○○32『自然と人間の歴史・日本篇』古代日本語の成立

2017-07-29 22:23:16 | Weblog

32『自然と人間の歴史・日本篇』古代日本語の成立

 それぞれの民族が形成されていくとき、その代表的な属性としては、言葉の存在がある。今日の私たちは、弥生時代(現時点の大方の見立ては紀元前10世紀頃)に入ってからの、話言葉としての「古代日本語」の成立について、どのくらいわかっているだろうか。日本語の系譜として考えられているものとしては、その1として北方語系統説、その2として南方語系統説、それから3番目として複合語説があるとのこと。残念ながら、現代日本語の成立を巡って未だ定説らしきものは見あたらない。多数説というものもない、現時点までの言語学では明確な答えが見つかっていない。
 そもそも、言語というものは、外ならぬ人が運んでくるものだ。弥生人がこの列島に押しかけてくる直前までの縄文人一般がどんな言語を話していたかは、彼らがどこからやってきたかと同様に、いまだによくわかっていない。これを「古代日本語」ということで締めくくるなら、アイヌ語はその縄文語の範疇(カテゴリー)の中に入っていた。言語学者のアレキサンダー・ヴィヴォンが指摘しているように、本州東国の「武蔵」や「足柄」の地名に係る日本語の解釈としては、成り立ちにくい(例えば、アレキサンダー・ヴィヴォン「萬葉集と風土記に見られる不思議な言葉と上代日本列島に於けるアイヌ語の分布」国際日本文化研究センター、2008)。
 ところが、アイヌ語に置き換えると、それぞれ発音が似て、意味も「草の野原」、「清いところ」となる。日本最古の歌集『万葉集』中に東国歌(あづまうた、古代東国日本語を使う)、防人歌(さきもりうた、常陸国と上野国出身の者によるもの)、肥前風土記歌謡に時を意味する「しだ」(同士の後に続く名詞として)が含まれることも、日本語では解読不可能に近い。ところが、アイヌ語ではこれを二つの言葉からなる合成語として扱うことができる(例えば、瀬川拓郎「アイヌと縄文ーもうひとつの日本の歴史」ちくま新書、2016)。

 もっとも、古代東国日本語には、時を意味する言葉として「とき」を活用することもあることから、両者の用法が並列して用いられていたのかもしれない。縄文語の外にも、琉球王国で使われていた琉球語(いわゆる琉球方言)が取り沙汰されることがあるものの、「服部四郎は、琉球方言の首里方言が日本語と分岐したのは1500~2000年前と推定」(浅川哲也「知らなかった日本語の歴史」東京書籍、2011)とのことなので、これだと古代日本語から早ければ6世紀頃に分岐し、そのまま日本語と「姉妹語」のような言語として明治の琉球併合を迎えたことになるのだろう。
 では、縄文人の後にやってきた、後に弥生人と呼ばれる人々がやって来てから操っていた言語は、どのようなものだったのだろうか。こちらを「古代日本語」としてみると、これとてもそのルーツについて確かなところはわかっていない。最初の体系だった説としては、子音が語頭に二つ来ることを嫌ったり、語頭にr音が立たなかったり、冠詞がなかったり、動詞の変化が膠着法によっていたり、動詞につく接尾辞・語尾がかなり多いなどの特徴からウラル・アルタイ語系統の言語だと位置づける。この中の一説には、初めの頃の人々は謬着語(こうちゃくご)に属する古代朝鮮語を中心に話していた。もしそうであれば、この地で、縄文語と古代朝鮮語を核として古代日本語が追々形成されていったのではないかという。
 具体例を挙げてみよう。梅原猛氏によると、動詞と格助詞(「を(お)」や「へ」に代表される)からみて、「この二つのことは、抱合語であった縄文語が弥生人に使われることによって謬着語になり、日本語になったことを物語っている」(2006年2月21日付け朝日新聞掲載の「金田一理論の光と影」)のだといわれる。しかしながら、その古代朝鮮語も古代中国語も音節(シラブル)の最後が子音で終わることのある、言語学上の閉音節構造をもつ言語なのであって、音節の最後に必ず母音(現在のカタカナの音の響きで言うとアイウエオとなっている)が来る、開音節構造の(上代)日本語とはことなっているのは、動かし難い。
 二つ目の、日本語が南方からやってきたという説については、近年の学会で有力になりつつあるらしく、具体的な候補としては、ホリネシア系統の言語が上っているとのこと。古代日本語の特質としての、言語学でいうところの連母音(一つの単語の中で母音が並ぶこと)を嫌うことがあったり、開音節構造をもっていることがあって、それらのことと一致するのだというが、これとても決め手は見つかっていないようだ。また、南方からの人類の渡来が、縄文人からの足跡において、他のルートに比べ特段はっきりしているわけでもあるまい。もし黒潮に乗って船を操ってきたのだという推測が成り立つのであれば、現実味が広がることになるのかもしれないが。
 仮説はさらにもう一つあって、それによると、古代日本語は幾つかの言語の混合として造られたのだという。これに拠るのは、幅広い。具体例として、ポリネシア系統の言語を基層としつつ、アルタイ語系統の言語を上層と考えるのも、これに含まれる。ここでは、そうした混合説の立場からだと思われる一つを紹介させていただこう。
 「日本民族はこの日本列島に旧石器時代より定着して、それ自身で増殖して現在に至ったというよりも、旧石器時代人の子孫は存在していたとしてもそれは比較的少数であって、むしろ海外より渡来した諸種の民族が雑居し、さらにより有力な文化を持った民族が渡来して次第に日本民族が形成されたという説が有力である。その渡来した民族を二大別すれば、一つは南方民族であり、もう一つは北方民族である」(馬淵和夫「国語音韻論」笠間書院より引用)
 ここに言われる「南方民族」と「北方民族」の構成と地理上の範囲が判明していない間は、彼らがこの列島への移住の際持ち込んだであろう言語構成も多様なものが合わさったものであったと考えるのが自然なのではないだろうか。いずれにしても、旧石器時代から縄文期を経て弥生期(2016年夏現在、一応は、前10世紀から後3世紀頃までという説をとる専門家が多いように見受けられる)に至るまでの間に、話し言葉としての「倭語」もしくは「日本語」がゆっくりと形成されていったのではないかとも考えられる。そしてそのことが史実であるのなら、主として朝鮮半島を通って日本列島に渡来した北方系と、それ以前の主に南方系の人々との合成体の総体が私たち日本人の祖先であるなら、それらの南方糸と北方系のおのおのの言語が出会って、混じり合いながら、しだいに融合してゆく過程で成立していったものこそ、今日につながる日本語の原点、源流なのかもしれない。

(続く)

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○○29『自然と人間の歴史・日本篇』縄文時代の文化

2017-07-29 21:53:39 | Weblog

29『自然と人間の歴史・日本篇』縄文時代の文化

 縄文時代の文化の特徴ないし「妙」とは、何であろうか。現代人のそれへの思いを育んでくれそうなもにのに、土偶がある。土偶というのは、粘土で作り、焼いた人形である。現代人から見ると、高度な技術と芸術性の体化したものとして作られたと考えがちだが、おそらくそうではあるまい。もっと素朴なものとして観賞するものとしてあるのではないか。
 土偶は、何しろ日本列島の東半分を中心に、全国各地の縄文遺跡から発掘されている。個数は、万を下るまい。遺跡年代は、今から一万五千年程前頃に始まり、その後一万二千年以上もの長い間続いた。人々は、竪穴式住居に住み、土器を作って食べ物を煮炊きし、採集狩猟(海川のものや森、空を飛ぶものものなど)、もしくは栗などの自然果実の栽培を生業(なりわい)にして生活をしていた。

 土偶は、そんな縄文時代の人々が、何か大事なもののために、作っていたものだと考えられるのだが、その何かについては、諸説があって、未だにはっきりしていない。姿かたちのバリエーションは実に豊富で、縄文時代の時期によっても、地域によっても、形が随分異なる。大きさも、数センチのものから40センチメートル以上のものまで出土しているとのこと。現代人にの想像をかき立てる、国宝土偶の5体を始とするものからは、古代人の美意識の片鱗が伝わってくるかのように感じられる。
 国宝「縄文のビーナス」は、長野県茅野市棚畑遺跡から出土した。縄文集落の中央部の穴から、ほぼ完全な姿で発見された。推定年代は、紀元前12000年前頃から紀元前300年頃までのどの時点かであって、はっきりしていない。この像は、出産や生命繁栄への祈りを表しているのかもしれないし、人間の姿には見えないものもたくさんあり、何らかの精霊を表したものなのではないかとも。これを拝見した時の自身の手記に、こうある。
 「2000年10月21日の午後10時から教育テレビで「縄文のビーナス・火焔(かえん)土器」の放映がありました。5月1日に両方とも上野の国宝展で見ていたので、今度は余裕を持ってしっかりと理解することができました。
 20センチメートルを超える寸法の土偶を「大型土偶」といい、個人ではなく共同体の祭祀に用いられていたのではないかとナレーター氏がいう。いまから6千年も前に縄文のビーナスの前で人々が何やら祈りを捧げている光景が目の当たりに浮かんできて、しんしんとした感情に浸りました。
 博物館ではビーナスの表情を何度ものぞき込みました。20センチくらい離れたガラス越しの観察でした。子供のころに昆虫の目を見た感覚がよみがえってきました。胴体のくびれは圧倒的なまでの豊穣さで、解説者の言われたことに同感です。頭の上の部分にはぐるぐる巻き、その下にはS字の模様が施されていました。輪廻転生の願いが込められているのでしょうか。少し離れて見ると、前から、横から、後ろから、その三態の変化を楽しむことができるたぐいまれな土偶に違いありません。
 唯一、ナレーターと解説者が触れなかった印象について述べてみますと、それは当然のことながら縄文のビーナスが小麦色の裸をしていました。小学校や中学校の教科書には必ず出てくる国宝の埴輪像も陳列されていたが、それは兵士のような姿をしていました。
 それにひきかえ、かのビーナスは裸一貫のほかは何ものも身にまとっていません。相対する人間もまた裸の姿で向かい合うのが順当となのかもしれませんね。そんな想いさえ、どこからともなくやってきて脳裏をよぎっていきました。人は裸で生まれ、また裸で死んでゆかねばなりません。テレビ画面を見ていて、生きてあるうちにおまえは何をするかとビーナスに問われているような気がしました。」
 国宝「縄文の女神」(じょうもんのめがみ)は、西ノ前遺跡(集落跡)(山形県最上郡舟形町)から出土した、土製素焼きの土偶である。作られた年代は、縄文時代中期の約4500年前と見られている。この頃までの土偶には、顔らしきものが付いていないのが多くあるらしい。胴は逆三角形の薄い板状となっていて、背筋はすっくが伸びている。これに半円形で扁平な頭が乗っている。顔面はのっぺらぼうで、表情というものは略された形だ。頭部の周囲には円い穴が連続していることから、帽子のようなものを被っていたのであろうか。下半身はと言うと、尻は控えめ、脚は堂々と直立しており、なおかつ長い。高さは45センチメートルあって。立像では現存最大の高さを誇る。威風堂々たる体躯(たいく)といえるだろう。出土した時は五片に請われていたが、接合して復元がかなった。この像には、豊饒(ほうじょう)を願う人々の気持ちが凝縮されているのだと評される。
 国宝「仮面の女神」(かめんのめがみ)は、長野県茅野市の中ッ原遺跡、集団墓地の一角から出土した。縄文時代の後期、紀元前2000~前1000年のものと見られている。高さは34センチメートルある。顔面に特徴があって、頭部の前に逆三角形の扁平な仮面を被っているように見える。頭にベルト付きの仮面を被っていることから、その仮面を頭の後ろでゆわえていたものか。下半身は図太くできていて、臍(へそ)や臀部(でんぶ)は安産型の女性をイメージしているのであろうか。全体としてのいでたちから推測するに、何かの儀式の主役、あるいは冥界へ行く時の魔除けの役割を演じる役割で作られたのかもしれない。
 国宝「合掌土偶」(がっしょうどぐう)は、青森県八戸市風張遺跡から出土した。縄文時代の後期、紀元前2000~前1000年のものと見られている。こちらは、中年以降の女性であろうか、祈りのポーズをとっている。
 国宝「中空土偶」は、北海道函館市著保内野遺跡から出土した。縄文時代の後期、紀元前2000~前1000年のものと見られている。41.5センチメートルある。髪型の部分と手が欠損しているものの、全体像は確かだ。中空の構造となっていて、墓に埋まっていたことから、死者を某か弔うためであろうか。
 さらに現代人に人気が高いということでは、明治年間に、青森県つがる市亀ヶ岡遺跡から出土した「遮光器土偶」(しゃこうきどぐう)がある。高さこそうるふ34.2センチメートルながら、肩、両の腕を張り出し、どしんと構えている。最大の特徴は、である。現代風のスノーゴーグル(護眼器)を眼に架けているように見えることから、この名が付けられたらしい。兎に角眼が大きくて、眼部の誇張が尋常ではない。まぶたが上の方からと下の方からとが真ん中で出会うようにして、閉じられている。堂々とした姿形にしてこのどでかい眼ということなので、何かを守ろうとしてのことなのだろうか、尚更周囲ににらみを聞かせているような印象を与える。

(続く)

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