♦️44『自然と人間の歴史・世界篇』世界文明の曙(メソポタミア、~紀元前2500年、シュメル文化)

2017-11-11 21:33:49 | Weblog

44『自然と人間の歴史・世界篇』世界文明の曙(メソポタミア、~紀元前2500年、シュメル文化)

 この頃のメソポタミアになると、銅器、そして銅と錫(すず)を混合した青銅器が生まれ、シュメル人による絵文字と、その改良としての楔形(くさびがた)文字、月と太陽の周期をもとにした太陰太陽暦、金星と太陽の周期からの六十進記数法、のこぎり、ハンマ、船、日干し煉瓦などを発明した。
 わけても、文字の発見はその後の文明発展にとって画期的であった。楔(くさび)形文字は、粘土に刻まれた。古いものでは、現在のイラク南部で発見された「初期の書字板」があり、紀元前3100~前3000年頃のものとされる。大きさは9センチメートル×7センチメートルほどしかないものの、三段に渡り、ビールの配給にまつわる事柄(数量など)が刻まれている。ビールは、当時の人々の主要な飲料であった。それは、労働者に配給物資として渡されていた。これに記したのは役人であったと考えられている(詳しくは、ニール・マクレガー著・統合えりか訳「100のものが語る世界の歴史1、文明の誕生」筑摩書房、2012)。
 さらに驚くことには、学校制度があったのではないか(これを伝える文献としては、小林登志子「シュメルー人類最古の文明」中公新書、2005など)。これら一連のシュメル人たちのつくりあげた文化は、「ウルク文化」、さらに広くは「メソポタミア文明」そのものの代名詞として用いられる。これこそ人類最古のまとまった文明と見られるが、やはり最大の発見は、文字の発見であったろう。このことを中核にして、人々の生活全般に対するしっかりとした認識が生まれ育ち、広がっていったであろうことは、想像に難くない。

(続く)

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♦️43『自然と人間の歴史・世界篇』世界文明の曙(メソポタミア、シュメル人の国家)

2017-11-11 21:32:39 | Weblog

43『自然と人間の歴史・世界篇』世界文明の曙(メソポタミア、シュメル人の国家)

 そして、紀元前4000年頃に、今度はシュメル人(スメル人)たちの、この地域への進出が進む。しかし、このシュメル人たちは一帯どこからやってきたのか、かれらはどの系統の種族であったのかは、必ずしも明らかでない。それからの、シュメル人たちは、諸部族レベルの小国家からより大きな国家へと進もうとした。小川英雄氏の金光には、こうある。
 「スメル王名表のうち、洪水前の王たちについては、上述の通り、伝説的要素が濃いため確認することができない。しかし、最近の推定によれば、洪水前に記録された王朝のはじまりは前3000年頃で、それが約200年間続いた。そして、次に洪水が起こり、既存の諸都市と王朝の大部分に壊滅的な打撃を与えた。(中略)スメル王名表によると、大洪水ののち、王権は点からキッシュに下った。その後、約250年間は、東方のエラム人
との戦いばかりでなく、スメル人諸都市の対立抗争に費やされた。しかし、これらの都市国家のどれもが、全スメルの地に対する支配権を確立することは出来なかった。そのためにも、各々の国は社会組織を整備するひっように迫られていた。」(小川英雄「西洋史特殊Ⅰー古代オリエント史」慶応義塾大学通信教育教材、1972)
 では、こうした彼らの国づくりの土台になっていったであろうか。そんな中でも、生産力はどのようにして発展していったのだろうか。それを語るには、想像力を豊かにしなければならない。この地、この時での、人類の「重要な一歩ー狩猟採集から農耕へ」の模様を、ルース・ドフリース氏は、こう推測している。
 「初期人類は何世代にもわたって狩猟採集生活で木の実や果実、肉を得ていた。やがてあるとき、とある場所で、地球上にあらわれて間もないヒト科の人物が重大な一歩を踏み出した。チグリス川、ユーフラテス川、ヨルダン川の周囲の峡谷と丘陵を含む弧状の地域を「肥沃な三日月地帯」と呼ぶ。そのどこかで、食料を採集していた人物が手に入れた二種類の野草のタネが、のちに小麦となった。いまもシリア北部とトルコ南東部では、このときの草、ヒトツブ小麦とエンマー小麦が自生している。(中略)
 のちに、人間は動物を繁殖させて家畜化し、野生種よりも飼いやすい羊、ヤギ、豚、牛をつくりだした。家畜は人間から与えられる餌で育った。飼い主は世話をし、餌を与え、天敵の脅威から守る代わりに家畜の肉、乳、労働力を利用した。人間が動植物の自然選択の舵を握ったのである。祖先は自分たちに都合よく改良を重ね、動植物をそれぞれ栽培用・家畜用の品種に変えていった。これがけっきょく、人間をも変えることになる。狩猟採集していた人びとは農耕と家畜の世話に転じた。これが農業のはじまりである。」(ルース・ドフリース著・小川敏子訳「食糧と人類ー飢餓を克服した大増産の文明史」日本経済新聞社、2016)
 もちろん、人間はその粒のままでは、消化がうまくできない。そこで、石臼(いしうす)や棒などを使って粉に加工し、その固まりを焼いて食べることになったのであろう。こうして、文明はその発生の時から、パンとともにあったと考えるのが自然だろう。とはいえ、パンが主食だったといっても、社会の一角を占めていたはずの貧しい人々の食卓にまでパンが日常普段に上がっていたかどうかは、一階に言えまい。この点は、古代エジプト社会でのパンの扱われ方とは別の視点が必要なようだ。少なくとも、後にエジプト軍隊の海外遠征が相次ぐようになって、そこから連れ帰った人々を奴隷としてこき使うようになるまでは。
 そして地質年代表記で、「初期王朝の第3期」とされる、紀元前2500年頃からの時代に入っていく。その頃、シュメル都市国家の一つであるラガシュで、ウル・ナンシェが王朝を建てた。ここにラガシュとは、「ウル・ナンシェ以前の時代にギルス、ラガシュ、ニナ、そしておそらくニンマルの四独立都市が連合して生まれた都市国家の名前」(前川和也編著「図説メソポタミア文明」河出書房新社、2011)をいう。それからは、彼の子孫達5人、ついで彼らと血縁関係がないと目される3人の王が次々に王に立ち、王朝を引き継いでいく。小川英雄氏は、当時のシュメル人都市国家の構造を、こう解説する。
 「このようなスメル社会の初期王朝時代の末期における姿は、ラガッシュ王ウルカギナ(前2415~2400)の「改革文書」を見るとわかる。その頃までに重要な社会的欠陥が存在するに至った。運河は破損し、神殿領は過度に強大化して、役人は不当な利益を受け、神事が怠られていた。ウルカギナはこの沿い子の成文法を定めることによって、このような弊害を打破しようとした。彼はスメル全体の統一をも目指した。また、次に現れた王ルガルザギッシはラガッシュ、ウル、ラルサなども征服したが、元来都市国家単位のメル人の手によっては、メソポタミアの統一は達成されなかった。」(小川英雄、前掲書)
 加えるに、当時の社会は、厳しい身分制に置かれていたことがわかっている。奴隷とは、一概に自由を奪われた人びとをいう。これに至る事情には、およそ三つの類型があったと考えられている。一つは、債務を負えないことから奴隷となる者、二番目は犯罪に関わって奴隷にされる者、さらに戦争に負けたことでの奴隷などであった。これらのうち犯罪に関わる例として、ウル第三王朝時代(紀元前2112~2004年頃)だと考えられる判決文に、「漁師ウルメシュの妻ババ。その娘メメムおよびウルメシュの女奴隷メギグンナは、ウルメシュが強盗を働いたので、漁師シュルギルガル、ルガルイマフおよびルマグラに女奴隷として与えられた」と刻まれている。
 こうして一次隊を築いたシュメル国家なのだが、紀元前2000年頃には、シュメル人は忽然(こつぜん)と歴史の表舞台から消えてしまう。その原因は、異民族の侵入によるものだともいわれるものの、確かなところはまだ分かっていないようだ。

(続く)

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♦️42『自然と人間の歴史・世界篇』世界文明の曙(メソポタミア、ウバイド人の社会)

2017-11-11 21:31:38 | Weblog

42『自然と人間の歴史・世界篇』世界文明の曙(メソポタミア、ウバイド人の社会)

 時代はさらに下って、新石器時代から銅器時代へかけての文化が、おそらくは人類史上初めてここに始まった。1923~24年の南メソポタミアの、テル・アル・ウバイドでニンフルサグの神殿などの古代遺跡を発見する。ここにウバイドというのは、このアル・ウバイド遺跡で最初に発見された人類の痕跡として命名された。このウバイド遺跡の近くには、後のウルやウルクの遺跡もある。ウバイド遺跡からは、土器を焼いた窯が発掘されたほか、姿を形どった人物像も遺跡から数々出土している。このことをもって、彼らを「ウバイト人」と呼びたい。
 ウバイド人たちは、ハフラ文化を引継ぎ、また農地の拡大を求めて、チグリス・ユーフラシス川の下流の乾燥地帯に移動してきたのではないかと考えられている。彼らが使っていたものに、「彩紋土器」があり、濃い茶褐色の紋様があることで知られる。そればかりではない。彼らは、今日のトルクメニスタン南部・イラン北部地方の銅を採掘し、銅器や車輪や農具などに利用していたことが、最近までの発掘調査で分かってきている。その意味では、ウバイド人たちは後のメソポタミア文明の基礎を作った。その期間をウバイド期と呼び、紀元前5000年~3500年頃であったとされる。
 生活を支える生産力発展の観点からは、農耕(定住農耕生活)と牧畜(遊牧生活)との両方がこの地域に見られる。中でも特徴的なのが、この乾燥地帯において自生していた麦を発見したことであった。野生の麦の種類は、大麦、小麦、エンマー小麦であったのだろう。このあたりは広大無辺な砂漠地帯なのであるから、麦を拡大して収穫できるようにするためには、灌漑で水を引き入れることで肥沃な耕地としなければならない。
 さらにある。ウバイド人たちは、ウバイド文化中期の紀元前4800年頃~紀元前4500年頃に灌漑(かんがい)による農耕を考案した。灌漑というのは、水を採り入れるだけでなく、塩害を防ぐためには排水も可能にならないといけない。それからは大規模な集落ができるようになった。この農業面を中心とする生産性の発展は、より多くの民を養うことができるようになっていく。それまでの自然発生的な村落共同体や小規模な氏族共同体の集まりが次第に統合されていく機運が生まれてくるのは、必然というものであったのではないか。

(続く)

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♦️568『自然と人間の歴史・世界篇』ヨルダン(~1960年代)

2017-11-09 20:53:07 | Weblog

568『自然と人間の歴史・世界篇』ヨルダン(~1960年代)

 ヨルダン・ハシミテ王国は、中東・西アジアに位置する。共和制ではなく、立憲君主制をとっている。首都はアンマン。イスラエル、パレスチナ暫定自治区、サウジアラビア、イラク、シリアと隣接する。
 このヨルダンの地に人が住み着いたのは、いつの事であったのだろうか。この周辺の地には、旧石器時代から、人類が住み着いていた。紀元前8000年頃には、既に農業が営まれていた。アラブ、そして西アジアと、ヨーロッパとをつなぐ交通の要衝にあることから、古くから交易の中心地として栄える。この地域には、古くから王朝が建てられていく。紀元前13世紀頃、ヨルダン川の東にエドム王国があった。そればかりではなく、現在のアンマン周辺にはアンモン人によるアンモン王国、その他にもギレアド、モアブなどの王国があったと、旧約聖書にある。これらの国は、エジプト、アッシリア、バビロニアそれからペルシアによって絶え間なく征服されたり、支配下におかれていく。
 紀元前1世紀頃には、ヨルダンの南部にナバテア王国があった。世界遺産に指定されているペトラ遺跡が当時の繁栄を偲ばせるのだが。1世紀~2世紀には、この地はローマ帝国に併合され、その支配下にあった。その後、東ローマ帝国(ビザンチン帝国)の領土に組み入れられる。633~636年にかけては、アラブ人のイスラム帝国によって征服され、イスラム化が進んでいく。その後、現在のシリアの首都、ダマスカスを都としたイスラム帝国のウマイヤ朝が滅びると、その辺境にあったヨルダンの都市文明の繁栄にも陰りが次出ていく。1099年に十字軍がこの地に進出し、エルサレム王国が建設されると、この周辺の地は一時期、キリスト教色が強められる。その後は、エジプトのマムルーク朝の支配に組み入れられる。1517年からは、シリア、レバノン、ヨルダン、パレスチナ
を含めアラビア半島の一帯は、強力な軍事力をもつオスマン帝国に支配される。
 そんな封建制の支配下にあったこの地にも、20世紀に入って新しい時代の波が及んでくる。ヨルダンは、1919年、英の委任統治領となる。1923年、トランスヨルダン首長国として建国の時を迎える。第一次世界大戦においては、オスマン帝国は、ドイツと同盟を組み、イギリス、フランスと交戦する。1926年には、イギリスとフランスはオスマン帝国に対抗するため、アラブ人に独立を呼びかける。オスマン帝国との戦いに協力すれば、アラブの独立に協力をするとほのめかしたのだ。アラブの部族イブン・アリーが、映画で有名な、イギリスのトーマス・エドワード・ロレンス(アラビアのロレンス)と協力し反乱軍を組織して、オスマン帝国と戦うのも、この理由からであったろう。1918年、ロレンスとフサインの息子ファイサルに率いられたアラブ反乱軍は、オスマン帝国や、駐留ドイツ軍を破り、ダマスカスを占領し、アラブ臨時政府を樹立するのに成功する。
 そして迎えた第一次世界大戦後、大戦中のイギリスとフランスとの間でかわされていた密約「サイクス・ピコ協定」によれば、現在のシリア、レバノンをフランス領に、ヨルダン、パレスチナ、イスラエル周辺をイギリス領にする、というのであった。大戦が終わると、フランス軍はダマスカスを攻撃し、できたばかりのアラブ臨時政府を崩壊に導く。してやったりのフランスは、現在のシリアとレバノンを委任統治領として、事実上の植民地支配を開始するのであった。イギリスも負けじと、1919年に、現在のヨルダン、イスラエル、パレスチナ周辺を、委任統治領として支配下におく。さらに1922年、イギリスは、委任統治領を2つの地域にわけ、ヨルダン川の西岸全体をパレスチナ、東側をトランス・ヨルダンとして、分割統治するのであった。
 そして迎えた1923年には、イギリスの支援の下、フセインの長子、アブドゥッラー・ビン・フサインが迎え入れられ、トランス・ヨルダン首長国が成立する。一方、イラクには、イギリスの後押しにより、フサインの兄のファイサルを国王としてイラク王国がつくられる。第二次世界大戦中のトランス・ヨルダン王国政府だが、イギリスに領内の駐留権を認め、枢軸国側のイラクに対するイギリスの軍事基地として用いる。1945年、トランス・ヨルダンは、アラブ連盟の一員となる。1946年には、イギリス政府は、トランス・ヨルダンの委任統治をやめ、イギリスから独立する。同年、トランスヨルダン王国として独立をはたす。
 1948年にイスラエルが建国されたのがきっかけで第一次中東戦争が勃発すると、ヨルダンは、エジプトなどのアラブ連盟諸国軍とともに、イスラエルに進攻したものの、敗北してしまう。その結果、エルサレムの旧市街を含む、パレスチナ全土の8割がイスラエルに占領されてしまう。イスラエルにより、一説には、約160万人ものアラブ人がパレスチナを追われ難民となり、ヨルダン国内へ逃げ込んだ。1949年、ヨルダンは、ヨルダン川西岸地区(東エルサレム)を併合し、地区居住者に市民権を認めるとの条件でイスラエルと休戦する。それまでの国名についていた、川を「横切った」「向こうの」という接頭辞の「トランス」は不要となり、国名をヨルダン・ハシミテ(ハシェミット)王国に変更する。その後、イスラエルの国土拡張策により、ヨルダン軍との小衝突が繰り返される。
 1955年にヨルダンが国際連合に加盟すると、国境問題は国連に持ち込まれる。1958年、エジプトとシリアが合併してアラブ連合共和国となる。その直後、ヨルダンはイラク(ヨルダンと同じハーシム家の王国だった)と、アラブ連邦を構成する。その後、イラクに共和制革命がおこり、その王家が消滅すると、ヨルダンは今度はイラクとシリアの接近を懸念するようになっていく。1960年には、ヨルダンの首相ハッザ・マジュリーが暗殺される。1961年、ヨルダンは、エジプトから分かれたシリアの新政権を承認する。1960年代の半ばには、アラブ諸国はシリア、エジプト、イラクなどの過激派と、ヨルダン、サウジアラビア、などの穏健派に分裂しつつあった。また、シリアからヨルダンへ拠点をうつしたPLO(パレスチナ解放機構)などのアラブ・ゲリラ各派は、ヨルダンを基地としてイスラエルに対する攻撃をおこなう。イスラエルはヨルダンに報復する。
196、ヨルダンは、エジプトのナーセルと軍事協力条約に署名しました。同年、第三次中東戦争が勃発すると、ヨルダンは「アラブの大義」に従いイスラエルと戦うが、イスラエル軍によって空軍が破壊され、ヨルダン川西岸地区(東エルサレム)をイスラエルに占領されてしまう。この時にも、ヨルダンにはヨルダン川西岸地区(東エルサレム)から、多数のパレスチナ難民が流入してくる。ヨルダンは、これを受け入れる。パレスチナ・ゲリラの拠点の一つとなっていくことで、PLOはヨルダン国内で、大きな力を獲得していく。

(続く)

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♦️556『自然と人間の歴史・世界篇』レバノン(~1960年代)

2017-11-09 19:19:08 | Weblog

556『自然と人間の歴史・世界篇』レバノン(~1960年代)

 現在のレバノン共和国は、西アジア・中東に位置する。北から東にかけてはシリアと、南にはイスラエルが隣接し、西は地中海に面している。その昔、この地中海東岸に位置する地は「カナン」と呼ばれていた。紀元前2500年頃には、既に海岸沿いにフェニキア人の都市国家がいくつかあった。彼らは交易に携わることで、生計を立てていた。優れた航海術で地中海東岸の交易を支配していたようである。この頃レバノンからエジプトへ多く輸出されたレバノン杉は、エジプトに運ばれ、「聖なる木材」として宮殿建設や何かに使われたという。
 紀元前14~11世紀の頃のフェニキア人の根拠地に、シドンとティルスとがあった。両者はそれぞれ海岸地帯の北と南を支配していた。旧約聖書しばしば出てくる「カナン」の地で知られる、このあたりは、旧約聖書(士師記)では、神がアブラハムの子孫(イスラエルの民)に与えるとの「約束の地」とされ、また「乳と蜜の流れる場所」とも記される。そして迎えた紀元前10世紀も押し詰まった頃、唯一神ヤハウェの命令を受けたというのを大義名分に、イスラエルの民・ヘブライ人たちは、「士師」(しし)と呼ばれるたちの指導下に、フェニキア人の流れを汲むカナン人(原住民)や、この地に進出してきていたペリシテ人らと戦うにいたる。
 やがてヘブライ人社会に統一の気運が生まれると、サウルなる人物が出て、士師らを抑えつけて全権を握り、王となる。しかし、紀元前1000年頃、ギルポア山の戦いで、王はペリシテ人に敗れる。彼の後を継いで王となったのが、ダヴィデ(紀元前1000~961)であった。これでヘブライ人たちは勢いを増す。ペリシテ人をパレスチナ南西部に封じ込めるとともに、このカナンの地を占領し、他の都市の独立を認めず、エルサレム(イェルサレム)を都に定め、中央集権的領土国家を築く。ヘブライ人たちは、ここに定住するようになる。征服され、従属する立場となったカナン人らは、その後もこの地に住み続ける。顧みれば、この時代は、「ヨシュアのカナン占領につづく初期の定住農耕時代から、イスラエル王国の建設にむかう200年。紀元前1200年から1000年にあたる」(山形孝夫著・山形美加図版解説「聖書物語・旧約篇」河出書房新社、2001)、激動の時代なのであった。なお、このあたりの詳しい経緯については、例えば、小川英雄「西洋史特殊Ⅰ、古代オリエント史」慶應義塾大学通信教育教材、1972。
 ちなみに、21世紀の現代になってからの2017年7月に米科学誌『アメリカン・ジャーナル・オブ・ヒューマン・ジェネティクス』(電子版、英語)で発表された論文によると、英サンガー研究所の遺伝子学者らが、カナン人(カナンとはパレスチナ地方の古称、フェニキア人の末裔ながら、この地に住み続けて来た人びとの血脈を指す言葉ではないか)の主要な古代都市国家であったシドン(現在のレバノン第3の都市サイダ)出土の約3700年前の5人の遺体のヒトゲノム解読に取組み、この解析結果を現代のレバノン人99人と比較したところ、カナン人の遺伝子組成の約90パーセントを受け継いでいることが分かったという。この通りなら、少なくとも青銅器時代(紀元前19~同13世紀あたりか)以来、中東のこの地に住んできたレバノン人には(カナン人との)実質的な遺伝的連続性があることになると。
 さらに大きく時代が下っての7世紀になると、レバノンの地域は、イスラム教徒の支配下に入る。さらに時代が下っての16世紀、このレバノンの地はオスマン・トルコの支配下に入る。1920年には、仏の委託統治領となる。1922年、レバノン全土で代表議会選挙が実施されるる。1926年、フランスの制定する憲法がこの議会で承認され、公布される。1941年7~9月、シリアとレバノンに関するイギリスと自由フランスの間で協定が成立する。
 そして迎えた1941年9~11月、自由フランスのシリアとレバノンが独立宣言(カトルー宣言)を発す。1942年10月、アメリカによるシリアとレバノンの独立の承認がある。1943年には、選挙が実施され、「国民協約」が成るのであった。この協約の意味するものについて、中岡三益氏はこう言われる。
 「しかし、アメリカの圧力、イギリス、そしてシリア、エジプトの支援が「国民協約」という形で諸宗派・諸党派の妥協・連合を実現したのである。それは宗派にもとづく不公平な比例代表制の政治体制であり、フランスからの独立のための一時的妥協の産物でしかなかった。むしろマーローン派キリスト教徒のなかから「キリスト教徒の国レバノン」をめざすカターイブ(ファランジェ)派の運動があらわれ、次第に影響力を強めてきた。」(中岡三益「アラブ近現代史」岩波書店、1991)」
 1946年12月31日、フランスの委任統治軍が完全にレバノンから引き揚げたことで、レバノンはようやく独立国家として認められるにいたる。

(続く)

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♦️567『自然と人間の歴史・世界篇』トルコ(~1960年代)

2017-11-07 22:06:41 | Weblog

567『自然と人間の歴史・世界篇』トルコ(~1960年代)

 トルコの歴史の源はどのくらいなのであろうか。その歴史は、世界有数の古さを持っている。紀元前60万年~紀元前8000年は、旧石器~中石器時代であり、すでにかなりの水準の文化があった。紀元前8000年~同5000年は、新石器時代であった。紀元前5000年~同1200年にかけては、中後期青銅時代であったとされる。さらに、紀元前1800年~同1275年は、「トロイ第4市時代」とされる。紀元前1660年からは、ヒッタイト帝国の治世となる。その最盛期は、ムルシリ2世(在位は紀元前1322頃~同1295頃)の治世のことであり、彼はシリアなどへの遠征を行うとともに、ヒッタイト文化を保護したのであって、現代にいたり、この王の治世を記録した粘土板文書が発見されている。
 紀元前1000年から同545年までは、ヒッタイト帝国にかわり、フリギア王国、ウラルトゥ王国、イオニア文明の時代、リディア王国が次々と栄える。そして迎えた紀元前546年~紀元前334年は、アケメネス朝ペルシアの統治下に組み入れられるのであった。紀元前330~同30年にかけては、ヘレニズム時代という。ここに「ヘレニズム」とは、ギリシア(ヘレネス)という言葉からつくられた近代の用語で、ギリシア風、ギリシアを意味する。その文化的表現としてのヘレニズム文化は、この地域がローマの支配下に入った紀元前30年以降も、その影響力をしばらく保っていく。さらに時代が改まっての330年~1453年は、東ローマ帝国(ビザンチン帝国とも)が栄える。1071年~1300年は、セルジュク・トルコの時代であって、アラブの繁栄に寄与するにいたる。さらに1299年からは、オスマン・トルコ帝国による支配が始まる。
 その後は、長い王朝の歴史が続く。それでも、19世紀後半からは専制君主による治世に陰りが見えるようになっていく。20世紀に入ると、さらに手綱が緩んだのか、第一次世界大戦で大きな壁にぶち当たる。この大戦で、オスマン帝国は敗戦国となってしまう。1920年、帝国は、セーヴル条約を締結を余儀なくされる。イギリス主導のもとにフランス・イタリアによって領土分割されたのだ。帝国は、ここに落日へと向かい始める。これに対し、政府に対し各地で反乱が生まれる。そんな中でも、ムスタファ・ケマルと彼の仲間は、独立のための戦いに勝ち進んでいくのであった。1920年、かれら青年トルコ党は、アンカラに臨時政府を樹立する。1922年、ケマルひきいるトルコ軍は、内陸へと進軍してきたギリシア軍をやぶってイズミルを回復する。
 そして迎えた1923年、かれらはトルコ共和国を建国する。新政権は、連合国とローザンヌ条約を締結することで、関税自主権の回復と治外法権の廃止を認めさせる。ケマルは初代大統領に就任する。1924年、カリフ制が廃止されるとともに、共和国憲法が発布される。その後、政教分離にもとづきイスラームを国教とする条項を憲法から削除し、文字改革(アラビア文字のローマ字化)、女性参政権の承認など諸改革を推進する。これらの一連の進歩的諸改革を総称して「トルコ革命」と呼ぶ。
 レーニンは、このドルコ革命をこう位置づけている。 
 「20世紀の革命を例にとるならば、ポルトガル革命もトルコ革命も、もちろんブルジョワ革命と認めなければならない。しかし、このどちらも「人民」革命ではない。なぜなら。人民大衆、人民の圧倒的多数が、積極的に、かつ自主的に、自分自身の経済的・政治的諸要求をひっさげて、目をみはるような行動を起こすということが、このどちらの革命にも見られなかったからだ。
 これに反して、1905~07年のロシア・ブルジョワ革命には、ポルトガル革命やトルコ革命がときとして恵まれたような「輝かしい」成功はなかったとしても、それは疑いもなく、「真の人民」革命なのであった。」(レーニン著・江口朴郎責任編集「国家と革命」中央公論社、1966)

(続く)

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♦️570「自然と人間の歴史・世界篇」パキスタン(~1960年代)

2017-11-07 22:03:51 | Weblog

570『自然と人間の歴史・世界篇』バキスタン(~1960年代)

 1940年3月、全インドムスリム連盟の第27回大会が開かれ、ラホール決議(24日)が採択されました。この決議には、英領インドの西北部と東部のイスラム教徒多数居住地域を独立対象地とし、パキスタンは複数国家たるべきことが盛り込まれていました。
その中に曰く、「ムスリムが数の上で大多数を占める印度の西北部地帯・東部地帯のような地域は独立した諸国家(Independents States )を構成するように分類されるべきであり、その構成諸単位(Constituent units)は自治権と主権をもつべきである。」
 なお、最後の点については、後の1946年4月に開催された全インドムスリム連盟大会決議において、「パキスタンは単一の主権独立国家」であることと修正されました。
 このラホールでの決議は1947年8月のインドとパキスタンの分離独立の理論的基礎をなしたと理解されています。そして同月の14日、パキスタンが、西パキスタンと東パキスタンから成るイスラム国家として成立しました。
 1958年、軍事クーデターによりアユーブ・ハーン(Mohammad AyubKhan)らの軍部が政権を握りました。その下(1958~1969年)で工業化が進展し、また「緑の革命」により農業生産が大幅に向上しました。この間のアイユーブ時代(1958~68年)におけるパキスタンの統治構造については、こういう評価があります。
 「一層厳密にいえば、帝国主義の分割支配政策に乗った、もしくは分割支配政策を逆用したヒンドゥー・ブルジョアジー・地主階級とムスリム・ブルジョアジー・地主階級との間の縄張り画定であった。したがって、こうした視点からすれば、独立、即楽土の実現では決してなかった。これはインドにとっても、パーキイタンにとっても、指摘できることである。
 しかし、パーキスタンという新興国家はムスリムのブルジョアジー・地主階級が掌握しているとするだけでは、答えたようで実際には何ら説明になっていない。少なくとも、パーキスタンの成立以来、東パーキスタンは一貫して西パーキスタンの従属的な地位にあったことが事実とすれば、パーキスタンの政権は一貫して西パーキスタンのブルジョアジー・地主階級が英米の独占資本と結合する中で民族的・階級的な支配を強行してきたといわなければならない。
 さらに厳密にはアイユーブ以後の政権はパンジャービー・ブルジョアジー・地主階級が英米の独占資本と結合する中で民族的・階級的な支配を強行してきたといわねばならない。さらに厳密にはアイユーブ以後の政権はパンジャービー・ブルジョアジー・地主階級がインドからの避難民エリート(Refugee Elites)を中心とする官僚とパシュトゥーン系の軍人将校とを両端に持ち、外国資本と結合した合成的な性格を持つというべきであろう。
アイユーブ政権は単にベンガル民族に不当な処遇を強制しただけではなしに、スィンディー、バルーチー、時にはパシュトゥーンにいたるまで、西パーキスタンを構成する諸民族集団に対して不当な弾圧措置を講じているからである。」(佐藤宏編「南アジアー政治・社会」アジア経済研究所、1991

(続く)

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♦️564『自然と人間の歴史・世界篇』クウェート(~1960年代)

2017-11-07 22:01:21 | Weblog

564『自然と人間の歴史・世界篇』クウェート(~1960年代)

 18世紀アラビア半島中央部から移住した部族が後のクウェートの基礎をつくる。1899年に英国の保護国となる。1938年に油田が発見されると、クウェートの地は、世界の注目の的となる。
 1961年6月19日、クウェートは英国から首長国として独立する。これには、実は英国の後押しがあったのだが、このことは、クウェートの独立後もイギリスの石油利権を守ろうとする深慮遠謀のなせる技であったと言えよう。
 そのクウェート独立の6日後、イラクのカーセム政権が軍隊を派遣して、クウェートを自らのものとしようとしたのに対し、イギリス軍は2万人をクウェートに送り、新政府を援助し、イラク軍を撤退させる。
 1958年、革命派が軍事クーデターを起こして、共和国政府を樹立する。権力を握ったアブドロ将軍率いるら政府は、石油産業の国有化を宣言する。これに対して、アメリカは直ちに反応し、直接イラクに攻め込むことはなかったものの、レバノンに5000人の海兵隊を派遣し、牽制する。石油利権でアメリカに負けてはならじ、とするイギリスも、ヨルダンに空挺部隊を派遣して圧力をかける、これらの圧力により、生まれたばかりの共和国政権は石油の国有化の企てを放棄せざるをえなかった。

(続く)

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♦️666『自然と人間の歴史・世界篇』ペルー(1960年代)

2017-11-06 22:27:12 | Weblog

666『自然と人間の歴史・世界篇』ペルー(1960年代)

 ペルーでは、1968年10月3日、ファン・ベラスコ・アルバラードの率いる軍部が、無血クーデタでフェルナンド・ベラウンデ・テリー大統領を追放して権力を握る。
 これに先立つ1968年8月13日、ペルー政府はスタンダード・オイル・オブ・ニュージャージー(米国の石油メジャー)の子会社であるインターナショナル・ペトロニアム・オイル(IPC)との間に「タララ協定」を結んでいた。このタララ協定では、IPCが違法に石油を採掘したときはその分の石油代金をペルー政府に支払うこととしていた。ところが、この約定の解釈等を巡って両者の折り合いができないことから、これを不満としたファン・ベラスコ・アルバラード大統領は同年10月9日、IPCの全資産を無償で接収し、国有化した。
 また、新政権はアメリカ人所有の鉄鉱石採掘会社であるアルコナ社をも国有化した。これらは国民の喝采をもって迎えられた。 同政権はまた、自主独立を旗印に「資本主義でもなく、また共産主義でもない人間的な社会主義」ということで、ユーゴスラビアを一つのモデルに体制の模索を進め、第三世界を中心に多角化された外交関係の構築を進めていく。具体的には、1969年年のアンデス共同市場の形成を皮切りに、チリのアジェンデ人民連合政権といったラテンアメリカ域内の左派政権との関係改善が行われていく。1969年2月にはソ連と、1970年には中華人民共和国と、さらに1972年にはキューバと国交を結び、1973年からは非同盟運動にも参加するようになる。
 また、同政権は、1968年に高等軍事研修所(CAEM)の作成した「インカ計画」に基づいて国家の構造的改革を進めたり、1969年6月24日施行の「農地改革法」により南米最大規模の農地改革を実施する道を歩んでいく。

(続く)

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♦️665『自然と人間の歴史・世界篇』ブラジル(1960年代)

2017-11-06 22:24:09 | Weblog

665『自然と人間の歴史・世界篇』ペルー(1960年代)

 ブラジルでは、1951年から1961年まではジュセリーノ・デ・オリベイラ・クビチェックが大統領を務めた。1961年1月からはジャニオ・ダ・シルバ・クワドロスが大統領を務めたが、8月には辞任する。民主選挙の先例を受けて副大統領職に就いていたジョアン・ベルチオル・マメケス・グラールが大統領に昇格する。
 増田義郎編「ラテン・アメリカ史Ⅱ」は、新政権の道筋をこう解説している。
 「陸・海・空の三軍大臣は、彼を左翼的すぎるとみて大統領昇格に反対した。他方、各地でグラール支持の集会やデモがおこなわれた。グラールは、中国から直接郷里のリオ・グランデ・ド・スル州に戻り、義兄の州知事レオネル・ブリゾラとともに、同州駐屯の連邦三軍を動かし、内戦も辞さない構えを示した。
 結局1961年9月1日、国会は46年憲法に修正条項を加え、大統領権限のかなりの部分をあらたに国会で選出される首相に委譲するするという条件をだし、軍首脳もグラールの大統領昇格に同意し、7日にグラールが大統領になった。グラールは大統領権限の全面回復に全力をあげ、63年1月に国民投票がおこなわれ、投票の8割がグラールの意図を支持した。」(増田義郎編「ラテン・アメリカ史Ⅱ」山川出版社、2000)
 こうして発足したグラール政権(~1964年3月)だが、彼はその在任期間中にブラジルをより豊かで、民主的な国にするべく、次のような政策を推し進めようとした。その1は、経済改革、その2は農地改革、その3は民主的権利の拡大、その4は共産党の合法化であった。そして迎えた1964年3月14日、彼はリオでの大衆集会において、総小作料の安定、共産党の合法化、投票権の文盲者への拡大を議会に要請することを発表する。
 その後にも、二つの法令に署名をおこなう。その一として、連邦政府のハイウェイ、鉄道その他の公共事業に隣接する、6マイルの距離内にあるすべての遊閑地を没収すること。その二として、いまだ石油国有会社ペトロブラスの所有になっていないブラジル資本の石油精製所の国有化を行う。
 1964年になると、ブラジル政府に対しアメリカは緊縮政策をとるよう要求したものの、ジョアン・ベルチオル・マメケス・グラール大統領が聞き入れなかったため、両国の関係は急速に冷えていく。のみならず、同大統領は、農地改革と外国資本規制の計画を発表し、キューバ政府を承認し、さらにインフレの勢いが止まらなくなる中、アメリカの資産の接収に向かうことで、アメリカの思惑と利益に対抗する動きを見せる。これらがアメリカを痛く刺激することとなり、アメリカ政府は3月27日、ついにコーン、ラスク、マクナマラを初めとする政府首脳部に、陸軍参謀長ウンベルト・カステロ・ブランコ将軍を支援して大統領を失脚させるべだと要求する。
 1964年4月、ウンベルト・カステロ・ブランコ将軍による軍事クーデターが起こり、ジョアン・ベルチオル・マメケス・グラール大統領は辞職に追い込まれる。4月11日、国会は将軍を大統領に選出し、アメリカがテコ入れをしたことで現実のものとなった軍事クーデターを追認してしまう。また同月、軍の革命最高司令部は軍政令第1号を公布することで、多くの公務員、軍人、民間人を解雇し、政治権を奪う。1946年憲法を存続させつつ、66年1月まで有効の、多くの例外規定が設けられる。1965年10月には、同政権は軍政令第2号を公布する。この中で、大統領の間接選挙制、既存政党の解散と二大政党、すなわち与党の国家革新同盟党(ARENA)への再編成をおこう。政府にとって危険な政治家は、軒並み弾圧されていた。さらに66年2月の軍政令第3号は、州知事・同副州知事の間接選挙制を導入する。これにより、連邦政府は州政府に介入する権限をえたのである。
 1967年3月からコスタ・イ・シルバ元帥が大統領に就任しました。これは1969年8月まで続く。1968年、メキシコ五輪直前に学生暴動が起き、約500人が死亡するという惨事となる。その後は、エミリオ・ガラスタズ・メディシ(1969年ー74年)、エルネスト・ガイゼル(1974年3月発足~79年)と軍事政権が続いていく。さらに1978年、エルネスト・ガイゼル政権は、事前検閲と軍政令とを全廃する。

(続く)

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♦️609『自然と人間の歴史・世界篇』アルジェリア独立戦争

2017-11-06 21:40:59 | Weblog

609『自然と人間の歴史・世界篇』アルジェリア独立戦争

 紀元前、地中海に沿ってエジプトの西に向かったところ、北アフリカ、現在のアルジェリアの北東部にはヌミディア王国があった。その東隣には、フェニキア人の都市国家カルタゴが栄えていた。一方、共和制ローマとカルタゴとの間では、ボエニ戦争(第一次は紀元前264~同241、第二次は紀元前219~同201、第三次は紀元前146)が起きる。ポエニとはローマ側からみた呼称であって、ラテン語でフェニキア人(カルタゴはフェニキア系国家)を意味していた。一回目には、ローマ軍によるシチリア島への上陸があった。
 二度目の戦いでローマがカルタゴへ上陸を敢行した際には、カルタゴと同盟関係にあったヌミディア王国は共同でローマ軍に挑むが、敗北しヌミディア王シファックスはローマ軍の捕虜となる。そしてローマの肝煎りで、内紛からローマに亡命していたヌミディア皇族のマシニッサが新しいヌミディア王に即位する。紀元前146年にローマ軍がカルタゴの本拠を攻略し、カルタゴが滅亡すると、地中海はローマの支配下に入り、沿岸の地域もしばらくは小康状態が続く。ところが、紀元前111~同105年にはヌミディア王ユグルタがローマに反旗を翻す。これに対しローマ軍が討伐を行う。以後ヌミディアは、ローマの属国扱いになっていく。
 それから、かなりの年月が経過していく。16世紀には、海賊バルバロッサがかつてのフミディアの中心アルジェを根拠地としていたが、東の方から覇権を伸ばしてきたオスマン帝国の宗主権を受け入れる。1830年には、フランスが進出し、アルジェを占領する。その後も駐留して、1871年にはフランスが全アルジェリアを帝国主義的に支配、つまり植民地にするにいたる。フランスのアルジェリア侵攻の主な理由としては、自国の工業製品の市場拡大やブドウ栽培とワインの輸出があった。植民地支配下においては、アルジェリア人に対し、フランス国籍の取得、フランス語の使用、イスラム文化の否定といった同化政策を行っていったことがある。
 1920年代からは、アルジェリア人民による独立運動が本格化する。大まかに、3つの流れがあった。1954年11月、そのフランスからの独立戦争が始まる。同年、ジュネーヴ協定でインドシナ(主にベトナム)から撤退したのを受け、フランスはすぐさま別の植民地戦争を戦うことになったのだ。おりしも、フランス側にとっては1956年6月にサハラで油田が発見され、これの利権に関わりを持ちたい。同年7月にはエジプトでスエズ動乱が起こり、アルジェリア革命は、単に一植民地にかかわる局地戦の枠を超越して、植民地主義対アラブ民族主義の戦いという国際連帯運動の一環に参じていく。また、1956年9月にアルジェリアの首都アルジェで戦いが始まり、フランス人、アラブ人に関わらず全ての市民が生命の危機にさらされる。
 1957年10月、FLN(民族解放戦線)などの民族解放勢力が、まとまった形での軍事行動を開始する。これからを「アルジェリア独立戦争」と呼ぶ。アルジェにおいては、解放勢力側が潜伏してフランスに抵抗する。ポンテコルヴォによる映画「アルジェの戦い」は、その頃の緊迫した首都の有り様を現代に伝える。1957年1月、FLNとアルジェリア人民はアルジェにおいて大規模なゼネストを起こす。つづく1957年の国連総会において、適切な方法による平和的解決を行う事を決議するにいたる。1958年9月には、FLNが臨時政府樹立を宣言する。その後、フランス軍が本国からの大挙押しかけて掃討作戦を戦ったものの、鎮圧・平定作戦は進捗しない。民族戦線側は、この戦争の意義を「イスラム文化を否定し、アラブ民族の主権を踏みにじる侵略者との戦い」と規定し、アルジェリア人民を対仏抗戦に動員するとともに他のアラブ諸国、とりわけチュニジア、モロッコとの連帯を深めていく。
 そのうちに、アルジェリア問題をめぐって国内対立は激化していく。この状況の中でド・ゴールが復帰し、第五共和政を創設するのであった。1958年5月、ドゴールがアルジェリアの反乱に後押しされて大統領の座に返り咲く。強権を手にしたドゴールに対し、フランスの知識人有志は対抗していく。海老坂武氏による説明には、こうある。
 「また、哲学者のジャンソンらがフランス兵士の脱走を支援するためにつくった地下組織に協力している。とりわけその何人かのメンバーが捕まって軍事裁判になった60年9月、旅行先のブラジルから法廷宛に口述による書簡を送り、被告たちとの連帯を表明した。その最後は次のように結ばれている。
 「被告たちが代表しているのはフランスの未来であり、彼らを急いで裁こうとしている束の間の権力はすでにもう何ものをも代表していない。」
 法廷で代読されたこの書簡は、右翼にも左翼にも大きな衝撃を与えた。右翼の代議士はサルトルの逮捕を要求し、共産党中央委員会は書記長の名でサルトル書簡を分裂主義として激しく非難した。サルトルの家にプラスチック爆弾が仕掛けられたのもこの時である。
 同じ年、作家モーリス・ブランショらが起草した「アルジェリア戦争における不服従の権利の宣言」(百二十一人宣言)への署名も大きな反響を呼んだ。「レ・タン・モデルヌ」誌の八月号は宣言文と署名者の名を発表したために押収され、次に出した特別号では宣言の部分が白紙にさせられた。」(海老坂武「サルトル」岩波新書、2005)
 そして迎えた1959年9月、ドゴール大統領は渋々ながらも、アルジェリア人民の民族自決権を認める。1962年には、自らを担ぎ出した過激右派の主張を排しての1962年には、夫ランス政府がアルジェリア独立を認める。同年3月に取り交わされたエヴィアン協定では、それまで1958 年11月に公布されたフランスのサハラ石油法に基づいて付与されていたアルジェリアにおける石油利権など既存の権益につき、建国されるアルジェリアにより尊重される旨うたわれる。なお、それまでアルジェリア総督府の保有していた利権はアルジェリアに委譲されることになる。
 一方、勝利を目前にしたFLNも分裂が激しく、内部で権力闘争が発生するが、そんな中、ベン・ベラが勝利し独立後の指導者となっていく。それからのフランスは、どう変わったのだろうか。であるが、心底から「あれは悪かった、ずくに独立を認めれば良かった」の弁は政府からはなく、ようやく1999年になって、「あれは治安にかかわるものではなくて、彼らによる独立戦争であった」と認める。1962年には、国連に加盟する。1965年には、軍事クーデターでブーメディエンヌ政権が成立し、その後1989年に憲法が改正されるまで軍による独裁が続いていく。

(続く)

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♦️569『自然と人間の歴史・世界篇』アメリカのアラブ世界への進出

2017-11-03 21:23:37 | Weblog

569『自然と人間の歴史・世界篇』アメリカのアラブ世界への進出

 1955年11月、中東条約機構(別名はバグダッド条約機構)が結成されました。構成国はアメリカ、イギリス、トルコ、イラク、イラン、パキスタンの6か国です。
 これに対し、1956年7月18~19日にかけて、インドのネール、ユーゴスラビアのチトー、エジプトのナセルのいわゆる中立主義国首脳が「ブリオニ島会談」で、バンドン精神をうたった共同声明を発表しました。
 声明文には、帝国主義反対、軍事同盟反対、原水爆禁止が宣言されていました。そのため、アメリカとイギリスを刺激することとなり、エジプトのアスワンハイダム建設のための経済援助は中止となってしまいました。のみならず、エジプトが同年7月26日にスエズ運河の国有化を宣言したのに対抗し、イギリス、フランス、そしてイスラエルは運河の国際管理を主張して譲りませんでした。そして彼らは、エジプトに武力侵攻したのです。
 それでは、3国によるこの武力行使を目にしたアメリカは、どのような態度で臨んだのでしょうか。アメリカは、国連の安全保障理事会にかれらの軍事侵攻を非難する決議案を提案しました。しかし、常任理事国であるフランスとイギリスがこれに拒否権を行使したことで、同案の採択は成りませんでした。そこで「平和のための結集」決議に基づいて国連の緊急特別総会が招集され、総会において、彼らの軍事行動が審議決定されました。この非難決定には、新興独立国やいわゆる非同盟中立主義国、そしてソ連が活躍した結果でもありました。具体的な行動としては、国連緊急警察軍が組織され、これに屈する形で3国はエジプトからの撤兵を余儀なくされました。
 これに対する世界各地での評価は様々にありましたが、注目されるのはアメリカがアラブでの紛争に積極的に関与するようになったことでした。そのアメリカがこの事件の帰結までをどのように見ていたのか、そして何を心に抱くにいたったかを、次のアイゼンハワー大統領の演説(1957年1月)から読みとることができるでしょう。すなわち、彼は「イギリス、フランスの後退により中東は共産主義の脅威にさらされ「真空状態」が生じた。いまやアメリカにイギリスとフランスにかわってこの中東の危機を防衛しなければならない」と述べ、中東の石油資源獲得に向けた大いなる一歩を踏み出そうとしていました。

(続く)

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♦️541『自然と人間の歴史・世界篇』第1次インドシナ戦争でアメリカによる核投下の危機

2017-11-03 21:18:26 | Weblog

541『自然と人間の歴史・世界篇』第1次インドシナ戦争でアメリカによる核投下の危機

 国際政治学者の陸井三郎氏は、1946~54年の「第1次インドシナ戦争」での政治力学の変遷を、こう論評している。1946年11月に本格的な戦闘が始まり、1949年にフランスはバオ・ダイを王に擁立してベトナム王国を樹立した。アメリカ(トルーマン政権)は当初、フランスへの援助に積極的でなく、見守っていた。ところが、1949年10月に中華人民共和国が成立すると、アジアの共産主義化を恐れ(ドミノ理論)、ベトナムのフランス軍の梃子入れを画策するにいたる。
 この戦いだが、同年の12月にはベトナム全土、さらにカンボジア、ラオスのインドシナ三国に拡大していく。また、イギリスやアメリカも経済的な利益に分け入ろうと、食指を動かすのであったが、1954年になると、フランス側の劣勢が明らかになってきた。
 「インドシナでは、人民解放軍のまえにフランス帝国主義が完全に敗北し、このためにアメリカは核兵器攻撃(※)によってこれに介入しようとしたが、朝鮮休戦後のアジアにおける民族解放運動のたかまりと、英仏・対・アメリカの対立のなかで、アメリカの孤立化が決定的に浮き彫りにされたため、アメリカはインドシナへの軍事介入を一時的に断念しなければならなくなった。
 ※マンデス=フランスは54年6月初め、フランス国民議会で、アメリカの軍事介入を要請したドビー外相を指さして、以下のように暴露している。
 「あなたは5月初めに暴露された計画、すなわち中国の介入をまねき、全面戦争をひきおこす危険をおかしても、アメリカ空軍を大規模に干渉させる計画をもっていた。・・・アメリカの干渉計画はすでに準備をおわり、(中略)あなたの要請ありしだい(中略)行動にうつる寸前にあった。攻撃は4月28日に開始される予定で、航空機と原爆を積んだ艦船はすでに航行中だった。アイゼンハワー大統領は、4月26日に議会に必要な権限をもとめる手はずになっていた。フランス議会は、既成事実(フエタコンプリ)をおしつけられようとしていた。」(陸井三郎「現代アメリカの亀裂ーベトナム・黒人問題・暗殺ー」平和新書、1968)
 1954年、この戦争をひとまず停戦に持ち込むための交渉がジュネーヴ会議として始まる。その最中の5月には、第四共和政下のフランス軍がディエンビエンフーでベトナム側(ベトナム独立同盟(ベトミン))と戦う。この戦いで敗北したフランスは、やむなくベトナムの植民地支配から手を引くことに決める。7月にジュネーヴ休戦協定が成立して和平が実現するのであった。
 このフランスのインドシナ半島とその周辺一帯からの完全撤退を見るに、今度はアメリカがその政治的空白を埋めるべく、進出していく。そもそもアメリカは和平に反対してジュネーヴ休戦協定に参加せず、新たな介入の機会を狙っていたのではないか。頃合いを見手の1955年には、南ベトナムに傀儡政権ベトナム共和国(南ベトナム)を樹立して介入し、ホー・チ・ミンの率いるベトナム民主共和国(北ベトナム)と敵対させ、和平協定で約束された統一選挙の実施を拒み、南への勢力拡張と北への攻撃(1960年代からのベトナム戦争と第2次インドシナ戦争)へと向かい始めるのであった。

(続く)

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新552♦️♦️414『自然と人間の歴史・世界篇』日本への原発投下の理由(諸説の検討)

2017-11-03 08:36:18 | Weblog

新552♦️♦️414『自然と人間の歴史・世界篇』日本への原発投下の理由(諸説の検討)

 それにしても、なぜアメリカは日本に2発の原爆を落としたのだろうか。また、アメリカが原爆を投下するのは、なぜ日本でなければならなかったのか。その理由については、戦後、さまざまな語られ方にて、現在に至っている。それらの中では、あの時、悲惨な戦争を終わらせるにはそうするしかなかったとか、目前に来ていた日本への上陸作戦に不可欠であったとか、などである。

 ここでは、そんな中から、原爆を実際に投下した軍人がどう考えているかを、しばし紹介しよう。

 「日本からポツダム宣言に対して初めて検討に値する回答が返ってきたため、アメリカは日本に対する攻撃を一時的に弱めて、降伏のために時間を与えることにした。Bー29による攻撃は中断された。トルーマン大統領は、原子力兵器の使用を許可した以前の命令を撤回した。彼が再度特別な許可を与えるまでは、原子爆弾は投下してはならないことになった。

 マンハッタン計画の最高責任者であるレスリー・グローヴズ将軍は、これとは別に、自分の許可なくしてプルトニウムが輸送されることを禁じた。日本の頑固さとは対照的に、我々の政治的・軍事的指導者たちは、日本の指導者たちの回答を待つあいだは、通常爆弾あるいはその他の方法によって日本人に対してこれ以上の制裁を加えるつもりはなかったのだ。爆弾の代わりに、第20航空軍は何百万枚というビラを落とし、日本人市民と兵士に対し、確実に破壊されることを考えて降伏するように強く勧めた。

 しかし日本の軍事的指導者たちはまだおさまらなかった。市民と兵士とあいだに広がっていた降伏の噂を打ち消すために、日本の軍部指導者たちは戦場にいる兵士たちに、戦いを続け、敵を叩きのめすことを命じた。」(チャールズ・W・スウィーニー著、黒田剛訳「私はヒロシマ、ナガサキに原爆を投下した」原書房、2000)

 しかしながら、そうした理由付けでもって、アメリカ大統領は、かくも残酷な無差別殺戮の決断を、最終的に下すものであったろうか、そのように問いかけると、たとえそういう部分かあだたとしても、全体的に一番の正しい原爆投下の理由とは言えまい。


 そもそも、この問いに答えられる人の多くは21世紀に入った現在、すでに故人になっていて、今テレビに出演するなどして、「あのときはこういう力が働いた、証拠はここにある」などと述べてくれるものではない。したがって、誰もが納得できるようなその結論は、出ていない可能性が広がりつつあるのだから、今日、あれは「複合的な要因が合わさっての出来事であった」として片付けても、その論者が大きな非難を浴びることはないのかもしれない。とはいえ、時を経るにつれ、以前は明確でなかった空白の点のいくつかが新手の情報なり思索により「あぶり出される」というか、新たに繋がりあうこともあったりで、今日ではかなりのところまで肉薄できているのではないか、と感じられる。
 新たに加えられたものとしては、次の二つがあるのではないだろうか。その一つは、戦後を思い描く中でのソ連との対抗関係を中心として語るものであり、この範疇に属する最新のものでは、例えば次の論考がある。
 「さらに状況を複雑にしていたのは、ソ連だ。佐藤から申し入れを受けておきながら、スターリンは、8月15日までに日本に宣戦布告するというトルーマンの要請に同意していた。これは、それ自体、おそらく日本の無条件降伏という形で戦争を確実に終結させる動きであるが、同時に、大平洋地域において領土を拡張する許可をソ連に与える動きでもある。


 別の方法がある、とバーンズは主張する。ソ連が介入する前に、原子爆弾が、日本との戦争を終結させる方法を提供したのだ。アメリカ兵の人命が救われ、すでに長すぎている戦争をついに終結させ、ソ連の野望を阻止し、軍事技術におけるアメリカの優位を明快に示し、それによって戦後世界における強力な地位を確立できる。さらに検討すべき点があった。使われもしない兵器の開発に20億ドルを費やしたなど、戦争の歴史において前代未聞のことだからだ。
 トルーマンとバーンズにとっては、容易に下せる結論だった。7月25日、トルーマンは日記に次のように書いている。


 「この兵器が、日本に対して今から8月10日までに使われることになる。私は、陸軍長官のスティムソン氏に、使用に際しては、軍事施設と兵士、水兵を標的とし、女子どもを標的にするなと命じた。たとえジャップが野蛮で無礼、無慈悲で狂信的であろうとも、共通の幸福を目指す世界の指導者として我々は、日本の古都にも新しい都市にも、この恐ろしい爆弾を落とすことはできない。
 彼も私も同意見だ。標的は、純粋に軍事的なものとし、ジャップには降伏し、命を大切にしろと警告文を出すつもりだ。彼らは降伏しないだろうが、チャンスは与えたことになる。ヒトラー陣営もスターリン陣営もこの原子爆弾をつくり出さなかったには、確かに世界にとってよいことだった。この爆弾は、史上最も恐ろしい代物のようだが、これを最も有益なものにすることもできる。」」(ジム・バゴット著・青柳伸子訳「原子爆弾1938~1950年、いかに物理学者たちは、世界を残虐へと導いていったか?」作品社、2015)


 もう一つ、こちらは新兵器を獲得するに至った人間の心理から演繹して、事柄の本質を衝こうとするもので、簡単にいうと、こうなるであろう。

 それまで原爆の人体への効果は分からなかった。落として初めて、そのなんたるかが分かるというものだ。それだから、むしろ実験を現実に移す絶好の機会だと考えていた、言い換えると、政府と軍がともにこの稀代の新兵器の威力を試すためであったとしても、不自然ではあるまいと。

 また、このことは、前述のジム・バゴットの論考において、「さらに検討すべき点があった。使われもしない兵器の開発に20億ドルを費やしたなど、戦争の歴史において前代未聞のことだからだ」という下りとも密接に絡みついているものと考えられる。

(続く)

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♦️412『自然と人間の歴史・世界篇』日本への原発投下

2017-11-02 22:53:11 | Weblog

412『自然と人間の歴史・世界篇』日本への原発投下

 1945年、アメリカのトルーマン大統領が承認もしくは追認したであろう、日本への原爆投下命令により、8月3日以降に広島・小倉・新潟・長崎のいずれかへ投下することになる。回数は、日本が降伏するまでという含意があったのかもしれないが、不明である。アメリカ軍はかねてから申し合わせていた編成を組み、まずは8月6日に出撃した。その日の第一目標であった小倉の上空は曇りであり、小倉に落とすのは適当でない、そこで広島が選ばれた。
 少しだけ後、爆弾を積んだエノラ・ゲイは広島上空に達した。同乗していた技術者によって信管を外された原爆が投下されると、もはや爆発を止める手立てはない。そして、その時がやってくる。爆弾は、広島の上空、「上空から放射線や熱戦を浴びせるのが効果的」なところで爆発した。投下は、「成功」であった。広島への着弾を伝えるための写真を撮るなどしてこれを確かめると、彼らは無用と彼らは帰陣していった。
 一方、地上では惨憺たる地獄絵が現出していた。時空は越えられていなかった。そこにあるのは、悪夢ではなく、真実の出来事であった。多くの人が突然の死に直面し、また傷ついた。それは、空から降ってきた「虐殺」に等しい規模であった。広島は、かつてなく強烈に焼き尽くされた。8月9日、原爆は長崎にも投下された。広島だけでは足らず、だめ押しというべきか、またもや残酷な大量殺戮が行われた。
 この日、ヒロシマへの原爆投下作戦に作戦指導のため加わったウィリアム・S・パーソンズ大佐(ロスアラモス研究所から派遣された)の飛行メモには、こう書かれてあったという。
 「1945.8.6。0245:離陸。0300:機銃への最終装填開始。0315:装填終了。0605:硫黄島から帝国に向かう。0730:濃縮ウランの小片を挿入(投下したとき爆発するよう、爆弾に挿入)。0741:上昇開始。気象報告を受け取る。第1、第3目標の上空は晴れ。第2目標上空は良くない。0838:3万2700フィート(約1万メートル)で水平飛行へ。0847:信管をテスト。結果は良好。0900:西にコースをとる。0904:ヒロシマが視野に入る。0915:爆弾投下。
 備考:時刻は、B29エノラゲイがテニアン島から飛び立ってからのもので、「テニアン時間」で表示されています。始まりの日本時間は8月6日、アメリカ時間は8月5日。テニアン時間は日本時間とは1時間の時差があります。」(出所:ロナルド・タカキ著・山岡洋一訳「アメリカはなぜ日本に原爆を投下したのか」草思社、1995に所収のものから引用)
また、この日、この機の主役であったチャールズ W.スウィニーは、後年、こう振り返っている。
 「私は爆撃したことについて、後悔も罪悪感も感じなかった。後悔と罪悪感を抱くのは日本の国家のはずであり、偉大なる野望を達成するために国民の犠牲を惜しまなかった軍の司令官たちこそが、とがめられるべきであった。私と乗務員が長崎に飛んだのは戦争を終わらせるためであって、苦しみを与えるためではなかった」(チャールズ W.スウィニー著・黒田剛訳「私がヒロシマ、ナガサキに原爆を投下した」原書房、2000より引用。)
 それから、アメリカが日本に原爆を投下した理由については、戦後、さまざまな語られ現在に至っている。それらの中では、あの時、悲惨な戦争を終わらせるにはそうするしかなかったとか、目前に来ていた日本への上陸作戦に不可欠であったとか、などである。しかし、それらの理由は一番の正しいものとは言えまい。それまで原爆の人体への効果は分からなかった。落として初めて、そのなんたるかが分かるというものだ。それだから、むしろ実験を現実に移す絶好の機会だと考えていた、言い換えると、政府と軍がともにこの稀代の新兵器の威力を試すためであったとしても、不自然ではあるまい。それにもう一つ、アメリカは第二次世界大戦後の世界を主導するためには、ソ連を威嚇することが必要だと感じていた。

(続く)

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