□133『岡山の今昔』倉敷美観地区(白壁の街)

2018-10-11 22:49:54 | Weblog

133『岡山(美作・備前・備中)の今昔』倉敷美観地区(白壁の街)

 JR倉敷駅から歩いて10分位で行けるところに、およそ江戸時代までの往時をしのばせているのが、倉敷川畔の「美観地区」や鶴形山南麓から東西にのびる「本町・東町」といった町並みである。このあたりは、古来より交通の要衝であった。高梁川の支流としての倉敷川は人造の堀川であり、児島湾に注ぐ。いつの頃からか運河として利用され、その河港には多くの商人が集まり、蔵が建ち、やがて備中地方の物資が集積していた。江戸時代ともなると、このあたりは備中の商業の中心地となった。
 このあたりの町屋や蔵を歩きながらつらつら眺め歩いてみる。すると、なかなかの風情がある。建物の見どころは、実に多彩だと教わる。識者の案内により箇条書きに並べ立てれば、大きなものでは塗り屋造りと土蔵造りが主なもの。前者は、町屋に多く見られる構造で、防火対策として隣家と接する両側面と正面2階部分の 外壁全体を白漆喰に仕上げている。また後者は、全体に土塗り白漆喰仕上げがされている構造物である。それから各々の建物にくっつけて観賞できるものがある。

まずは倉敷格子で、上下に通る親竪子(たてご)の間に細く短い子が3本入っているらしい。続いて倉敷窓といって、建物2階の正面に窓が開かれていたり、虫籠窓(むしこまど)といって窓格子が塗り込めになっていたりする。聖窓(ひじりまど)と名付けられる、塀に取り付けられた格子の入った小さな出窓もある。犬矢来(いぬやらい)とは、円弧状の反りついた割竹や細い桟木を並べた柵のことで、 矢来の語源には「入るを防ぐ」という意味があるらしい。
 さらに、なまこ壁(海鼠目地瓦張)と呼ばれる紋様が見てとれる。これは、正方形の平瓦を外壁に張り付け、目地を漆喰で盛り上げて埋める手法だとのこと。この盛り上がりの断面が半円形のナマコ形に似ているのだという。奉行窓というのは、土蔵造りの蔵の窓形式として使い、長方形の開口部 に太い塗り込めの竪子を入れている。他にも、鉢巻といって軒裏や軒、出入口土戸が、防火のため漆喰で厚く塗り込められているのが見られる。およそ、これらを全部視野に収めようとすると、それなりの時間と体力、気力がなくてはかなわないようである。

(続く)

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◻️132『岡山の今昔』瀬戸内市(牛窓町、~戦後)

2018-10-11 22:34:46 | Weblog

132『岡山の今昔』瀬戸内市(牛窓町、~戦後)

 牛窓港は、明治以後も引き続き天然の良港として小、中規模船舶の寄港地となっていたが、1961年(昭和36年)年の埋立てで港の機能を失った。その後は、ここより南のなだらかな一山越えたところにある、小規模ながらの牛窓港が主要な港となっていく。1956年(昭和31年)、錦海塩業組合が公有水面埋立てに係る免許を取得する。そして堤防を築造し、干拓工事に着手する。1962年(昭和37年)には錦海塩業株式会社が設立され、製塩事業を始める。1971年(1971年)、国の「第4次塩業整理」で、全国の塩田廃止が相次ぎ、牛島の塩田事業は「イオン交換法」による製塩へ転換したといわれる。ところで、塩田経営が厳しさを増す一方、塩田が駄目なら空港建設はどうかという話が起きたらしいが、こちらは軟弱地盤により沙汰やみとなったらしい。

 1978年(昭和53年)には、同社が塩田跡地で産業廃棄物最終処分事業を開始した。1988年(昭和63年)5月には、邑久長島大橋が完成する。2002年、同社の製塩業は廃業となる。2005年4月、岡山ブルーライン瀬戸内インターチェンジが開通する。2006年、浚渫(しゅんせつ)土砂塩田跡地基盤整備事業の開発許可(県土保全条例)がおりる。2008年には、産業廃棄物の最終処分事業の認可期限切れで同事業が廃業となる。2009年には、同社の倒産・破産手続が開始される。2010年には、瀬戸内市が錦海塩田の跡地を取得する。その宏大な区域の東、錦湾との境目は、長い堤防で仕切られている。塩田跡の西側は旧安田堤防に区切られており、また南北は東西に伸びるなだらかな丘陵地に囲まれている。なにしろ約500ヘクタールもあるところなのだが、今は、かつて東洋一といわれた塩田経営の跡形を探すのは難しい。2013年11月には、牛窓の地で「朝鮮通信使ゆかりのまち全国交流会瀬戸内大会」が盛大に開催された。

(続く)


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□131『岡山の今昔』瀬戸内市(牛窓町、~戦前)

2018-10-11 22:33:55 | Weblog

131『岡山(美作・備前・備中)の今昔』瀬戸内市(牛窓町、~戦前)

 

現在の瀬戸内市の牛窓町、邑久町そして長船町の三つの町のうち一番南に位置する牛窓については、古来多くの逸話や伝統が伝わってきている。古代の姿はどうであったのか。この地における遺跡発掘を辿ると、概ね次のように伝えられている。いわゆる「縄文海進」で海面が上昇し、私たちが今日観る瀬戸内海の海岸線が形成されると、人々はこれに沿って集落を形成し、生活を営んでいたらしい。黄島貝塚、黒島貝塚などの遺跡も残されていることから、食生活は海産物が中心であったのではないかと推測されているところだ。

続く弥生時代になると、牛窓のあたりからは稲作を営んでいたことを証する遺跡がなかなか見つからなくなっていく。これはおそらくこのあたりの平地が狭小で、傾斜地が多く、地味が痩せていたことが影響したものと考えられている。
 やがて倭(わ、やまと)の古墳時代に入ると、このあたりには前方後円墳などの古墳が数多く造営されていった。牛窓天神山古墳は4世紀半ば~後半にかけて、黒島1号墳は5世紀前半、鹿歩山古墳(かぶやまこふん)は5世紀後半、そして波歌山古墳(はかやまこふん)は5世紀末~6世紀前半、さらに二塚山古墳は6世紀後半の造立だと考えられている。

これらの古墳の多くは、当時の牛窓湾を一望できる丘陵の上に存在していたのではないか、とみられている。これに付随するにものに、古墳時代を中心に備讃瀬戸地域から出土する土器がある。こちらは製塩のために使用された土器ということであるが、とくに現在の牛窓町牛窓師楽から大量に出土していることから、「師楽式土器」と呼ぶ慣わされているとのこと。
 ところで、鎌倉時代から室町時代にかけてまでの備前南部の軍事・交通・経済の中心は福岡(ふくおか)にあった。そして牛窓は、その福岡からそう遠くない場所にある。牛窓が、その位置、その地形などから見て、上代から良港の名をほしいままにしていた。ちなみに、『続日本記』巻第15の「聖武天皇天平15年(743年)5月28日条」には、こうある。
 「備前国(きびのみちのくち)言(まう)さく、「邑久郡新羅邑久浦(おほくぐんしらきおほくのうら)に大魚(おほうお)五十二隻漂着す。長さ二丈三尺己下一丈二尺己上なり。皮薄きこと紙の如く、眼(まなこ)は米粒(いひぼ)に似たり。声鹿の鳴くが如(ごと)し。故老皆云はく、「嘗(かつ)て聞かず]といふ」とまうす。」(「新日本古典文学大系}二、岩波書店、1990、427ページ)
 この書に「邑久郡新羅邑久浦」とあるのは、現在の錦海湾の南岸にある師楽湾(しらきわん)をいい、いかにも自然の境涯そのままの土地柄であったことが窺える。なお、一丈は十尺で、約3.3メートルのこと。
 やがて安土桃山時代に入ると、備前紺浦の牛窓は、内海航路、果ては外国貿易の港としても栄えていた。またその北隣の長浜湾の尻海も、天然の良港として栄えた(なお、こちらは1961年の埋め立てで、港の機能を失う)。

宇喜多氏(うきたし)から関ヶ原の戦い後は小早川氏の支配を経て、江戸時代になり岡山に池田氏が入って岡山藩となる。岡山に城下町が作られ、福岡の商人は岡山城下に移って行った。牛窓港も、鎖国による日明・日朝貿易はあったものの、内海航路の潮待ち、風待ちの港としては維持されていく。

そして1672年にいたると、それまでの北前船(きたまえぶね)の南下ルートに加えるに、日本海から瀬戸内海経由で大坂そして江戸に至る「西回り航路」が、河村瑞賢(かわむらずいけん、1617~1699)によって開拓される。
 ここに北前船とは、江戸時代から明治時代中期にかけて、主に北陸以北の日本海沿岸の諸港から沿岸を伝って下関に至り、さらに瀬戸内海を通過して大坂や江戸などにあれこれの物資を運んでいた。荷物の内容としては、行き年貢米や、蝦夷地を含む北の国の各地からの特産物、肥料としての干鰯(ほしか、鰊(にしん)のかす)、昆布、鮭(生魚や干物)などを、そして帰りは「買積」(かいづみ)といって船頭の裁量も含め各寄港地で産物を買い入れ、帰路の船荷にして運んでいた。後者は、元来た航路を伝って帰る途中、相場を見て売りさばくもので、しばしば大きな利益を生んでいたようである。
 それからは、瀬戸内の西から南からそして東から多くの船が備前にやってくるようになった、もしくは通過する船が多くなっていく。ちなみに、この牛窓のほか、当時の備前から備中の瀬戸内海沿いの良港として、日比(ひび、現在の玉野市)、下津井(しもつい、現在は倉敷市)、玉島(現在は倉敷市)などもあって、いずれも連携を保ちつつ、物産の集散地となっていたことを忘れてはならない。
 岡山藩については、3代目の藩主・池田光政の時、新田開発に取り組んだ。東側の入江の大浦湾を埋め立てて新田にしていく、それとともにこの地域に塩田をつくっていく計画であった。最初の工事は1649年(慶安2年)に行われ、新町ができた。続いて1661年(寛文元年)には、奥之町、土手、出来島の各地区ができ、少し遅れて生田ができる。さらに1695年(元禄8年)、同藩は、牛窓港の前面に波止めの施設を造ることにし、藩主の池田綱政は津田永忠に命じた。津田は、さっそく工事の陣頭指揮に立ち、工事に取りかかってから約10か月でこれを完成させる。牛窓の西港の前海に、長さ678メートル(記録としては「373間」とある)、高さ2.7メートル(記録としては「1間半」とある)の波止めが出来上がった。築石はすべて犬島(いぬしま)の石を使ったとあるから、前々から頭の中に工事の仕置きを入れていたのであろうか。これにより、東南の風にも強くなり、牛窓の港には西国大名の御座船が相次いで旗印を翻して寄港するようになる。また、1698年(元禄11年)になると、これまた岡山藩の命をうけた津田の活躍により、日生(ひなせ)の沖合にある大多府の港も「風待ち港」として整備されていく。
 これらのうちの牛窓は、物資の集散ばかりでなく、幕府の役人や参勤交代の大名の寄港地となった。わけても朝鮮からの使節(通信使)では宿営地を担った。当時の鎖国中にあっても、朝鮮(李王朝)とは友好関係にあった。将軍の代がわりごとに、その祝賀を兼ねて朝鮮通信使が日本にやって来ていた。江戸時代、一行の牛窓港への寄港は12回にも及び、人数は通常500人近い数であったことが伝わる。

 

(続く)

 

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□130『岡山の今昔』瀬戸内市(その全体と邑久町そして長船町)

2018-10-11 22:31:29 | Weblog

130『岡山(美作・備前・備中)の今昔』瀬戸内市(その全体と邑久町そして長船町)


旅人の視界の次に見えてくるのは瀬戸内市であるが、2004年11月、この市は当時の牛窓町、邑久町そして長船町の三つの町が合併してできた。その名の通り、瀬戸の海に向かうイメージであろうが、海岸線に出て行く路線としては、赤穂線(赤穂~岡山)の鉄路が走っている。この線をひもとくと、播州赤穂(ばんしゅうあこう)、天和(てんわ)、備前福河(びぜんふくかわ)とやって来て、その次の寒河(そうご)で岡山県に入る。
 それからは、日生(ひなせ)、伊里(いり)、備前片上(びぜんかたかみ)とやって来る。ここからはやや南に進路をとって、西片上(にしかたかみ)、伊部(いんべ)、香登(かがと)、長船(おさふね)、邑久(おく)へと進む。ついでに先まで紹介しておくと、そこから更には大富(おおどみ)、西大寺(さいだいじ)、大多羅(おおだら)、東岡山(ひがしおかやま)、高島(たかしま)、西川原(にしがわら)から終着の岡山へと向かう。瀬戸内市の三つの町の位置関係は、邑久町の西隣が同市の長船町、さらにこの両町の南で瀬戸内海に面しているのが牛窓町である。
 これらのうち邑久町は、これより前の第二次世界大戦敗戦後の1952年(昭和27年)に、邑久村、福田村、今城村、豊原村、本庄村、笠加村が合併して邑久町となっている。さらに先の1889年(明治22年)の町村制施行により邑久村、福田村、今城村、本庄村、笠加村、玉津村、裳掛村が成立していた。

 長船町(おさふねちょう)には、かつて山陽道の市場として名をはせていた福岡地区がある。1371年(応安4年にして建徳2年)、九州探題として赴任した今川貞世(いまがわ)は道中記「道ゆきぶり」で福岡の印象を「家ども軒をならべて、民のかまどにぎはひつつ、まことに名にしおひたり」と記しており、南北朝時代になって山陽道が通過することでの繁栄となっていく。

1350年(観応元年・正平5年)、足利尊氏は、西国にいる息子・足利直冬の離反の鎮定のため、西下の途中、軍勢と共にこの地に40日も駐留している。1441年(嘉吉元年)には、室町幕府により備前守護に任ぜられた山名教之(やまなのりゆき)が吉井川下流の中州に福岡城を構える。

それからは、戦国末期の宇喜多直家による領国支配となる。岡山城下町の建設に伴って、当地の豪商達の多くが岡山へ移っていく。1521~28年にかけての大洪水で吉井川は町内での流路を変える。江戸時代になると、ますます多くの住民が去って福岡は衰退していく。それでも、1642年(寛永19年)、岡山藩が設定した13の在町の一つに指定され、酒造が栄えていく。
 近世から江戸時代にかけての長船を支えたのは、日本刀の刀鍛冶場と、鋳物師による鉄製の生活用具の生産地としてであった。この地は、吉井川上流地域からの砂鉄と薪炭の入手が容易なこともあり、平安時代末から刀鍛冶が起こり、多くの名工を生んだ。
 一例をあげると、天文23(1554)年、岡山県立博物館蔵で所蔵の1554年(天文23年)作、刀銘備州長船佑定(びしゅうおさふねすけさだ)の添書には、こうあるとのこと。
 「戦国時代の備前国は、わが国最大の日本刀産地として栄えた。その中心となったのが長船(瀬戸内市)を拠点とした佑定の一門で、同名を名乗る数十人規模の生産体制らより、戦国乱世の刀剣需要に応えた。本品は、その典型的な作風を示すもので、がっしりとした力強い刀身は、片手で素早く脱刀できるよう先反りとなっており、実用本位の直刀(じきば)の刀文(はもん)を焼いている。銘(表)刀銘備州長船佑定、(裏)天文二三年八月日、刀長71.5cm、反り1.9cm。」(2017年5月18日のNHKデレビにて放映)
 それでは、このような刀剣づくりは、どのようにして可能になったのであろうか。長船町の西を流れる吉井川流域には、砂鉄の地層が浮き出ている。熱源の方も、上流の熊山連峰からは良質な薪が調達できた。その刀鍛冶商売も、武家政治が終わると需要の大方が無くなり、下火になっていく。それに引換え、藺草(いぐさ)の生産は、備中程ではないながらも、続いていく。1899年(明治22年)には、飯井村、東須恵村、西須恵村が合併し美和村となる。牛文村、磯ノ上村、福里村、土師村が合併し国府村となる。服部村、長船村、八日市村、福岡村が合併し行幸村となる。戦後では、1955年(昭和30年)には美和村、国府村、行幸村が合併し長船町が発足する。

(続く)

 

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□96『岡山の今昔』備中高梁(江戸時代、領国支配)

2018-10-11 21:43:42 | Weblog

96『岡山の今昔』備中高梁(江戸時代、領国支配)

 やがて江戸時代に入ると、領国支配は大きく変わる。毛利氏の勢力が削減されたのが最大眼目であったことは、いうまでもない。1617年(元和三年)、池田長幸(いけだながゆき)が鳥取城主から移封されて、石高6万5000石の松山城主となったのが江戸期の最初の大名入りであった。同年には、山崎家治が川上郡成羽藩3万石に封ぜられる。1639年(寛永16年)、

 その山崎氏の移封により、水谷勝隆(みずたにかつたか)が成羽藩5万石の主になるも、1642年(寛永19年)に松山藩の池田氏が断絶すると、それまで成羽藩主でもあった水谷勝隆(1597~1667)が、この備中松山の城主になるというめまぐるしさであった。

 さて、同藩は、その父、勝俊が、家康が関東に入国のさいにはすでによしみを通じており、案内の役を果たした。勝隆が跡を継いでからは、父の遺領をつぎ、常陸(現在の茨城県)、下野(現在の栃木県)のうちに3万2千石を領し、下館城にいた。大阪冬の陣では、活躍したという。

 1639年(寛永16年)には、両国から離れ、備中の川上(現在の岡山県内)、播磨のみなぎ(現在の兵庫県内)の両郡のいちに、5万石を領し、備中の成羽に移される。

 この勝隆の時の1651年(慶安4年)以来、同藩たびたび内検を行って以来、たびたびこれを行っていく。1693年(元禄6年)の頃のそれは、朱印高が5万石であったのに比べ、内検高は8万6000石にも膨らんだという。1657年(明暦3年)に彼が近くの奥万田町から移築した松連寺(しょうれんじ)は、珍しく石垣の上に立つ寺院であり、他の寺とともに、城および城下町の防衛戦の一つの役割を担っていた。

 1681年(天和元年)になると、二代目藩主の水谷勝宗(みずたにかつむね)が近世城郭に大改修し、城構えを整備した。ところが、1693年(元禄6年)、3代勝美(かつよし)の末期養子となった勝晴が、その勝美の遺領を引き継ぐ前に没してしまった。このために、水谷氏は継嗣(けいし)がなくなり断絶・除封された。1695年(同8年)に、姫路藩主の本多中務大輔が幕府の命令で検地を実施した。

 その際には、「過去5年間の年貢収納高および石高を基礎に、幕府の内示高11万619石余に合致するように検地を実施した」(『角川地名大辞典・岡山県』)とあって、いかにも抜け目がない仕置きとなっている。その後しばらくは安藤・石川両氏の所領であったものの、1744年(延享元年)、伊勢亀山より板倉勝澄が5万石で入封し、譜代大名が領する。そして江戸中期から明治維新までは、徳川譜代の板倉氏の城下町としてあった。

(続く)

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□95『岡山の今昔』備中高梁(~戦国時代、領国支配をめぐって)

2018-10-11 21:40:42 | Weblog

95『岡山の今昔』備中高梁(~戦国時代、領国支配をめぐって)

 ここに最初に居城していたのは、備中の有漢郷(現在の上房郡有漢町)の地頭であった秋庭重信(あきばしげのぶ)であった。この居城、秋庭氏(あきばし)が5代続いた後の元弘年間(1331~33)には、高橋氏にとって替わり、高橋九郎左衛門宗康が城主となる。

 折しも、南北朝の動乱期の只中で、宗康は松山城の城域を大松山から小松山まで拡大し、外敵の侵入に備えた。この九郎左衛門にちなむ逸話としては、自分の名前と地名が同じなのは気に入らなかったのか、高橋改め松山と号す。

 ところが、明治になってこの松山が伊予国の松山と紛らわしいという声が上がる。一悶着(ひともんちゃく)があったのかどうかはつまびらかでないものの、結局は、前々のものとは区別する意味も込めてか、橋梁もしくは中国王朝にあった「梁」(りょう、中国語名では「リアン」)にあやかってか、梁を採用することにし、高梁(たかはし)で落ち着いたらしい。


 ここで話を戻して、さらに戦国に入っての16世紀といえば、かの応仁の乱が終わる頃には、室町幕府の権威はあらかた失墜していた、その頃の備前、備中そして美作をふくめての次の記述たるや、そのことを生々しく、こう伝える。

 「文明九年十二月十日、・・・就中天下の事、更に以て目出度き子細これ無し。近国においては近江、三乃、尾帳、遠江、三川、飛騨、能登、加賀、越前、大和、河内、此等は悉く皆御下知に応ぜず、年貢等一向進上せざる国共なり。其の外は紀州、摂州、越中、和泉、此等は国中乱るるの間、年貢等の事、是非に及ばざる者なり。
 さて公方御下知の国々は幡摩、備前、美作、備中、備後、伊勢、伊賀、淡路、四国等なり。一切御下知に応ぜず。
 守護の体(てい)、別体(べったい)においては、御下知畏(かしこ)入るの由申入れ、遵行等これを成すといえども、守護代以下在国の物、中々承引に能(あた)はざる事共なり。よって日本国は悉く以て以て御下知に応ぜざるなり」(興福寺の大乗院の尋尊による「大乗院寺社雑事記」)

 これにあるのは、「就中天下の事、更に以て目出度き子細これ無し」(現代訳は、うまく政治が行われているといったことはまったくない)に始まり、「よって日本国は悉く以て以て御下知に応ぜざるなり」(現代訳は、日本国産中においてはことごとく幕府の命令を受け入れようとしない)で締めくくるという具合にて、致し方ないといったところか。

 さても、このように歴史の流れに身を置きつつも、1533年(天文2年)、備中の猿掛城主だった庄為資が尼子氏と組んで、備中松山の覇権を握っていた上野信孝を破り備中松山城を取り込んだ。同じ頃川上郡・鶴首城や国吉城を拠点とする三村氏もまた、備中への進出の機をうかがっていた。三村氏はまた、庄氏のバックである鳥取の尼子氏(あまこし)と敵対関係にあった。そこで西の毛利氏と連絡し、この力を借りて松山城へ侵攻しこれを奪取した。

備中に拠点を得た三村氏は、その余勢をかりて1567年(永録10年)、備前藩宇喜多直家の沼城にまで足を運んでこれを攻め立てるのを繰り返していた。さらに三村家親が備前、宇喜多家攻めで美作方面に出陣中、刺客に襲われ、落命するという珍事が起こる。
 その後を継いだ子の三村元親は、よほど悔しかったのだろうか、1568年(永録11年)に弔(とむら)い合戦のため再び備前に攻め込む。一説には、総勢2万の軍勢を三手に分けて、5千を擁する宇喜多勢を撃破しようとしたのであったが、かえって地の利のある宇喜多勢に撃退されてしまう。この合戦を、「明禅寺崩れ」(みょうぜんじくずれ)と呼ぶ。

この大敗によって敗走した三村氏であったが、その後の毛利氏の援助により、松山城を拠点とし何とか勢力をつないでいく。この同じ年、三村氏に率いられた備中の軍勢が毛利氏の九州進攻に参加していた隙をつき、宇喜多直家は備中に侵攻した。備中松山城を守る庄高資や斉田城主・植木秀長などは、この時に宇喜多側に寝返った。猿掛城も奪還されることとなり、ついに備中松山城を攻撃し庄氏を追い落とした。それからは城主であった三村元親が高梁に戻って奮戦、備中松山城をようやく奪還し、同城に大幅に手を加えて要塞化するのだった。
 そして迎えた1574年(天正2年)、毛利氏の山陽道守将で元就の三男の小早川隆景が、宇喜多直家と同盟を結んだ。このため、宇喜多氏に遺恨を持つ元親は毛利氏より離反するのを余儀なくされる。あえて孤立を選んだ当主の三村元親は、叔父の三村親成とその子・親宣などの反対を押し切り、中国地方に進出の機会をうかがう織田信長と連絡するに至る。戦いの火蓋が切られると、備中松山の城ばかりでなく、臥牛山全体が要塞化される。

この城が毛利軍に包囲されて後は、内応する者が次々と現れる。明けて1575年(天正3年)には、最後まで残った家臣の説得により、元親はついに城を捨てることに決める。落ち延びていく途中で元親死んだことにより、備中松山城と三村氏の領地はついに毛利氏の支配下に編入された。この一連の戦いを、備中全体を揺るがしたという意味を込め「備中兵乱」(びっちゅうひょうらん)と呼ぶ。

(続く)

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□55『岡山の今昔』明治時代の岡山県(産業の発展、紡績業)

2018-10-11 20:48:01 | Weblog

55『岡山(美作・備前・備中)の今昔』明治時代の岡山県(産業の発展、紡績業)

 こうした全国での動きにと歩調を合わせる形で、岡山県下でも養蚕が盛んになるとともに、近代紡績の勃興もみられるようになっていく。そもそも県南地域においては、近世以降の干拓によって、塩田などの展開があったが、やがて徐々に陸地へと姿を変えていった。とはいうものの、干拓地に含まれる塩分により米作などには適さなかった。そのためもあって、一部の地域によっては、綿やイグサが栽培されるようになっていた。

   それから、時代は明治に入っての1880年(明治13年)、児島地区を拠点に岡山紡績所が設けられた。これは、旧岡山藩池田家からの士族授産資金で設立されたものである。また、1882年(明治15年)には玉島地区に玉島紡績所が開業した。こちらは、それまで備中綿の集散地であった玉島に設けられた。さらに同年、綿織物の産地である児島においても、下村紡績所が設立された。
 続いて、1888年(明治21年)には、大原孝四郞が初代社長になっての有限責任倉敷紡績所(後の倉敷紡績、さらにクラレとなっていく)が民間ベースで設立され、翌年の10月20日に、イギリス式の、当時としては最新鋭の紡績機械を導入して操業を開始した。

   その場所は倉敷代官所跡で、当時の県知事の千阪高雅の助言もあり、大原は資金の確保をねらって1891年(明治24年)に倉敷銀行を設立した。将来を見据えた儲け話に、さぞかし頭が働いたものと見える。新会社では、当時の最新技術のリング紡績機を導入し、昼夜に二交代制を敷いた。
 1893年(明治26年)時点の同紡績所の規模は、1万664錘、精紡機31台であって、その後の発展の基礎が作られた。人員の方も、1897年(明治)10月の調査によると、「倉敷の女工総数1436名、中、勤続年数1年以内のものが589名、2年目以内のものが464名で、両方あわせると70%をこえる。平均勤続年数は、約8か月であった」(岡山女性史研究会編・永瀬清子・ひろたまさき監修「近代岡山の女たち」三省堂、1987)というから、2年を越えては会社にいられないような劣悪な労働状況であったとも受け取れる。
 この紡績事業は、県南ばかりでなく、やがて勝田、真庭、赤磐などの山間地などでも盛んに行われるようになっていく。その生産のピークは皮肉にも1929年(昭和4年)の大恐慌の頃であった。北条県の津山では、養蚕を地域の産業として奨励する行政の後押しもあって、1880年(明治18年)浮田卯佐吉らによる浮田製糸工場が伏見町に立ち上がった(津山市教育委員会『わたしたちの津山の歴史』1998年刊行)。
 英田郡内においては、1897年(明治25年)に美作製糸合資会社が大原町に設立され、また大庭郡内の久世村においては、久世合資会社といった地元資本による製糸会社が立ち上がった。

さらに勝北地内においても、1898年(明治26年)、市場の竹内茂平らが「永盛製糸合資会社」(当時の勝田郡広戸村、現在の津山市広戸の農協広戸支所の敷地)を立ち上げた。この工場は、1910年(明治38年)まで市場地域にあったと伝えられている。その頃の「県下養蚕戸数は5万5496軒のうち勝田郡の養蚕戸数は5614軒、繭数量23万6384貫、価額163万2694円であり、県下22の年中第一位の順位であった(二位赤磐、三位真庭)」(勝北町誌編纂委員会『勝北町史』1991年刊行)であり、関係する農家と地域社会にとって貴重な現金収入となっていたことが覗われる。

(続く)

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