412『自然と人間の歴史・世界篇』日本への原発投下
1945年、アメリカのトルーマン大統領が承認もしくは追認したであろう、日本への原爆投下命令により、8月3日以降に広島・小倉・新潟・長崎のいずれかへ投下することになる。回数は、日本が降伏するまでという含意があったのかもしれないが、不明である。アメリカ軍はかねてから申し合わせていた編成を組み、まずは8月6日に出撃した。その日の第一目標であった小倉の上空は曇りであり、小倉に落とすのは適当でない、そこで広島が選ばれた。
少しだけ後、爆弾を積んだエノラ・ゲイは広島上空に達した。同乗していた技術者によって信管を外された原爆が投下されると、もはや爆発を止める手立てはない。そして、その時がやってくる。爆弾は、広島の上空、「上空から放射線や熱戦を浴びせるのが効果的」なところで爆発した。投下は、「成功」であった。広島への着弾を伝えるための写真を撮るなどしてこれを確かめると、彼らは無用と彼らは帰陣していった。
一方、地上では惨憺たる地獄絵が現出していた。時空は越えられていなかった。そこにあるのは、悪夢ではなく、真実の出来事であった。多くの人が突然の死に直面し、また傷ついた。それは、空から降ってきた「虐殺」に等しい規模であった。広島は、かつてなく強烈に焼き尽くされた。8月9日、原爆は長崎にも投下された。広島だけでは足らず、だめ押しというべきか、またもや残酷な大量殺戮が行われた。
この日、ヒロシマへの原爆投下作戦に作戦指導のため加わったウィリアム・S・パーソンズ大佐(ロスアラモス研究所から派遣された)の飛行メモには、こう書かれてあったという。
「1945.8.6。0245:離陸。0300:機銃への最終装填開始。0315:装填終了。0605:硫黄島から帝国に向かう。0730:濃縮ウランの小片を挿入(投下したとき爆発するよう、爆弾に挿入)。0741:上昇開始。気象報告を受け取る。第1、第3目標の上空は晴れ。第2目標上空は良くない。0838:3万2700フィート(約1万メートル)で水平飛行へ。0847:信管をテスト。結果は良好。0900:西にコースをとる。0904:ヒロシマが視野に入る。0915:爆弾投下。
備考:時刻は、B29エノラゲイがテニアン島から飛び立ってからのもので、「テニアン時間」で表示されています。始まりの日本時間は8月6日、アメリカ時間は8月5日。テニアン時間は日本時間とは1時間の時差があります。」(出所:ロナルド・タカキ著・山岡洋一訳「アメリカはなぜ日本に原爆を投下したのか」草思社、1995に所収のものから引用)
また、この日、この機の主役であったチャールズ W.スウィニーは、後年、こう振り返っている。
「私は爆撃したことについて、後悔も罪悪感も感じなかった。後悔と罪悪感を抱くのは日本の国家のはずであり、偉大なる野望を達成するために国民の犠牲を惜しまなかった軍の司令官たちこそが、とがめられるべきであった。私と乗務員が長崎に飛んだのは戦争を終わらせるためであって、苦しみを与えるためではなかった」(チャールズ W.スウィニー著・黒田剛訳「私がヒロシマ、ナガサキに原爆を投下した」原書房、2000より引用。)
それから、アメリカが日本に原爆を投下した理由については、戦後、さまざまな語られ現在に至っている。それらの中では、あの時、悲惨な戦争を終わらせるにはそうするしかなかったとか、目前に来ていた日本への上陸作戦に不可欠であったとか、などである。しかし、それらの理由は一番の正しいものとは言えまい。それまで原爆の人体への効果は分からなかった。落として初めて、そのなんたるかが分かるというものだ。それだから、むしろ実験を現実に移す絶好の機会だと考えていた、言い換えると、政府と軍がともにこの稀代の新兵器の威力を試すためであったとしても、不自然ではあるまい。それにもう一つ、アメリカは第二次世界大戦後の世界を主導するためには、ソ連を威嚇することが必要だと感じていた。
(続く)
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