570『自然と人間の歴史・世界篇』バキスタン(~1960年代)
1940年3月、全インドムスリム連盟の第27回大会が開かれ、ラホール決議(24日)が採択されました。この決議には、英領インドの西北部と東部のイスラム教徒多数居住地域を独立対象地とし、パキスタンは複数国家たるべきことが盛り込まれていました。
その中に曰く、「ムスリムが数の上で大多数を占める印度の西北部地帯・東部地帯のような地域は独立した諸国家(Independents States )を構成するように分類されるべきであり、その構成諸単位(Constituent units)は自治権と主権をもつべきである。」
なお、最後の点については、後の1946年4月に開催された全インドムスリム連盟大会決議において、「パキスタンは単一の主権独立国家」であることと修正されました。
このラホールでの決議は1947年8月のインドとパキスタンの分離独立の理論的基礎をなしたと理解されています。そして同月の14日、パキスタンが、西パキスタンと東パキスタンから成るイスラム国家として成立しました。
1958年、軍事クーデターによりアユーブ・ハーン(Mohammad AyubKhan)らの軍部が政権を握りました。その下(1958~1969年)で工業化が進展し、また「緑の革命」により農業生産が大幅に向上しました。この間のアイユーブ時代(1958~68年)におけるパキスタンの統治構造については、こういう評価があります。
「一層厳密にいえば、帝国主義の分割支配政策に乗った、もしくは分割支配政策を逆用したヒンドゥー・ブルジョアジー・地主階級とムスリム・ブルジョアジー・地主階級との間の縄張り画定であった。したがって、こうした視点からすれば、独立、即楽土の実現では決してなかった。これはインドにとっても、パーキイタンにとっても、指摘できることである。
しかし、パーキスタンという新興国家はムスリムのブルジョアジー・地主階級が掌握しているとするだけでは、答えたようで実際には何ら説明になっていない。少なくとも、パーキスタンの成立以来、東パーキスタンは一貫して西パーキスタンの従属的な地位にあったことが事実とすれば、パーキスタンの政権は一貫して西パーキスタンのブルジョアジー・地主階級が英米の独占資本と結合する中で民族的・階級的な支配を強行してきたといわなければならない。
さらに厳密にはアイユーブ以後の政権はパンジャービー・ブルジョアジー・地主階級が英米の独占資本と結合する中で民族的・階級的な支配を強行してきたといわねばならない。さらに厳密にはアイユーブ以後の政権はパンジャービー・ブルジョアジー・地主階級がインドからの避難民エリート(Refugee Elites)を中心とする官僚とパシュトゥーン系の軍人将校とを両端に持ち、外国資本と結合した合成的な性格を持つというべきであろう。
アイユーブ政権は単にベンガル民族に不当な処遇を強制しただけではなしに、スィンディー、バルーチー、時にはパシュトゥーンにいたるまで、西パーキスタンを構成する諸民族集団に対して不当な弾圧措置を講じているからである。」(佐藤宏編「南アジアー政治・社会」アジア経済研究所、1991
(続く)
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