先ず、日本最古の水田跡だが、復古田として稲作が行われていた。刈り取り前の様子をご覧願いたい。
想定復元された竪穴住居内の様子。
男性は黒漆塗の碗をもつ。女性は杓子で御飯のような調理済みの食べ物を掬い取っている。当時の食事風景として大きな齟齬はないと思われる。尚、箸はまだ存在していなかったと思われるが、スプーン状の木製匙は存在していたであろう。今回はココまで。
<続く>
<続き>
今回は、慶長の役関連資料を紹介する。尚、秀吉が当地に持ち込んだ茶等々の桃山文化に関する展示物の紹介は省略する。
文化の移入の最たるものは陶磁器であろう。磁器を生み出した李参平は鍋島直茂により、沈当吉(壽官)は島津義弘により連れてこられた。彼らは、それぞれの始祖である。
以下、李朝より日本に来た陶工の流れを汲む品々である。品数は少なく唐津、伊万里の順である。
以上、7回にわたって名護屋城博物館の展示品を紹介した。印象に残った博物館の一つである。
<了>
<続き>
秀吉の第一次朝鮮の役(文禄の役)に関する展示品を紹介する。
写真の人物絵画が日本軍を苦しめた李舜臣
日本軍が渡海と海戦に用いた安宅船。役に立ちそうもない船で、何やら平和ボケのように見えるのだが。
李舜臣の亀甲船・戦いの船だ
朝鮮・明軍の武器
日本軍の武器
文禄二年一月の平壌城攻防図
清正・正則・長政の進撃は著しく、明の国境に迫ったが明将・李如松の軍(兵力4万3,000人)との戦いに及び、食料が切れたこともあり退却することとなる。
講和後、明・神宗の勅諭が秀吉に届けられると、秀吉はキレた。慶長の役の始まりである。それは次回。
<続く>
<続き>
今回は、元寇に関する若干の資料と、秀吉の朝鮮の役の前段階の展示資料を紹介する。
元寇については、僅か以上である。以下、朝鮮の役関連展示物である。
秀吉の朝鮮半島侵攻が始まるが、名護屋の地は一夜にして殷賑極まる地となった。その様子を紹介する。
ほんまかいな・・・と思われるほどの建物が一夜にして築かれたと云っても過言ではなかろう。壮大な無駄使いであった。この後、秀吉の死去と共に『関ケ原』が始まる。その序曲が朝鮮の役である。
<続く>
<続き>
朝鮮半島の三国時代は日本の古墳時代に相当するが、その三国時代の出土品のレプリカが展示されている。
新羅はユーラシア大陸の影響を受けた出土品と黄金文化がつとに名高い。
金製銙帯(かたい)、腰佩(ようはい)レプリカ 慶州金冠塚出土
この後、仏教伝来以降の展示品の紹介は省略し、次回は元寇に関する展示品を紹介する。
<続く>