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97『岡山(美作・備前・備中)の今昔』備中高梁(江戸時代、城下町)
さて、その頃の高梁の町割りとしては、大まかに西の奥にお馴染みの備中松山城、東に向かっての麓に藩主を中心とした日常の政務場所・御根小屋(御城)といく。この小屋を核にして、範囲でいうと西へ行って紺屋川に突き当たるまで、南に向かっては高梁川に出会うまでを「城内」と呼んで最重要地域としていた。
なお、内堀という位置づけでは、山城の後ろ側から来ているように見受けられる、高梁川に注ぐ小高下谷川(ここうげだにがわ)に、その役割が与えられていたという。そしてもう一つ、西に流れる紺屋川(こんやがわ)は城の「外堀」の役割を担っていたことになろう。
それから、川を渡って西へ進んでいくと、そこには侍町が広がる。御城に近い区域には上級武士らが住んでいたという。たとえ中級の禄をはむ武士であっても、役職によっては住むところが特定されていた向きもあったのかもしれない。
さらに町人たちについては、侍町の南側、高梁川の流れと並行して長い町並み(町屋)になっておいた。その松山往来と呼ばれていた通りには様々な暮らし向きの人々が行き交っていたのであろう。その高梁川には、高瀬舟が通っていて、米、鉄(阿哲、成羽(なりわ)産)、銅(吹屋(ふきや)産)を始めとして、炭、こうぞ、和紙、うるし、たばこなどといった、この地方および以北などからの産物を運んでいた。
それに加えるに、備中高梁での人々の生活向きに必要な多くを流通させていたのだと伝わる。ちなみに、2018年10月10日放映のNHKテレビ番組「趣味・秋の歩き旅、再、天空の城、備中松山城」の一場面「おとなの歩き旅、秋、岡山・高梁」において、「高梁川を航行する高瀬舟(撮影年不詳・高梁市教育委員会蔵)」として往時の姿が紹介された。
そして現代に伝わるめずらしいところでは、市内に頼久寺(らいきゅうじ)が有名だ。この寺の開基は室町期に遡る。足利尊氏(あしかがたかうじ)が、諸国に命じて建立させた安国寺の一つ、との伝承がある。
この寺内には、1604年(慶長9年)頃に造られたという、備中の代官として赴任してきていた小堀遠州(こぼりえんしゅう)による設計の庭園が、訪れる人をお温かく迎えてくれる。その形式は、蓬莱式枯山水庭園にして座観式ということで珍しい。比較的小さい敷地にもかかわらず、室町時代以来のわびさびを主体としたような世界が悠々と広がっているではないか。
その特徴は、愛宕山(あたごやま)を借景に、白砂が敷き詰められており、その中に「鶴島」、「亀島」といったお伽噺上の島がこしらえてある。また、遠景にはさつきがふんわり、こんもりと植わっている。その幾つもの固まりが位置をずらしながらしつらえてあって、さながら波のようでもある。庭の植栽を賑わすこのやり方には、遠く西洋の作庭からの影響がみられると教わった。
筆者はまだ訪れたことはないものの、テレビ番組でたまに取り上げられ、観る者の目を楽しませてくれる。昔懐かしい「旅は情け」の故事に従えば、さつきが満開の頃にここを訪れ、座敷に座って彼の意を凝らした庭を眺めると、ここを訪れる旅人の日頃の浮き世の疲れも、さぞかし癒されることだろう。
この高梁の山間(やまあい)の地形に、うまくへばり付いた美しい町並みの城下町を出る。それから、高梁川の川沿いをたどっての南進は、大小の渓谷や峡谷つづきであって、当時の人馬による通行は、「道なき道」のようで、さぞかし難渋したことであろう。頼みの舟のルートも、このあたりは急流続きで往来には困難がつきまとう。
(続く)
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