◻️211の9『岡山の今昔』岡山人(20世紀、川村 清一、川村多実二、川村邦三の「川村三兄弟」)

2020-01-27 21:48:26 | Weblog

211の9『岡山の今昔』岡山人(20世紀、川村 清一、川村多実二、川村邦三の「川村三兄弟」)

 まず、川村清一(かわむらせいいち、1881~1946)は、植物学者だ。東南条郡上之町(現在の津山市上之町)の生まれ。津山中学校から第三高等学校を経て、東京帝国大学理科大学に入学というコースというから、絵にかいたような順調さてあったことだろう。
 幼い頃から、植物に親しんでいたらしく、大学では植物学を専攻する。1906年(明治39年)に大学を卒業すると、その流れで菌類の研究に従事する。特にキノコや毒菌に興味をそそられたのであろうか、やがて、「キノコ博士」と呼ばれる。
 翌1907年(明治40年)には、岡山県北部に自生するトラフダケの成因を突き止める。その頃から、植物全般での希少種の保護を志す。社会にその機運をつくろうと、内務省に白井光太郎や松村任三、伊藤篤太郎といった植物学者と連名で「稀種保護の建白書」を提出する。天然記念物保存法の制定を志す、そのひたむきな眼差しは、自分の周りの人に対する優しさをも宿していたという。
 それゆえに、いわゆる「学者の気難しさ」とは、無縁であったらしい。のち千葉高等園芸学校教授を長く務め、日本菌類学の草分けの一人に数えられる。著書に「原色日本菌類図鑑」などがある。もう少し長生きをしていれば、本人ならではの「一筋の道」にちなんで、某かの楽しげな随筆なりを残してくれたのではあるまいか。

 次の川村多実二(かわむらたみじ、1883~1964)は、動物学者だ。こちらもまた秀才の誉れあり、東京帝国大学を卒業する。それからは、帝大付属大津臨湖実験所の創設につくす。

 1921年(大正10年)には、西に移って京都帝国大学教授となる。のち京都市立美大(現在の京都市立芸大)学長になる。
 この間、動物生態学の講義と実習を日本ではじめて開設する。この国での陸水生物学の基礎をきずく。著作に「日本淡水生物学」「動物生態学」など。

 3人目となる福田邦三(ふくだくにぞう、1896~1988年)は、生理学者にして、看護学の大家だ。旧名は、川村邦三にして、こちらも順調な青年時代を送ったようだ。 
 東京帝国大学医学部を卒業してからは、学究生活に入ったようだ。1932年(昭和7年)に医学博士になった時の学位論文の題は、「蛙の筋が全困憊に至るまでに遊離するエネルギーに就て(英文) 」であり、なんとも珍しいテーマではないか。
 名古屋帝国大学教授を務める。戦後になっては、東京大学医学部教授、やがての定年退官とともに名誉教授、のち山梨大学教授を務める。

 その彼の名前を不朽ならしめた最大のものは、1953年(昭和28年)に東京大学に設置された衛生看護学科の関係であろうか。
 初代の衛生看護学科主任を務めた生理学講座の福田は、英国に留学して医学を学んだ時、かの国の看護学に感銘を受けたらしい。ナイチンゲールの精神にはキリスト教に根差した、人間に対する平等な愛がある、とのことであり、帰国後、これを基(もとい)に、日本の看護学の確立に向けて奔走する。
 その講座の専門課程に入る諸君を前にした福田の言葉には、こうある。
 「日本の臨床看護に新しい息吹を吹き込むには、大学の教養を身につけた、「看護はかくあるべし」ということの根拠を明示し得る優れたリーダーを必要とする。」(「衛生看護学科の専門課程」から)


(続く)

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