206の1の3*◎69の2の4の1『自然と人間の歴史・世界篇』フランスの対外進出(17世紀)

2018-10-07 21:39:24 | Weblog

206の1の3*◎69の2の4の1『自然と人間の歴史・世界篇』フランスの対外進出(17世紀)

 フランスの海外への進出は、アジアにおいて、1604年にはインド会社を設立した。しかし、同社は1664年、宰相のコルベールが再建してから、やっと経営が軌道に乗るという出遅れであった。

 それでも、1674年にインド東海岸にボンディシエリ、1686年に東海岸のシャンデルナゴルを獲得する。さらに、アフリカのセネガルのほかにも、1686年にマダガスカル島を獲得する。

 新大陸では、1608年には、ケベック市の建設に着手する。1682年には、ラ・サールが五大湖からミシシッピ川流域を占領するに至る。ルイ14の名にちなんで、ルイジアナと命名する。こうしてフランスは、カナダからルイジアナまでの広大な土地を手に入れた。さらにフランスは、カリブ海に浮かぶハイチ島北半分と西インド諸島の一部をも植民地とし、そこに現地人を使っての、サトウキビやコーヒーのプランテーションを展開していく。

 (続く)

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206の1の2*◎69の2の4の1『自然と人間の歴史・世界篇』イギリスの対外進出(17世紀)

2018-10-07 21:38:41 | Weblog

206の1の2*◎69の2の4の1『自然と人間の歴史・世界篇』イギリスの対外進出(17世紀)

 イギリスはというと、1600年に東インド会社を設立した。ジャワ島のバンタムに最初の商館を設けた。依頼、ペルシア、インド、スマトラ島、モルッカ諸島、シャム、タイといったところに、基地を設け、中国にも進出する。

 1613年には、日本の平戸に商館をつくったものの、アンボイナ事件を契機に日本からは撤収を余儀なくされた。

1639年に、マドラスを獲得した。1690年に、なると、カルカッタを獲得するに至り、木綿製品、占領のインディゴ、それに硝石を手にした。

他方、新大陸のアメリカでは、 北米のヴァージニアに植民地をつくった。1620年には、ピューリタンの102名が、メイフラワー号で到着し、プリマスに上陸する。その

後急速に植民地をつくり、18世紀前半には北米大陸で13もの拠点をつくるのであった。

(続く)

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206の1の1*◎69の2の4の1『自然と人間の歴史・世界篇』オランダの対外進出(17世紀)

2018-10-07 21:37:50 | Weblog

206の1の1*◎69の2の4の1『自然と人間の歴史・世界篇』オランダの対外進出(17世紀)

 新鋭オランダはといえば、元々は、リスボンに集められた東方の物産をヨーロッパ各地に売りさばいていた。1588年にイギリスがスペインの「無敵艦隊」を破ってからは、イギリスの力が国際舞台で重きをなすようになっていく。

 スペインの衰退で空白ができたところには、別の西洋列強が進出していく。とはいっても、アジアにおいては、ポルトガルなどが至る所に進出していたから、オランダなどは「後発」の類であったに違いない。

 そのオランダは、1602年に合同東インド会社を設立し、ジャワ島のバンタムに商館を設けた。その後は、セイロン島、マラッカ、スマトラ島、モルッカ諸島に進出する。1609年には、日本の平戸にもやってきて、商館を設けた。

 1619年には、オランダは、ジャワ島のジャカルタに新市バタヴアを設立した。主な目的は、香料貿易を独占することであった。他方、1621年には、西インド会社を設立して、スリナムを植民地に組み入れる。一時はブラジル北東部を奪取したものの、アジア方面でのようには単独での進出うまくいかなかった。

1623年には、モルッカ諸島中のアンボイナ島で、イギリスの軍と衝突し、これを撃退した。1652年になると、アフリカ南端にケープ植民地を獲得した。これを中継基地としてつかいつつ、この時点で世界に相当数の橋頭保を築いたことになる。

 

(続く)


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150*◎46『自然と人間の歴史・世界篇』7~13世紀のアラブ世界(アッバース朝)

2018-10-07 18:43:57 | Weblog

150*46『自然と人間の歴史・世界篇』7~13世紀のアラブ世界(アッバース朝)

 アッバース朝(750~1258)は、イスラム教の開祖ムハンマドの叔父アッバース・イブン・アブドゥルムッタリブの子孫を世襲のカリフとする、アラブ国家である。その支配は、西はイベリア半島から東は中央アジアまで、北アフリカの一部も支配に入れていく。ウマイア朝に続く、このアッバース朝の血統だが、ウマイア家に対抗したイスラムの有力一族だといえる。ムハンマドと同じハーシム家の一族に属し、ムハンマドの叔父のアル・アッバースの血統だといわれる。ウマイア家に対する反発が強くなる中、ムハンマドの血統につながる家系としてアッバース家が台頭して来るのである。
 ともあれ、イスラム世界を統治するカリフの地位をアッバース家が奪い、今度は自分の家の中で世襲していくのである。ウマイア朝の血統は根絶されたらしい。新王朝の都は、第2代マンスールからバグダッドに定める。顧みれば、ウマイア朝の掲げる政治理念は「アラブ至上主義」であった。それが、アラブ人以外のイスラム教徒の反発を強め、また彼らの中に反体制派のシーア派が生まれ、不満が高まった。そのことを梃子として、アッバース家のクーデターが成功した、その意味を込めて、この変革を「アッバース革命」ということもある。
 アッバース朝からは、内政にも工夫が見られる。アラブ人だけに依存しない国造りを目指していく。官僚制度や法律を整備し、また税制を改革してゆく。アラブと非アラブの平等化を図り、多民族共同体国家としてのイスラム帝国の維持に努める。こうして、イラン人など非アラブ人の官僚が進出し、「アラブ帝国」ではない、真の「イスラム帝国」の段階に入っていく。
 アッバース朝の最盛期においては、中央アジアでは中国の唐帝国と接することとなり、751年にはタラス河畔の戦いでその軍隊を破った。しかし、その一方でウマイア朝の残存勢力が遠く西方のイベリア半島に自立し、756年にその地で「後ウマイア朝」を建国する。8世紀後半から9世紀にかけて、アッバース朝のカリフは「ムハンマドの後継者」よりも「神の代理人」と考えられるようになり、ハールーン=アッラシードのころ全盛期を迎えた。しかし、9世紀以降のイスラム世界は分裂の傾向を強くしていく。バグダッドでの実権は諸侯へと流れ、カリフ支配は形骸化していく。イベリア半島の後ウマイア朝に続き、エジプトのファーティマ朝が10世紀初めにカリフを称するに及んで、3人のカリフがならび立つことになる。
 946年には、首都バクダッドにおいて、イラン系の軍事政権であるブワイフ朝(932~1062)が成立する。そのことで、アッバース朝のカリフの地位さえもが名目的な存在となってしまう。1055年には、セルジューク族がバグダッドに入城してカリフを救出する。それからは、セルジューク朝のスルタンがカリフから政治権力を貰い受ける形となり、カリフは宗教的権威に限定されることになっていく。
 11世紀末の十字軍時代には、アッバース朝のカリフはバクダードの周辺を治めるだけになっていた。セルジューク朝とファーティマ朝が対立していた。それらのため、イスラム勢力は、一致して十字軍と戦うことができなかった。キリスト教勢力がパレスティナにエルサレム王国を建てることを許すにいたる。イスラム勢力の反撃を実現したサラーフ・アッディーン(サラディン)が、アイユーブ朝を建てたものの、その彼の死後は、カリフを保護する力はなくなる。13世紀に入ると、西の方からモンゴルの勢力が攻めてくる。1220~31年、モンゴル軍による最初の大規模攻撃が行われる。帝国内のいくつもの都市が破壊されていく。
 1256年、モンゴル系のイル・ハン朝が、現在のイランとイラクの地を支配するにいたる、そして迎えた1258年、モンゴル軍は首都バグダッドを攻撃する。40日間の攻防の後、首都は陥落し、破壊された。アッバース朝カリフのムスターシムは投降したものの、「皮の袋に封じ込まれ、バクダッドの大通りを疾駆する馬に引かれて、袋の中で息絶えた。」(牟田口義郎『物語中東の歴史』中公新書)とも、「一般にもっとも信じられているのは、カリフはカーペットに巻かれ、足蹴にされ踏みにじられて殺されたという説である」(D.ゴードン著、杉山正明・大島淳子訳『モンゴル帝国の歴史』1986)ともいわれる。

(続く)

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206*◎69の2の4の1『自然と人間の歴史・世界篇』オランダの発展と英蘭戦争

2018-10-07 09:29:20 | Weblog

206*69の2の4の1『自然と人間の歴史・世界篇』オランダの発展と英蘭戦争

 16世紀後半から17世紀始めにかけては、オランダとイギリスとはスペイン、ポルトガルなどのカトリックの勢力に対して協力関係をつくって対抗していた。しかし、それが1648年のウェストファリア条約での、オランダの独立の承認という形で決着すると、新たな政治状況が生まれる。
 その状況とは、17世紀後半の3次にわたるイングランドとネーデルラント連邦共和国(オランダ共和国)との戦争である。その3次とは、1回目が1652~1654年、2回目が1665~1667年、そして3回眼が1672~1674年。
 両国間がこうなるにいたるきっかけとしては、オランダ東インド会社の実力がイギリス東インド会社を上回る勢いの中、1623年のアンボイナ事件などが起こったことがある。この事件は、1623年のインドネシア東部バンダ海の小島アンボンにおいて、両国の商館間の紛争である。イギリス商館の日本人傭兵がオランダ商館の様子を調べているのに不審を抱いたオランダ商館長が、イギリスの商館長以下全員を捕らえて拷問を加えたという。
 イギリスは、当時、東南アジアや東アジアでもオランダとせり合いを演じていた。そこで退けば、宝の山の商売のチャンスから撤退せざるを得なくなるし、これまでの権益も守れなくなる。本国に近い大西洋なども心配だとかいうことで、危機感を覚えたのであろうか。1651年には、クロムウェルの指揮で航海条例が出され、オランダはイギリスとの貿易から排除される。

   そして迎えた1652年、戦いの幕が上がる。戦いの舞台は主に海の上で、ここではやはりイギリスの力の方が上まわっていた。しかし、若いオランダも負けてはいなかった。この戦争を指導したのは、ホラント州の首相ヨハン・デ・ウィットであったのだが、1672年にはイギリスとフランスの両国の挟撃により、一大ピンチに陥った。そこでオラニエ家のウィレム3世が指導することになる。オランダ軍は堤防を切って洪水を起こし、フランス軍を阻止するのに成功する。また、デ・ロイターを使って英仏艦隊を撃破する。これで勢いを増して、和平に持ち込もうとした。
 オランダは1674年にイギリスと、1678年にはフランスと和約を結ぶのに成功する。そればかりではない。立役者のウィレム3世だが、なんとイギリスから招請状を受ける。ジェームズ2世の暴政を倒す企てに加わる形でイギリスに渡り、翌年には妻メアリー(ジェームズ2世の長女)とともに国王に即位する、つまり、夫婦でもって大国イギリスの共同統治を行うことになる。これにより、オランダとイギリスとは「同君連合」の間柄となり、今度はフランスに対抗するという新たな構図となっていく。
 とはいえ、オランダのこの戦争での人的・経済的疲弊はかなりのものであった。この1652年から1674年までのながき戦いで、オランダはニューネーデルランド植民地を失った。だから、1702年にウィレム3世が死ぬと、イギリスとの関係はなくなり、またオランダ国内は不安定となる。ほぼ80年にわたる独立戦争の時からの、国内権力のもう一方の雄であるところの州の独立性が再び強力化し、その分王党派は劣勢に追いやられていくのであって、1702年から1747年にかけてのやや長い「無総督時代」を迎えるのであった。

(続く)

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204*◎69の2の2『自然と人間の歴史・世界篇』資本の本源的蓄積(イギリス)

2018-10-07 09:19:06 | Weblog

204*69の2の2『自然と人間の歴史・世界篇』資本の本源的蓄積(イギリス)

 資本制(資本主義的生産様式)にいたるには、マルクスによって「本源的蓄積」となづけられる前段の歴史的過程があった。それは、封建制の中で培われていった。その創造劇だが、期間でいうと、数世紀にも跨る。ここではまず、イギリスを舞台にそのことがどういう段階を遂げていったかを俯瞰したい。
 まず封建社会の経済構造の中核をなすものは農民であって、14世紀終わり頃のイギリス農村での彼らは、農奴制から最終的な離脱の時期を迎えていた。15世紀に入ると、イギリス農村人口の大多数は自由な自由農民(「独立自由農民」という)に成り代わっていた。もっとも、社会の上部構造としては封建領主の権力があり、その下に家臣団がおり、さらにその下に家臣団の数に相応の農民たちがいて、上にいる非労働階級を支えていたのである。
 労働者という階級(彼らは「プロレタリアート」とも言い慣わされる)の創出を引き起こす農村変革の序曲は、15世紀の最後の3分の1期及び16世紀の最初の20~30年にかけて起こった。一つは、15世紀の60~70年代から16世紀初めにかけて封建家臣団の中からこぼれ落ちるものたちが出てくる。これを、「封建家臣団の解体」と呼ぶ。これを促したのは、絶対権力の確立を目指す王権であった。
 二つは、羊毛マニュファクチュア(工場制手工業)の台頭により、これを営む封建貴族たちが農民の共同地を奪っていく。その背景には、フランドル地方を中心とする毛織物工業の繁栄による羊毛価格の騰貴があった。これに刺激された地主(ランドロード)たちが、王権や議会と頑強に対立して、それぞれの農地に領主と並ぶ封建的権利を有していた農民から暴力的にそれらの土地を奪い、また共同地を橫奪することにも血道をあげるのであった。後者の性格については、農民たちの養う家畜の放牧場であるとともに、彼らに燃料たる薪や泥炭などをも提供したものだ。
 この頃のイギリスに、こんな逸話が伝わる。政治家であり、また文筆家であったトーマス・モア(モーア)(1478~1535、後に王朝の高級官吏となるも、ヘンリー8世の離婚問題に端を発し、ローマ教皇側に配慮し王に従わなかった罪で死刑に処せられる)は、この模様をみて、著書の中でこう述べる。

「イギリスの羊です。以前は大変おとなしい、小食の動物だったそうですが、この頃では、なんでも途方もない大食いで、そのうえ荒々しくなったそうで、そのため人間さえもさかんに喰い殺しているとのことです」(トーマス・モア著、平井正穂訳「ユートピア」岩波文庫、1956)。

この比喩の後で、彼はこう続ける。
 「おかげで、国内いたるところの田地も家屋も都会も、みな喰い潰されて、見るもむざんな荒廃ぶりです。もし国内のどこかで非常に良質の、したがって高価な羊毛がとれるというところがありますと、代々の祖先や前任者の懐にはいっていた年収や所得では満足できず、また悠々と安楽な生活を送ることにも満足できない。
 その土地の貴族や紳士や、その上自他ともに許した聖職者である修道院長までが、国家の為になるどころか、とんでもない大きな害悪を及ぼすのもかまわないで、百姓たちの耕作地をとりあげてしまい、牧場としてすっかり囲ってしまうからです。」(同)
 こうした「牧羊囲い込み運動」は、もちろんのこと「美しくもめずらしい物語」などではなく、イギリスにおいて、16世紀になっても延々と続く。それというのも、ヘンリー7世による1489年の条例以来ほぼ150年に及ぶこ囲い込み禁止令の発布も、この動きの前では無力にされていったのだから。
 二つ目の過程は、16世紀における宗教改革からは、イギリスにおける旧教会領(土地)の相当部分が没収されていく。そこに居住していた者(いわゆる「世襲的小作人」)たちは、かかる土地から追い出され、無産労働大衆(プロレタリアート)の中に投げ出される。旧教会領は、王の寵臣や有力貴族、投機的な生活をあわせもつ借地農業者や都市ブルジョアジーの面々であった。さらに、教会の10分の1税の分配にあずかっていた貧しい農民たちも、かかる土地収奪の過程で蹴散らされ、はじき出されていった。
 こうした事態にもかかわらず、17世紀の最後の数十年間にはまだ、独立自営農民の数は、彼らに置き換わった借地農業者の数を少し上まわっていたのではないか。クロムウェルがその権力掌握に当たって最大の拠り所にしていたのは、その独立自営農民であったし、農村にみられた賃金労働者の中にも、共同地の共有者の地位を保ち続ける者も相当数いたのではないか。
 だが、こうしたイギリス農村の土地所有にみるまだら模様も、18世紀の最後の数十年間に、農村に残っていた共有地のほぼ全体が奪われていく。これに力のあったのが、名誉革命によるスチュアート王朝復興のさいの、法律による封建的な土地所有制度の廃止であった。国有地になった土地の相当部分は、ウィリアム3世と彼に従う地主や資本家たちが牛耳るものとなっていく。
 これら両者を関連づけていうならば、彼らは国有地を合法的に横領するとともに、その同じ国家権力によって、古代ゲルマン的な土地制度に淵源をもつ共同地をも没収することに成功したのである。すべからくこの過程は、一方において農民や農村部民を工業プロレタリアートとして土地から遊離するとともに、他方では資本借地農場とか商人借地農場と呼ばれる大借地農場を展開させるのである、

(続く)

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303*『自然と人間の歴史・世界篇』プロイセンの改革(1806~1817)

2018-10-07 09:04:44 | Weblog

303*『自然と人間の歴史・世界篇』プロイセンの改革(1806~1817)

 

 1807年、1804年に人民投票によってフランスの皇帝となっていたフランスのナポレオンは、中立を守りながらも、密貿易をおこなっていたポルトガルに大陸封鎖の遵守を要求する。これを拒否されると、スペインと協力してポルトガルを制服する。加えるに、スペインの内紛に乗じて兄ジョゼフをスペイン王に即位させる。

 このようなおり、プロイセンに改革のうねりがおきる。これより前の1806年には、ナポレオンは、バイエルンなど西南ドイツ16諸国に彼を保護者とするライン同盟を結成させていた。そして、これら諸国に神聖ローマ帝国から脱退を促す。そのため、オーストリア皇帝フランツ2世は、神聖ローマ帝国皇帝の位を辞し、神聖ローマ帝国は滅亡する。

 これらのフランスの勢力拡張に、プロイセンのゲルマンとしてのナショナリズムが起こった。ティルジットの和約によって亡国の危険を感じ取ったプロイセンは、国務大臣シュタインが中心となって、まずは1807年10月の「10月勅令」で、世襲隷民制を廃止、土地交換の自由も押し出した。一方、土地の併合を制限することによって自作農の成長を促していく。

 もっとも、シュタイン後の後継者たちにより、この政策は修正され、農民が土地の所有権を得るには、貴族である領主にその土地の2分の1ないし3分の1を割譲しなければならなかった。1808年の都市条例においては、市民の選挙によって市民自らが市会を選出することを規定するに至る。

 一方、軍制の改革も進んだ。過酷な鞭刑が廃止されたほか、それまで貴族に独占されていた将校に能力あるとみなされた者の抜擢が行われるようになっていく。1814年には、国民皆兵制が実現された。

 プロイセンでのこれらの改革は、市民・民衆の下からの力による改革ということではなかったものの、多くの国民にプロイセンを守ろうとする意識を植え付けるとともに、この国の近代化を推し進めていく。

 

(続く)

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