♦️541『自然と人間の歴史・世界篇』第1次インドシナ戦争でアメリカによる核投下の危機

2017-11-03 21:18:26 | Weblog

541『自然と人間の歴史・世界篇』第1次インドシナ戦争でアメリカによる核投下の危機

 国際政治学者の陸井三郎氏は、1946~54年の「第1次インドシナ戦争」での政治力学の変遷を、こう論評している。1946年11月に本格的な戦闘が始まり、1949年にフランスはバオ・ダイを王に擁立してベトナム王国を樹立した。アメリカ(トルーマン政権)は当初、フランスへの援助に積極的でなく、見守っていた。ところが、1949年10月に中華人民共和国が成立すると、アジアの共産主義化を恐れ(ドミノ理論)、ベトナムのフランス軍の梃子入れを画策するにいたる。
 この戦いだが、同年の12月にはベトナム全土、さらにカンボジア、ラオスのインドシナ三国に拡大していく。また、イギリスやアメリカも経済的な利益に分け入ろうと、食指を動かすのであったが、1954年になると、フランス側の劣勢が明らかになってきた。
 「インドシナでは、人民解放軍のまえにフランス帝国主義が完全に敗北し、このためにアメリカは核兵器攻撃(※)によってこれに介入しようとしたが、朝鮮休戦後のアジアにおける民族解放運動のたかまりと、英仏・対・アメリカの対立のなかで、アメリカの孤立化が決定的に浮き彫りにされたため、アメリカはインドシナへの軍事介入を一時的に断念しなければならなくなった。
 ※マンデス=フランスは54年6月初め、フランス国民議会で、アメリカの軍事介入を要請したドビー外相を指さして、以下のように暴露している。
 「あなたは5月初めに暴露された計画、すなわち中国の介入をまねき、全面戦争をひきおこす危険をおかしても、アメリカ空軍を大規模に干渉させる計画をもっていた。・・・アメリカの干渉計画はすでに準備をおわり、(中略)あなたの要請ありしだい(中略)行動にうつる寸前にあった。攻撃は4月28日に開始される予定で、航空機と原爆を積んだ艦船はすでに航行中だった。アイゼンハワー大統領は、4月26日に議会に必要な権限をもとめる手はずになっていた。フランス議会は、既成事実(フエタコンプリ)をおしつけられようとしていた。」(陸井三郎「現代アメリカの亀裂ーベトナム・黒人問題・暗殺ー」平和新書、1968)
 1954年、この戦争をひとまず停戦に持ち込むための交渉がジュネーヴ会議として始まる。その最中の5月には、第四共和政下のフランス軍がディエンビエンフーでベトナム側(ベトナム独立同盟(ベトミン))と戦う。この戦いで敗北したフランスは、やむなくベトナムの植民地支配から手を引くことに決める。7月にジュネーヴ休戦協定が成立して和平が実現するのであった。
 このフランスのインドシナ半島とその周辺一帯からの完全撤退を見るに、今度はアメリカがその政治的空白を埋めるべく、進出していく。そもそもアメリカは和平に反対してジュネーヴ休戦協定に参加せず、新たな介入の機会を狙っていたのではないか。頃合いを見手の1955年には、南ベトナムに傀儡政権ベトナム共和国(南ベトナム)を樹立して介入し、ホー・チ・ミンの率いるベトナム民主共和国(北ベトナム)と敵対させ、和平協定で約束された統一選挙の実施を拒み、南への勢力拡張と北への攻撃(1960年代からのベトナム戦争と第2次インドシナ戦争)へと向かい始めるのであった。

(続く)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆


コメントを投稿