□28『岡山の今昔』江戸時代の三国(元禄一揆・高倉騒動)

2018-12-07 22:01:50 | Weblog

28『岡山の今昔』江戸時代の三国(元禄一揆・高倉騒動)

 1698年(元禄11年)の冬、津山藩で元禄一揆(げんろくいっき)が起きる。その頃、江戸では「元禄」という爛熟の世が出現していた同じ時代に、美作の地では百姓たちが結束して強訴しないでは収まらないだけの騒憂があった。ここでいう津山藩とは、江戸時代の最初に幕府により布置された森家のことではない。

 ここで百姓たちに相対峙していたのは、同家が改易となった翌年、新たに封じられた松平家のことである。その家柄は、始祖に二代将軍徳川秀忠の異母兄にして、北の庄の徳川秀康を戴く徳川将軍家親戚筋として「親藩」(しんぱん)に列せられていた。
 ついては、これより十数年前の1681年(元和元年)、越後(えちご)高田藩26万石が改易処分となる。「家国を鎮撫すること能わず。家士騒動に及ばしめし段、不行届の至り」(『廃絶録』)との理由で、所領を没収される。これを受け、藩主の松平光長は稟米(りんまい)1万石を与えられ伊予松山藩に預けられていた。その光長が1687年(貞享4年)に幕府から赦免されると、従兄弟の子に当たる陸奥白河藩松平直矩(まつだいらなおのり)の三男を養子に迎えたのが、この宣富(矩栄(のりよし)改め)にほかならない。
 この松平氏が美作の新領主となって封に就き、領主として初めて年貢を徴収しようとした際、領民が幕府天領時代の「五公五民」への年貢減免を求め、強訴を起こした。この事件は、江戸期の美作において最初の大がかりな惣百姓一揆である。その背景には、年貢の変更による増徴があった。森藩が断絶してから松平氏が入封する1698年(元禄11年)、旧暦正月14日までおよそ10か月の間に幕府の天領扱い、代官支配下での年貢収納は「五公五民」の扱いになっていた。それが松平氏の支配となるや、その年貢率が反古にされ、森藩自体と比べても厳しめの「六公四民」になったことがある。

 具体的には、美作の歴史を知る会編『みまさかの歴史絵物語(6)元禄一揆物語』1990年刊行に収録の「作州元禄百姓一揆関係史料」に、こう解説されている。
 「一六九八年(元禄一一年)旧暦八月、領内に出された年貢免状によると、年貢量は森藩時代と同じような重税の上、森藩の時認められていた災害時の「見直し」や、「奥引米制」という値引き等が、全く認められない厳しいものでした。」
 これに対し郡代は、諸藩は独自の税法を有する。だから、願いの筋を聞き届けることはできないと突っぱねた。代表は、これを村に持ち帰った後、大衆の力をもって要求を通すしかないと衆議一決してから、1698年(元禄11年)旧暦11月11日大挙して津山城下に侵入した。

   そして迎えた1698年12月13日(元禄11年11月12日)、百姓の代表格の東北条郡高倉村の四郎右衛門、佐右衛門、東南条郡高野本郷村の作右衛門らは、郡代を含む藩の関係者に二一名の大庄屋の連盟にて「御断申上候御事」なる嘆願書を差し出し、年貢を幕制時代に戻すよう主張する。

   その文面(書き下し文)は、次のような抑制のきいた、思慮深いものであった。

「一、  御国のうち御領分存知の外御高免、その上こなし実違(みちがい)、百姓共迷惑仕り候。此御下札の通に仰せ付けさせられ候得ば、百姓共残らず乞食に罷りなる候。御蔵入並あそばせられ下され候様、御願いあげられくださるべく候。御蔵入並に仰せ付けられ候とても、前々困窮仕り候百姓にて御座候へば、村の内五人三人絶人(たえにん)に罷り成り候者も御座候、然れども(以下、略)。」(原文は、長光徳和編「備前・備中・美作百姓一揆資料」第1巻、(株)図書刊行会、1978)、「津山市史」第4巻などに収録されている。

   なお、ここに「御下札」とあるのは、松平になっての年貢免状、「御蔵入金並」は幕天領なみ、さらに「絶人」とあるのは、年貢を差し出せなかった百姓が田畑を没収されるなどの処分を受け、大庄屋の差は差配外に追放されることをいい、その者のことを「本絶人」と呼んでいた。

 それから、これに関連してのことだが、前記解説によると、「後には、田畑家財を村方に差し出し、村まといとなったものを内絶人といい、自ら売払って離村した者を売絶人」(長光徳和編「備前・備中・美作百姓一揆資料」第1巻、(株)図書刊行会、1978)をいうとのこと。

 これはてごわいとみた藩は、一旦(いったん)、農民たちの要求を受け入れる。これにより、百姓達の強訴はかわされて鎮静に向かい始める。その後の津山松平藩は、すでに足並みが乱れて始めていた庄屋の団結を破壊し、百姓たちから完全離反させようと画策を重ねる。

   そして、百姓たちが強訴を解いて退散したところへ約束を撤回し、最後まで百姓に味方した大庄屋の堀内三郎右衛門(四郎右衛門の兄)を含め、一揆の首謀者を捉える挙に出る。翌1699年4月26日(元禄12年3月27日)、四郎右衛門ら8人は死刑に処せられ、事件は収束に向かう。なお、高倉村大庄屋の三郎右衛門については、弟2人に加え、「世倅平右衛門」に対しても死罪が申し渡された、「むごい」というしかない冷酷極まる仕置きであった。想えばこの時期、すでに同藩には、民をいたわる人物はいなかったものとみえる。

  彼らは、「幕藩体制」という封建社会において、その与えられた人生を力強く生き抜いて死んでいった。そうした彼らの志の高さに比べ、正義のため立ち上がった百姓達に対抗するため、藩側が一貫してとったのは武士の名分をかなぐり捨てた騙しの戦法であった、と言われても仕方がない。

 この元禄一揆により、さしもの年貢率にも修正が加えられ、「翌元禄十三年よりは、森家時代の年貢より弐割下げにして定められる」(『三間作一覧記』)とある。その水準がいかほどであったかは、『鏡野の歴史・鏡野町山城村年貢免定』の事例が明らかにされている。

これによると、元禄九年(森)の毛付け高が三一八石に対し、年貢高は一八五石にして、年貢率は五八・二%。元禄十年(幕府)の毛付け高が三四三石に対し、年貢高は一五八石にして、年貢率は四六・三%。元禄一一年(松平)の毛付け高が三四三石に対し、年貢高は二五一石にして、年貢率は七三・二%。元禄一一年(松平、しゃ免引き)の毛付け高が三四三石に対し、年貢高は二〇二石にして、年貢率は五九・二%。そして元禄12年(松平)の毛付け高が三四三石に対し、年貢高は一七七石にして、年貢率は五一・五%であったと見積もられる。

(続く)

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