新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

6月19日

2018-06-19 08:21:23 | コラム
誠に傷ましい自然災害だった大阪北部の大地震:

先ずは犠牲になられた4人お方のご冥福を祈るとともに、負傷された方々の速やかな回復を祈念したい。

昨日は8時半前に外出したので、8時頃に震度6だったかの地震が発生したというテレビのニュースは見ていた。だが、案外に淡々とした伝え方だったし、未だ被害というか損害の絵が流れていなかったので、その揺れ方にしては報道に危機感がないなという程度の感想だった。だが、3.11の揺れを喫茶店の2階で経験した者としては「これは大災害になるのでは」と危惧はしていた。結果は昨日からの報道の通りである。

そこで、我が国での災害が発生した時、それも空陸の交通網が遮断されるような事故も含めてだが、こんな時に言うのは不謹慎かも知れないと危惧して敢えて述べたいことがある。それは我が国の会社勤務の方々を主軸にして勤労者は「勤務時間」に余りにも忠実ではないかという、アメリカの文化というか仕組みと比較して、非常に真面目で且つフェアープレーに徹しておられるのではないかという感想である。

数十年も前のラッシュアワーの時のことだが、東武浅草駅から地下鉄銀座線の浅草駅まで多くの通勤者、それも女性が主だったが、言わば目の色を変えて失踪する風景を見た初来日のアメリカで不動産会社経営の女性の社長さんが「何故彼らはあれほど急ぐのか。何かそういう特別な必要に迫られているのか」と質問された。「それは、我が国には『遅刻』とい就業規則に定められた制度があってほとんどの会社が09:00までの出勤が義務となっている。それに1分でも遅れると遅刻となって、中には遅刻3回で有給が1日減らされる罰則を設けている企業もある」と解説した。

社長さんは「それは良い制度だ。我が社には出勤時刻が常に遅い者が数名いる。そういう態度を改めさせる為にも導入を検討しようか」と『遅刻制度』を大いに評価されたのだった。これには一寸驚かされた記憶があった。アメリカ人らしくない考え方だったからだ。

我が社の最大手の取引先だった某大手製紙会社の常務さんにこの話をしたところ「それは、我が国では仕事は皆が同じ時刻までに集まって、皆で一緒に始めようという企業の文化である。全員が挙ってという精神の表れと解釈すべきだ」と解説された。だからこそ、乗り換えの際にも一刻を争って走って、連絡する電車を逃すまいとする「皆で一丸となって」という精神が現れているのだ。

だが、その「皆で」という美しい精神を事故が発生した時になると、何が何でも守らねばという心がけが具体的に現れて無理をしても出勤せねばとなって、交通渋滞等に拍車をかけているのではないかという気が、今や一傍観者になった私には見える気がするのだ。私は「会社側から交通事故や自然災害が生じた場合には『遅刻』を厳守せずとも良し」といったような例外規定を設けておいても良くはないかとすら思うことがある。我が国の人たちはそういう規定を悪用するような民族ではないと、会社側も性善説を信奉しても良いのではないか。

アメリカ流に考えれば、今や我が国でも会社にも自宅にもPCがある時代だし、仮令自宅にPCがなくてもスマートフォンがあれば自宅から会社とも、得意先にも連絡がつくのではないのか。即ち、万難を排して片道に数時間をかけて出勤せずともことが足りる時代ではないもかと思う。アメリカ式働き方は以下に述べておこう。

W社では一応08:00から17:00までが勤務時間とはなっていたようだ。だが、各自はそれぞれに与えられた「業務内容記述書」があって同じ事業部の同僚と仕事の内容に重複はない。だから、各人が自分に当たられた課題をこなす為には朝何時に出勤し、夕方は何時まで社内にいてもそれはその者の都合であり勝手であるのだ。即ち、必要とあれば朝は6時に出勤し社内のカフェテリアで朝食をとって仕事を開始し、無事に終われば午後の3時に引き上げてしまうことも許されている。

言い方を変えれば「全てが自己都合」なのである。ホームオフィスなどという言い方もあったが、出勤してこないで「本日は在宅勤務」などという働き方もある。だからこそ、遅刻などという制度が存在しないし、できる訳もないのだ。要するに「如何なる勤務状態であっても、与えられた任務を達成できなければ如何なる処分が待っているのか」という世界なのである。尤も、NYやLAやシカゴなどという大都会を除き鉄道などという交通手段はないのだから、自分の車で出勤するしかないのだ。故に、もしも遅刻製度があれば、全て当人に責任があるのだ。「交通渋滞があって」などという言い訳は通用しないだろう。

私には俄に日本とアメリカの何れの制度が良いかとか優れているとか、現地の実情に適合しているかは判断のしようがないと思う。それはそこには両国間の文化と物の考え方の違いがあるからだと思う。アメリカ側には「個人の主体性」と「個人の能力に依存した(立脚した)システム」があり、我が国では「皆でやろう、助け合ってやっていこう」という美風があり、「皆で一丸となって」という精神がある。私は何れか一方が優れているなどという気はない。こういう相違点を相互に理解していくことが大事だと思うのだ。



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