goo blog サービス終了のお知らせ 

○160『自然と人間の歴史・日本篇』織田「政権」の政治経済

2020-09-17 10:28:56 | Weblog
160『自然と人間の歴史・日本篇』織田「政権」の政治経済

 織田・豊臣の両政権の時代を指して、日本の「近世」と呼んでいる。手元にある国語辞典をみると、中世とは古代と近世との間の時代、「日本では通常近古を指す。
 また、時に中古をも含める」(金田一京助他「新明解国語辞典」三省堂)とし、その近古(中古の後)と中古(上古と近古の間)はそれぞれ「日本史では鎌倉・室町時代を指す」と「主として平安時代を指し、特に鎌倉時代を含む」のだという。一方、経済史で封建時代とは、普通は奴隷制が崩れてゆく過程もしくはその後に来る社会経済体制のことをいう。
 その封建社会の特徴(メルクマール)は、主な生産手段が封建領主の手に属し、そこで労役を担う者が農奴と呼ばれる。農奴とは、同じ国語辞典をめくると「(中世ヨーロッパなどで)領主から貸与された土地を耕作し、領主に賦役・地代その他の税を納めた人たち。(移動・転業などの自由が奪われていたが、奴隷と異なり人格は認められていた)」とされている。

 そこで、これを基本に日本史の出来事を追ってゆくと、どうなるであろうか。まず奴隷制から封建制への移行の時期には、大別して2説があって、史学の上では未だすっきりとした形では決着がついていないように見受けられる。この見解の違いは、経済史家の土屋喬雄においても、すでにこう述べられる。

 「また多かれ少なかれ奴隷を農耕その他に使役した時代が、我が国の古代にもあった。それは古墳時代・奈良朝時代から平安朝の初期を中心とする時代であったとするのが、従来の定説であった。しかし、ギリシャ・ローマなどのように、自由民の数倍というような多くの奴隷が使役されたことはなかったと考えられている。
 もっとも、十数年前、ある若い歴史学者は、この問題に関する新説を発表し、史学界において論争も行われた。新説とは、日本の歴史上奴隷使役の時代をはなはだ長く見るもので、古代から桃山時代の文禄年間の太閤の検地までをそうした時代とする説である。
 すなわち古代から桃山時代まで家内奴隷として多くの奴隷が農耕にも使役されていたので、桃山時代までが奴隷制の支配的な時代であり、太閤検地を活期として、奴隷から農奴への転換が行われ、したがってそれ以来はじめて日本に封建社会が形成された、という趣旨である。」(土屋喬雄「日本経済史概説」東京大学出版会、1968)

 この当時の新説については、平安時代の中期以降になると荘園の拡大が起こってくるところから、その新たな担い手としての武士の台頭と相俟って、ここに封建社会の萌芽が発生したというのと、大きな矛盾は認められないのではないか。

 時代が鎌倉時代に下っていくうち、「新補地頭」が幕府の認めるところとなっていった経緯にも見られるように、我が国封建社会は従前からの朝廷を中心とする領地経営に風穴を開けるまでに成長していく。この時代から室町時代(その上半期は「南北朝時代」とも言われる)の中期にもなると、守護大名も台頭して、かれらの領した土地の大きさたるや、もはや荘園すなわち朝廷や貴族や社寺などの領地の大きさの比ではない。
 これら大名たちの間ではしばしば両道拡張のための戦争が行われ、弱小な者が兄弟な者にしだいに併呑されていく過程において、大名領地を基礎とするこの国の封建時代の原型が出来上がったと言えるのではないか。大方の解説書において、守護大名から転じた「戦国大名」たちによる「戦国時代」が、「我が国封建時代の一大転換期であった」(土屋前掲書)とされるのも、この文脈によるのであり、この点、新説には同意しかねる。

 さて、そうした戦国大名の中から頭角を現してきた織田信長は、封建領主でありながら、商工業者が自分の領地で活動するのに便宜を与えることに長けていた。
 1567年(永禄10年)には、岐阜城の城下である美濃の加納地域において、そして1577年(天正5年)には安土(あづち)城下を対象として、織田信長は『楽市楽座令』を出している。この政策には、他の地方で前例があったのだけれども、それに目をつけたのは慧眼であった。
 後者の『楽市楽座令』には、こうある。この措置により、信長の支配地域内での、それまでの「座」による特権商工業者の地位は失われた。

 「定、安土山下町中
一、当所中楽市として仰せ付けられるるの上は、諸座、諸役、諸公事等、悉く免許の事。一、往還の商人、上海道は之を相留め、上下共(のぼりくだりとも)当町に至り寄宿すべし。
一、伝馬(でんま)免許の事。
一、分国中徳政(ぶんこくちゅうとくせい)、之を行ふと雖も、当所中は免除の事。
一、他国ならびに他所の族(やから)当所に罷越し、有付(ありつく)の者、先々より居住の者同前、誰々家来たりと雖も、異議有るべからず。若しくは給人と号し、臨時課役停止(りんじかえきちょうじ)の事。
天正五年六月日」

 なお、これにより「楽市場」での座は廃止されたものの、その他の地域・空間での座の存在、そして関係者の特権が否定されたのではないことに留意されたい。  

 信長は、美濃攻略が成ると本拠地を美濃の岐阜城(稲葉山城から改名)を造り、そのうちに天下を望もうとしたのであろう、あれやこれやの文書などに「天下布武」の朱印を用いる。
 ただし、その「天下」とは、当面は畿内(山城、大和、摂津、和泉、河内など)もしくは京だけを指す場合に限られていた。

 そんな中でも、「関所の撤廃」については、1568年(永祿11年)に自らの領国内の関所を廃止した。

 「永禄十一年十月、(中略)且は天下の往還の旅人御憐愍の儀を思しめされ御分国中に数多ある諸関諸役上(あげ)させられ、都鄙(とひ)の貴賎一同に忝(かたじけな)しと拝し奉り、満足仕り候ひおわんぬ。」(「信長公記」)
 
 これの最大の狙いは、領内の、足利幕府や荘園領主らが商人らに課していた通行料の徴収を廃することで、かれらの独自財源を奪うとともに、自らの領国の専制支配、掌握、それに経済の発展を計るためのものであったろう。


 次には、信長が行った「指定検地」というのは、どんなものであったのだろうか。僧侶の英俊の記した「多聞院日記」には、こうある。

 「天正八年九月廿六日、当国中寺社・本所・諸寺・諸山・国衆悉く以て一円に指出す可きの旨、悉く以て相触れられおはんぬ。沈思沈思。申出さる一書の趣、これを写す。
  敬白 霊社起請文前書の事。
一、当寺領并びに私領買得分皆一職。何町何段の事。
一、諸談義唐院・新坊何町何段の事。
一、名主拘分、何町何段の事。
一、百姓得分、何町何段の事。
一、当寺老若・衆中・被官・家来私領并びに買得分、扶持分、何町何段の事。
 右、五ケ条の書付以て申入れ、田畠・屋敷・山林聊も隠置き申す儀これ無く候。その為、何れも本帳御目に懸け候。若し此の旨御不審に於ては、急度百姓前直ちに御糺明なさるべく候。
 その上多少に寄らず出来分これあるに到らば、曲事たり。惣寺領悉く以て御勘落あるべし。安土、上聞に達せらるべし。証文として、宝印を飜し、血判を据え申上ぐる者なり。仍て前書件の如し。
  九月 日 興福寺衆徒中
 滝川左近殿
 惟任日向守殿
 此の如く申したる。前代未聞是非なき次第。日月地におちず、神慮頼み奉る計りなり。(中略)。
 十一月二日。(中略)滝川・惟任今暁七つ時分より帰了と。三十八日ばかり滞留か。その間の国中上下の物思ひ・煩ひ、造作苦痛迷惑、既果たる衆地獄の苦しみも同じならん」(英俊「多門院日記」)

 しかして、これに「指出」と、いうのは、新たな領内の旧領主たちが信長に差し出す土地についての書類にて、当該地域の所領内容の目録とその基準となる帳簿の提出を求める、そしてこれを吟味し、承認することにしていた。あわせて、必要と認める場合は、越前などのように、現地に人を派遣して実地調査を行う。
 ちなみに、本史料の出元は、1580年(天正8年)の大和国の案件につき、興福寺の僧侶、英俊が紹介したものであり、これより前に信長は、大和一国支配権利を松永久英や原田直政に与えたことで、興福寺の当該地への支配は弱体化もしくは有名無実化していたのが推察されよう。

(続く)


☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★


(続く)


☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆

コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。