○○20『自然と人間の歴史・日本篇』魏志倭人伝などに見る倭(倭の大乱)

2017-07-25 21:23:17 | Weblog

20『自然と人間の歴史・日本篇』魏志倭人伝などに見る倭(倭の大乱)

 すなわち、『魏志倭人伝』の後漢の桓帝、霊帝の頃の段になると、「桓霊の間、倭国大いに乱れ相攻伐すること5、60年」とあって、倭国が大変乱れ、人々は困窮に瀕していたらしい。57年(当時の中国暦で建武中元2年)、後漢の初代皇帝(ファンディー)の光武帝の前に「倭」からの朝貢の使者がやってきた。皇帝は、はるばる海を越えやってきた使者一行をさぞや厚くもてなしたのであろう。その証拠に、「倭」の「奴国」という国の「王」に対し金印を与えた。そのことが『後漢書』(巻八五 列伝巻七五「東夷伝」)に記されているのだ。
 その印は、それから千五百年余の時を経て、江戸時代の志賀島(しかのしま、九州の博多沖)で農民の手により偶然発見された。僅か108グラムのその印には、日本の古代史上最も著名な「漢委奴国王」の五文字、「漢が倭をそなたに委ねる」意味の刻印がなされている。後漢の光武帝が与えたものと異なるのでは、という話もあったものの、1981年(昭和56年)中国江蘇省のレンガ工場の地で偶然、光武帝の子である劉荊(りゅうけい)に送られた金印が発見された。その印と志賀島で発見の印との類似性が明らかになった。後日談として、2015年の上野で開催された国法展に、その印が一般公開され、往年のファンの熱い眼差しが注がれた。
 ここに奴国(なこく)とあるのは、どんな国であったのだろうか。後に邪馬台国(いわゆる「女王国」)の時代にあった、邪馬台国を支える連合の構成国の一つなのかもしれない。邪馬台国がしばしば「女王国」と通称されるには、されなりの事情があった筈だ。そこで、以下では、そのことが記されている3つの中国王朝の「正史」から、当該の部分を並べてみよう。
 「其國本亦以男子為王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年、乃共立一女子為王、名曰卑彌呼、事鬼道、能惑衆、年已長大、無夫婿、有男弟佐治國。自為王以來、少有見者。以婢千人自侍、唯有男子一人給飲食、傳辭出入。居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衛。」
(引用元『魏志倭人伝』)
 「桓霊間(146~184年)倭國大亂、更相攻伐、暦年無主。有一女子名曰卑彌呼。年長不嫁、事神鬼道、能以妖惑衆。於是共立属王。侍婢千人、少有見者。唯有男子一人給飲食、傳辭語。居處宮室樓觀城柵、皆持兵守衛。法俗嚴峻。」(引用元:『後漢書東夷伝』)
 「漢靈帝光和中、倭國亂、相攻伐歴年、乃共立一女子卑彌呼為王。彌呼無夫婿、挾鬼道、能惑衆、故國人立之。有男弟佐治國。自為王、少有見者、以婢千人自侍、唯使一男子出入傳教令。所處宮室、常有兵守衛。」(引用元:『梁書倭国伝』)
 つまり、その国、邪馬台国の王たる人は、元々男性であった。ところが、その治世は七、八十年で中断し、倭国は内乱の状態となってしまう。やがて鬼道(五斗米道の教え)に達者な一人の女性を王として共立したことで、さしもの大乱も収拾されたらしい。その女性の名を「卑彌呼」(卑弥呼とも綴る)といった。年齢は既に若くなく、夫もいない。弟がいて、国の統治を補佐したのだとされる。しかも彼女の住んでいるのは城柵の中に建てられた楼閣の上の階であるというのだから、彼女の住居全体は一年を通ど霊験新たかの上にも堅固に守られていたらしい。
 ともあれ、当時の倭国を知るには、私たちはまずもって『魏志倭人伝』に多くを頼るほかあるまい。日中友好が叫ばれるようになって久しい。しかし、私たちは当時の文明国、中国に思いを馳せ、敬意を払ってきたであろうか。これによると、239年(魏(ウェイ)建国19年目)、倭王・卑弥呼の使者、「大夫」(大臣)難升米(なんしょうめ、なんしょうまい)らが魏に朝貢した。このとき、生口(せいこう)と呼ばれる奴隷10人と、絞り染めの一種である斑布二四二丈を献上した。これに対し、魏の明帝(めいてい)から卑弥呼へは、「親魏倭王」の称号と、その称号を記した金印紫綬(しじゅ)を授けた。この決定に基づき、241年(正始元年)に、魏の直轄領の帯方郡(たいほうぐん)太守の弓遵(きゅうじゅん)が建中校尉の梯(てい)を卑弥呼の元に遣わし、金印紫授を届けさせたという。
 こちらの金印は、未だに日本では発掘されていない。また、使節団のもたらした貢物(みつぎもの)への返礼として、魏から邪馬台国側に下された賜物とは、こう地交竜錦(こうじこうりゅうきん)五匹、こう地しゅうしょくけい十張、せんこう五十匹、紺青五十匹に、紺地句文錦(こんじくもんきん)三匹、細班華(さいはんかけい)五張、白絹五十匹、金八両、五尺刀二口、銅鏡百枚、鉛丹各々五十斤を特別に加えたのだといわれる。
 他にも、公孫氏に対しても、倭からは積極的に朝貢していた。ここに公孫氏とは、190年頃から遼東半島に勢力を伸ばし始める。200年には、公孫度が「遼東侯・平州牧」として独立国となる。それからは、公孫氏はしだいに山東半島までの領有に発展していく。204年、公孫度が死に、後を継いだ公孫康は、すでに領有(その前は後漢の楽浪郡)していた楽浪郡を二つに分け、南半分を帯方郡として治めることにする。
 こうなると、倭諸国の中には、公孫氏に組しようと考える者も現れてくる。220年、公孫氏は、魏に近づき「持節・楊列将軍」の爵号を手に入れる。やがて呉は、魏に対抗するため公孫氏との連携を画策し、公孫氏は237年に「燕」を建国し、呉側につく。おりしも、魏と呉との間を行きつ戻りつの外交を魏に咎(とが)められたのか、238年、魏の明帝から派遣された司馬懿仲達(しばいちゅうたつ)によって滅ぼされてしまう。
 こうして弥生期の終わり、3世紀前半の日本列島には、まだ「一つの倭国」又は「一続きの倭国」というまとまったレベルではないとしても、「王」又は「大王」などと呼ばれる者が複数人、およそ数十人もいたらしい。彼らは、互いに離合集散の結果、この時期までの倭では、諸部族国家は「邪馬台国」という名の連合国家を構成していた。その構成員たる王たちの統治する国々とは、大方は農耕を中心とする社会構成体としての部族国家であったろう。彼らの先祖は、弥生期の約1200年の間に縄文社会を徐々に北へ北へと追いやり、あるいは自分の中にそっくりあるいは少しずつ採り入れ、編入していった。そのことにより、その支配を拡大し、さらに3世紀になってからは部族国家が単独で支配を分かち合うのではなく、連合国家をめざした統合へ向けて動くに至っていたのだと考えられる。

(続く)

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