豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

秋庭太郎「永井荷風伝」、半藤一利「荷風さんの昭和」

2024年09月30日 | 本と雑誌
 
 秋庭太郎「永井荷風伝」(春陽堂書店、1976年)、半藤一利「荷風さんの昭和」(ちくま文庫、2012年、単行本は1994年)を読んだ。
 秋庭の本は、荷風伝の第一人者による評伝で、かなり詳細に荷風の人生を辿っている。荷風とは絶縁した弟威三郎側からの情報提供も多かったものと思われる。荷風は生涯弟と和解することはなかったが、威三郎は荷風の葬儀委員長を務め、墓を永井家の墓所内に建立して弔ったことなどが紹介されている。秋庭は日大の図書館長を務めた人物で、威三郎は日大農学部の教授だったというから、日大で接点があったのかもしれない。

 ぼくが本書でいちばん興味をもったのは、荷風の死後に起った佐藤春夫と中村光夫の論争の紹介であった。佐藤春夫は荷風の慶応義塾教授時代の教え子(第1期生)で、偏奇館への出入り自由が許されるほど荷風の寵愛を受けていたという。ところが日中戦争に従軍作家として同行するなどその戦争協力の言動が荷風の怒りを買って破門された。
 その佐藤が「小説永井荷風伝」を発表したところ、中村がこれを痛罵したのである。出版社の商魂にのって「小説」などと冠したことが怪しからん、評伝なら「評伝」で行くべきだ、そもそも「小説」と銘うつだけの創作性がないという趣旨だったらしい。
 これに対して、佐藤は、「荷風=エディプス・コンプレックス説」を打ち出したところが佐藤の創見であり、それが「小説」と銘うった由来であるなどと応酬した。中村は、荷風は母の危篤臨終に際しても会いに行くことなく、他方で毎年元旦には亡父の墓参りをしている、そのような荷風の生涯をエディプス・コンプレックスで説明するのは危険であると反論した。これに対して佐藤は、エディプス・コンプレックスは当人が意識しているわけではない、彼の作品に母親のことが書かれていないからといってコンプレックスがなかった証拠にはならないなどと反論している(554頁~)。
 アメリカ、フランス留学中から始まり、最晩年の玉の井通いまで変わらなかった荷風の女性関係(買春)、常人の想像を絶する色欲を思うと、エディプス・コンプレックス説もぼくには了解できない仮説ではない。むしろ荷風に好意的な仮説ではないか。佐藤の荷風伝も読んでみたくなった。

 荷風をめぐっては、もう一つ、平野謙と江藤淳との論争があったことも紹介されている。こちらは、荷風の死にざまを出発点とした論争だったらしい。
 荷風は昭和34年4月30日の未明に吐血し、背広姿のまま万年床にうつ伏せで倒れているのを、朝になってから通いのお手伝いさんに発見され、駆けつけた医師が胃潰瘍の吐血による窒息死と診断した。検死直後の写真がアサヒグラフ誌に掲載されたという(545頁)。秋庭の本書には、亡くなった際に荷風が来ていた背広が衣紋掛けに吊るされた写真が載っているが、上着の襟や前身頃のあたりに(おそらく吐血をふき取った)跡が残って白くなっているのが分かる(510頁と511頁の間)。
 川端康成が「うつぶせの亡骸の写真」に定着された死と表現した(らしい)荷風の死に方に平野かショックを受けたと書いた。これに対して江藤は、「あの醜悪な屍骸に詠嘆するとは何たることか・・・私にはそれは一個の屍骸にすぎない」といい、さらに荷風を「芸術家」としてではなく「一個の年金生活者(ランティエとルビが振ってある)、ないしは個人主義者として規定しようとした」評論を書いた(553頁~)。荷風の死に際しては、死亡それ自体ではなく、その死に方も話題になった様子である。荷風は亡くなる2か月前に浅草で発病したが、その後亡くなるまで一度も医師の診察を受けていない。秋庭はこれを「覚悟の死」ではなかったかと推測する(544頁)。ぼくもそう思う。
 先日川本さんの講演会を聞きに行った時も、フロアからの質問者が「荷風はカツ丼のどんぶりに頭を突っ込んで死んでいたというのは本当か」と質問し、川本さんがそんなことはないと回答していた。秋庭の本によると荷風は死の前日まで八幡駅前の大黒屋で菊正宗1本とカツ丼を食べた(飯す)というから、その辺りからカツ丼伝説が生まれたのだろう。

 もう1冊の本、半藤一利「荷風さんの昭和」は、前に読んだ「荷風さんの戦後」より以前に出版された本だが、「荷風さんの戦後」と同様に、荷風に対して距離を置いた位置から、冷やかな眼で観察している。
 荷風は「処女を犯したことなく、道ならぬ恋をしたこともない」旨を「日乗」で自慢(言い訳?)しているが(昭和3年12月31日付)、本間雅晴の妻(白鳩銀子、別名田村智子)と関係を持っており、この言葉には嘘があると半藤は指摘する(88頁)。ただし彼女は多情奔放な女性だったらしいから、荷風は彼女を「素人」とは考えなかったのかもしれない。
 そう言えば、荷風は「日乗」の中で、半藤の義父である松岡譲が夏目鏡子から聞き書きした「漱石の思い出」が漱石の精神病などにまで言及したことを厳しく批判していた。半藤と荷風とはそんな因縁もあったのだ。
 ただし半藤は、荷風の「日乗」の中に見られる社会批判(とくに政府や軍部軍人批判)の鋭さ、世界情勢を見きわめる慧眼ぶりを随所で指摘する。そして、荷風は新聞雑誌を一切読まなかったという「日乗」の記述に疑問を呈している。ぼくも「摘録」を読んだだけだが、荷風はけっこう新聞や雑誌に目を通していたのではないかと推測した。当時の新聞は大本営発表の垂れ流しだったから、「改造」や「世界評論」「日本評論」「セルパン」などの雑誌を読んでいないと、友人からの伝聞や世間の噂話だけではなかなかあそこまでの観察、記述は難しかったのではないかと思う。

 この本にも荷風の最期に関する記述がある。
 半藤は、荷風死去の報を受けて真っ先に荷風宅を訪れた1人だったという。当時半藤は創刊間もない週刊文春の記者で、検視がすんだ直後に駆けつけた彼は、納棺の一部始終をまじかで目撃した。そして週刊文春の昭和34年5月18日号に記事を書いている。その記事では、警察が準備した棺桶が小さかったため長身の荷風の遺体が収まらず、葬儀屋の手で「荷風の脚は折れんばかりにまげられた」という観察が記されている(11頁)。
 先日の川本さんの講演会の帰り道で、一緒に聞きに行った旧友が、「棺桶に収まらなかったので、荷風の脚を折ったという話だ」といっていたが、カツ丼伝説よりは真実に近い話だった。彼も半藤の本書を読んでいたのかもしれない。

 この本でぼくがもっとも興味をもったのは、荷風と佐藤春夫の関係を語った個所だった。半藤は雑誌記者としては荷風と交流はなかったようだが(荷風の嫌悪する菊池寛、文藝春秋の記者だったから当然か)、佐藤とは親しく接する機会があり、荷風との関係を直接聞いている。
 荷風から破門された佐藤本人が破門の理由を語った個所がある(234~6頁)。軍人嫌いの荷風は戦争協力を一切拒否して「戯作者」として暮らしたが、慶応義塾教授時代の教え子だった佐藤が従軍作家になったり、右翼壮士風の姿で皇道文学を吹聴することなどを苦々しく思い、「日乗」にも苦言を記している。
 佐藤が戦後に発表した「小説永井荷風伝」によると、2人の関係破綻が決定的になったのは、戦時中の時事新報で、佐藤が荷風を評して「祖国の風土を愛し国語の純化を努むる荷風の如きは蓋し規格外の愛国者か」と書いたことにあったらしい。荷風がもっとも嫌う「愛国者」などと評されたことに腹を立てたのであると佐藤は回顧している(235頁)。時局に無関心を装いながら、開戦当初から日中戦における日本軍の敗北を予見するなど、荷風の戦局の見立てはきわめて正確である(236頁)。
 ぼくが読んだ「摘録・断腸亭日乗(上下)」では、荷風は「愛国者」とか「非国民」といった言葉を一切用いていないかったと思う。奴隷の言葉としても「文学によって国に報いる」式のことも一切書いていない。誰かが引用した宅孝二の回想の中に、自分や荷風や菅原夫妻の集まりを「非国民」の集まりと書いているのを見たくらいである。佐藤の主観では、軍部に睨まれている恩師の風よけのつもりだったのかもしれないが、荷風を「愛国者」呼ばわりしたのでは逆鱗に触れるのもやむを得ないだろう。、

 佐藤は半藤に向かって、荷風は親しかった誰に対しても「愛のはてに憎悪しかみない」寂しい人でしたと評したという(同頁)。弟威三郎、従弟大島五叟らの親族から始まって、平井程一、小西茂也、菅原明朗夫妻、そして佐藤春夫に至るまで、一時は親しくした周囲の人々との確執のエピソードがあれこれと思い浮かぶ。
 詩人としての才能を荷風に認められたかつての愛弟子によるうえの言葉は、ぼくの腑に落ちる評言である。佐藤は荷風を「偏狂人」と書いているが(同頁)、戦争協力は論外としても、弟子にも言い分はあっただろう。

 2024年9月30日 記

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

永井荷風「断腸亭日乗(一)」

2024年09月29日 | 本と雑誌
 
 永井荷風「断腸亭日乗(一)大正6ー14年」(岩波文庫、2024年)を図書館で借りてきたが、同時に借りた吉野俊彦「断腸亭の経済学」(NHK出版)を読み始めたら面白くて、「日乗(一)」のほうは読まないうちに返却期限が来てしまった。
 この7月以来、これまでに川本三郎さんの「荷風と東京ーー『断腸亭日乗』私註」(都市出版)その他を読み、吉野「断腸亭日乗の経済学」を読んで、「観察者=見る人」荷風の様々な側面が見えてきた。

 磯田光一編「摘録・断腸亭日乗(上・下)」では省略された個所に何が書いてあるのか気にはなるが、今後毎月1冊づつ刊行されるらしい岩波文庫版の「日乗」の第2巻以下を全文を通読する気力はない。
 第1巻については、巻末の中島国彦「総解説」だけを読んで、ひとまず返却することにした。 
 第2巻以降は昭和に入るが、昭和の日記は、玉の井や銀座、浅草通いや、家計簿的な記述の部分は読みとばして、世相というか社会批判(軍人官僚警官嫌い、菊池寛田舎漢嫌い)に目を向けて荷風の昭和史を眺めることにしよう。
 それと、日付けの上に付された ○ 印、● 印に、今回の文庫版の校注者たちがどのような注釈をつけるのかも興味がある。吉野によれば、その日に性交渉があった場合が ● 印らしいが。

 形式面では、今回の岩波文庫版は、例の岩波文庫現代表記化の方針に従って随分誌面がすっきりした印象になった。しかし他方では、あの難しい旧字体の漢字に埋まって黒々とした荷風の日記の雰囲気は薄れてしまった。
 10年ほど前にサマセット・モーム「アシェンデン」の新訳(新潮文庫)を買った時には、その誌面がすかすしていたのに驚いた。その後いよいよ小さい文字を読むのが困難になったのに、今回の「日乗」は、そのすっきりしすぎた誌面が荷風らしくないと不満に思う。年寄りは天邪鬼である。
 せっかく行間を広くとった版面(はんずら=振り仮名)になったのだから、どうせならもっとルビをたくさん振ってほしかったが、ルビはほとんどない。荷風の文中に出てくる「購う」に「あがなう」と振り仮名を振った本も、「かう」と振った本もあるから、振り仮名を振るという作業は案外難しいのかもしれない。
 反漢字主義者の山本有三が編集した小学国語教科書で漢字を習いはじめ、中学校の国語教科書(光村図書)に載っていた芥川龍之介「魔術」で日本の小説に目覚め、しかし中学生になってもルビと注釈が(巻末には読書指導も)ついた偕成社版「少年少女文学全集」で漱石、鴎外などを読んでいた晩生の少年は、老年になっても漢字に苦労している。 

       
 読めない漢字をまたぞろCASIO電子辞書「漢字源」の手書き入力で調べながら読むのは煩わしい。せめて旺文社文庫版の「ふらんす物語」(上の写真)くらいにルビを振ってもらうと助かるのだが。岩波文庫の読者は、あの程度の漢字ならルビなしで読むことができるのだろうか。

 2024年9月28日 記

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

吉野俊彦「『断腸亭』の経済学」

2024年09月27日 | 本と雑誌
 
 吉野俊彦「『断腸亭』の経済学ーー荷風文学の収支決算」(NHK出版、1999年)を読んだ。
 図書館で借りてきて読み始めたのだが、内容が面白かったので古本屋で探して買ってしまった。送料込みで609円だった。定年退職後は本は増やさない方針なのだが、この本は手元に置いておきたいという思いを抑えられなかった。

 著者は日銀所属のエコノミストだが、鴎外研究などをものした著述家でもあった。しかも著者は、晩年に荷風が暮らした市川の生まれ育ちで、昭和20年代に自宅近くの八幡駅前で何度か荷風を見かけたことがあったという。さらに荷風の疎開先である岡山で勤務した経験から、同地での疎開生活の記述にも地理勘がある。
 そして、「断腸亭日乗」に見られる印税、預貯金、株式・不動産売買などの収支、日用品の価格、交通費から買春、身請けなど女性に要した出費などの詳細な記述の中に荷風の経済観念の鋭さを読み取り、昭和経済の変動をうかがう昭和経済史の第一級の資料として「断腸亭」を読み解いたのが本書である。
 大正・昭和初期、準戦時期、戦時期、戦後期の時系列で書かれているが、各時代の冒頭にその時代の経済情勢の簡潔な記述があり、高校日本史の復習にもなった(131頁金融恐慌、202頁井上デフレなど)。戦後の金融緊急措置例の経過では、戦前の預金が戦後の預金封鎖で紙切れ同然になってしまったといっていた亡父や、終戦後に大学の1か月分の非常勤手当で吉祥寺駅北口から10分、東京女子大近くの売地が買えたのに(買わなかった)という亡母の嘆きを思い出した(386頁)。

 表紙の帯に書かれた「抱いた、書いた、儲けた。」という惹句が、荷風の女性関係、文筆活動、経済生活というまさに本書の内容を要約している。
 <抱いた>について。 
 荷風の女性関係は、基本的に売買春である。著者は、その頻度や費用を「日乗」から丹念に広いあげる。昭和4年5月4日以降の「日乗」の日付欄には「●」や「○」の印がついていることがある(190頁)。岩波版第2期全集の後記にもこの印について詳細な言及があるが、その意味については説明がないという。著者は、これは荷風がその日に性交渉があったことを示す印だろうと推測する。
 荷風が関係を持った女性の氏名と関係をもった期間は荷風自身が「日乗」に列挙しているが(本書520頁以下に一覧あり)、著者は、「日乗」から「○」「●」印をすべて洗い出して、昭和4年(荷風50歳)41回(/年間)から、昭和19年(65歳)28回までを一覧表にしている(192頁)。最後にこの印がついたのは昭和32年3月18日(荷風78歳)の日記の「○」印だった(449頁)。
 そして荷風が一時期妾とした山路さん子や関根うたを身請けした際の代金がともに1000円だったことも日記に記されている(194頁)。荷風が通った玉の井(戦後は小岩や海神にも出没したらしい)などの私娼の料金は、戦時中は一晩30円だったのが(214頁)、終戦後はショート100円、泊まり400円に上昇したとある(373頁)。いずれにしても、印税だけで数億円を稼ぐ年もあった荷風にとっては痛くも痒くもない出費だっただろう。

 <書いた>について。
 荷風が書いたことについては、これまでの荷風関連書でも十分に論じられているが、著者独自の考察として、荷風の出版物の定価や部数が詳しく記録されている点がある(後の<儲けた>と重複する)。例えば大正末期から昭和初期にかけての改造社版および春陽堂版円本の対比(141、152頁)、岩波文庫に収録された荷風作品の増刷部数の一覧表などがついている(270頁)。
 「日乗」に見られる荷風の斜に構えた世相批判の指摘も随所にある。関東大震災を、それ以前の(第一次大戦)戦後の浮かれた世相に対する「天罰」であると書き(108頁)、自分の春陽堂版全集が売れるのは「世を挙げて浮華淫卑に走りし証拠」などと書いている(116頁)。戦時中に軍部が戦地の兵士の慰問用として「腕くらべ」の増刷を要求してきたことを荷風は「何等の滑稽ぞ」と記している(296頁)。

 <儲けた>について。 
 経済面では荷風は相当裕福な一生を送ったが、荷風を「ランティエ」とする見方に著者は異論を述べる。ランティエとは年金や預貯金の利息などで仕事もせずに生活できるフランスの富裕層を意味するが、荷風は確かに親から相続した不動産や預貯金、株式などを豊富に持っていた。しかし、荷風の経済基盤は相続した株や不動産の売却益などの不労所得よりも、荷風自身の文筆活動による印税収入によるほうがはるかに大きかったと著者は見る。当初は借地だった「偏奇館」敷地の買取りの経緯などでも、銀行を相手にした荷風の経済感覚の鋭さが指摘される(343頁)。
 とくに昭和初期に起った円本ブームの頃(昭和2年)の日記には、荷風の所得税額は「2万6千円以上」と書いてある(157頁)。この「所得」とは実際の収入から経費を差し引いた金額であり、当時の税務実務では文筆家は収入の50%を経費として控除することが認められていたから、実際の収入は倍の5万円以上あったはずで、その額は現在の貨幣価値に換算すると数億円に上ったという。荷風は相続した余丁町の不動産売却や株への投資などでも儲けているが、その経済基盤はけっして「ランティエ」のようなものではなかった(401頁)。
 ただし、晩年の荷風は文化勲章による年金と、芸術院会員としての俸給が支給されることを楽しみにしており、昭和27年12月16日の文化勲章年金証書受領の記事から、亡くなる1か月前の昭和34年4月2日の「年金45万円受取」まで毎年年金受領の記事があるから(477頁~)、晩年の荷風は「ランティエ」といっても差し支えないだろう。

 そして、本書最終章「荷風とケインズ」では、著者は、恩師中山伊知郎のエッセイを引用する。中山は、経済学者にとどまらず企業家、投資家でもあり巨万の財産を有したケインズと、(当時の作家の中では富裕層とみられた)荷風との共通点を指摘する。それは二人の蓄財の目的である。
 中山によれば、2人の蓄財に共通していた目的は、「いやな仕事をしないための自由」「一切の世間的な付合いを絶って勝手に生活できる自由」の確保であった。そのためには金なしで生きる生活もありうるが、2人はこの自由を得るために金銭的に備えた点で共通するというのである(517頁)。
 著者も中山の説に共感し、荷風が(残高2000万円以上ある)預金通帳を常に持ち歩いていて紛失したり(新聞記事になった)、亡くなった際の枕元にも通帳入りのバッグが置いてあったことを揶揄する意見があったが、これらのエピソードは 荷風の精神的自由を象徴するものであったとして本書を結んでいる。
 
 最後に今回も、miscellaneous な話題をいくつか。
 まず驚いたのは、戦前の荷風が長年住んだ麻布の「偏奇館」に「ペンキ館」とルビが振ってあったことである(15頁)。どこかに荷風自身が、ペンキ塗りの建物なので「ペンキ館」と呼んだことが紹介してあった。「へんき館」だとばかり思っていた。
 つぎに、売春防止法以前の売買春に関して、誰も解説してくれないので分からなかったことを知ることができた。
 売買春が行われる場所である「待合」「料亭」そして「芸者家」(芸者置屋?)を「三業」といい(「自宅」「別宅」の場合もある)、待合は場所を提供するが賄い施設はもたず、食事はすし屋などから出前を取るが、料亭は自前の賄い施設をもっているという違いがあること、芸者を呼ぶ場合には芸者家ではなく検番を経由しなければならないことが説明してあった(85頁)。
 それらの場所にやってくる女性のうち、芸を売るのが芸妓(体を売る場合もある)、体を売るのが娼妓だが、その他にカフェ女給、素人もいた(81頁)。娼妓は、公認されているが性病検査などの義務がある公娼と、非公認の私娼に分かれる。実際には私娼も黙認されていたが、時おり抜打ちの取締り(臨検)があった。「ひかげの花」はそのような私娼がモデルである(229頁)。
 著者の説明で、荷風「濹東綺譚」や「日乗」の背景はかなり理解できた。

 荷風の慧眼ぶりを示す例として、中央公論社版全集刊行の経緯がある。岩波と中公がともに全集刊行の申し込みをして競い合ったが、結局中公での刊行が昭和15年11月に決まり、中公は5万円の手付けを支払っている。驚くのはその契約書で、中公側は刊行開始時期を「昭和20年12月1日以降」と明記しているのである(274頁~)。まるで4年後の昭和20年8月の終戦を見越したような日程である。
 しかも、実際に終戦になった翌日の8月16日に、荷風は中央公論社長の嶋中雄作宛てに手紙を出しており(367頁)、さっそく嶋中は熱海に疎開中の荷風を訪ねている。おそらく全集についての話合いであろう。その後、中公の内紛(林達夫氏が退社した!)、社長の急死などもあったが(428頁)、中公版全集は完結した。
 戦後の荷風は寡作で、見るべき作品もないが、著者はその理由として、心身(色欲)の衰えのほか、「荷風全集」の刊行に集中したことを指摘している。「日乗」の記述も、昭和24年のドッジラインによるインフレの終息以降は経済生活の記述は姿を消し、経済史的資料としての価値は消滅したとする(472頁)。

 戦後になって市川に荷風を訪ねてきたかつての愛妾関根うたへの荷風の対応はきわめて冷淡である(500頁)。これも荷風の「いやな世間と付き合わない自由」の行使なのだろうか。映画「放浪記」のラストに、戦後に売れっ子作家になった林芙美子のもとに金を無心に来る親戚や慈善団体を林が追い返す場面があったが、あのような事情でもあったのだろうか。

 2024年9月27日 記

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「小津安二郎は生きている」(NHK・ETV特集)

2024年09月22日 | テレビ&ポップス
 
 夕べ(9月21日、土曜)夜の11時ころからNHK、Eテレ(2ch)で、「生誕120年、没後60年ーー小津安二郎は生きている」という番組をやっていた。チャンネルをカチャカチャしていて気がついて、途中から見た。
 小津の没後60年は2023年だから、去年放送された番組の再放送なのだろうか。12月12日が誕生日にして亡くなった日だから、2024年に入ってからの放映かもしれない。

 平山周吉という大胆なペンネームの作家が、小津と山中貞雄の交流、小津映画にみられる小津の山中に対するオマージュというか追憶を指摘していた。
 「麦秋」の麦は小津の戦友たちの象徴で、この映画が戦死していった戦友たちの追憶であることは、小津が戦地で火野葦平「麦と兵隊」を読んでいたことも含めて誰かが指摘していたのを以前に読んだ。ひょっとすると、平山の指摘だったかもしれない。「麦と兵隊」のことは二本柳寛(ということは小津自身)が画面の中でも語っている。

 平山の創見と思われたのは、「晩春」における「壺」の解釈である。
 父親(笠智衆)と嫁ぐ直前の娘(原節子)が二人で京都旅行をする。そもそも京都を舞台にしたこと、そして龍安寺の石庭を前にして笠が三島雅夫(旧友だったか? その妻が坪内美子だったはず)と語るシーンも山中への追憶だという。駆け出しの頃に山中は龍安寺(xx院、聞き漏らした)で暮らしていた時期があったという。
 父娘が床を並べたその部屋の背景に置かれた壺が数秒間映されるシーンがある。この壺が山中貞雄「丹下左膳 百万両の壺」の壺だと平山は解釈する。デジタルリマスター版(?)の鮮明な画像だったが、この場面の原の寝顔がなまめかしすぎて、これまで安いDVDの粗い画像で見てきた「晩春」のイメージが崩れてしまった。笠の鼾の音もあんなに大きかったとは! 壺は女性器の象徴で、あの場面は近親愛を描いているという誰かの解釈を以前に読んだことがある。その時は、「そこまでの解釈は・・・」と思ったのだが、昨夜の原の表情を見ると、そのような解釈も可能かと思えた。

 「東京物語」のラストシーンで、尾道の笠の家の庭先に咲いていた赤い鶏頭の花が画面前面に置かれていたのも山中への追憶だと言っていたように思うが、その理由は忘れてしまった。※後で調べると、生前の山中が小津の家を訪問した際に、庭先に咲いていた鶏頭を褒めたことの記憶だった。しかも山中の命日は9月17日だというから、昨夜の再放送は山中の追悼番組だったのかもしれない。
 原節子が映画デビューしたのは、山中監督の「河内山宗俊」という映画だったというのも知らなかった。15歳だったという。ヴィム・ベンダース監督が、小津は原を愛していたと語っていたが、小津が原と結婚しなかったのも、原を見い出した山中との友情を優先したからだろうか。

 2024年9月22日 記

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

紀田順一郎「日記の虚実」

2024年09月16日 | 本と雑誌
 
 紀田順一郎「日記の虚実」(ちくま文庫、1995年。元は新潮社、1988年)を読んだ。
 川本三郎「ミステリと東京」の紀田の紹介欄でこの本の存在を知って、さっそく図書館で借りてきた。永井荷風「断腸亭日乗」が取り上げられているのではないかと期待したのだが、期待通り載っていた。しかもかなり荷風に対して辛口の評価である。荷風「日乗」を客観的に読むうえでも役立ちそうである。

 紀田によれば、本書が刊行された1988年頃、わが出版界で「日記ブーム」が起きたという。一般に作家の日記は文学評論の対象として作品論が展開されてきたが、紀田は、日記は「日記論」ないし「日記研究」の視点から検討する必要があるとして、本書を書いたという(263頁~、296頁)。
 作者はなぜ日記を書いたのか(動機)、日記に何を書いたのか(内容)、その日記は記録なのか、創作なのか、内容の真偽はどのように確定するかなど、「日記」は「日記」という形態の特殊性から解読する必要がある。紀田は、日記を書く動機として、わが国の学校での日記教育(大宅壮一「青春日記」など)、海外生活の経験(荷風「日乗」など)、人生の展開、転機など(徳富蘆花、竹久夢二の日記など)があるという。
 最初は荷風「日乗」の章だけを読むつもりだったが、面白かったのでついついほぼ全部を読んでしまった。

 その日記が公開を予定して書かれたのか、公開を予定ていなかったかも重要である。
 樋口一葉は公開を予定していなかったが、一葉の没後に妹が添削を加えて発表したことが明らかになっている。
 紀田は「一葉処女説」論争に最大の関心を寄せる(そんな論争があったとは!)。一葉は小説の師匠である半井桃水と観想家久佐賀義孝という二人の男と交渉があった。半井との間には性的な関係はなかったとするのが通説のようだが、久佐賀との関係は日記からは明らかでない。紀田は、経済的に苦境にあった一葉が久佐賀から60円(現在の金額で180万円くらい)の借金をした以降の8か月間に及ぶ日記が欠けていることに注目する。この間は一葉が日記を書かなかったのではなく、久佐賀との間の微妙な内容が書いてあったので妹が抹消したのではないかと推測する(46頁)。
 この論争には、塩田良平、吉田精一など、ぼくが高校大学受験の頃の国語参考書や辞典の著者、監修者として名前を知った人たちが登場する。荷風も、一葉は桃水の妾だったという説を和田芳恵に吹聴した人物として登場する(56頁)。

 紀田の「後書き」は、本書で取り上げた日記の中で永井荷風「断腸亭日乗」をもっとも愛着を抱いてきたと書く(296頁)。しかし本文中の記述は「断腸亭」の「虚実」に集中する。
 荷風は佐藤春夫の門弟だった平井程一を気に入って懇意にしていた時期があった。最初の荷風全集が岩波書店ではなく中央公論社から刊行されることになったのも、平井と中公嘱託社員猪場毅の貢献があったからだという(101頁)。
 しかし、平井が荷風の偽書を作ったことをきっかけに両者の関係は断絶する。荷風は「日乗」の中で平井を批判しただけでなく、平井をモデルにした「来訪者」という小説まで執筆して、平井と思しき人物を「淫蕩」「強慾冷酷」な人間などと扱き下ろしているという(106頁~)。
 戦後になって、紀田は平井やその愛人(?)と面談する機会があったが、到底荷風が描いたような人間には思えなかったという(戦後の平井は荷風を「色の聖」と評したという)。荷風がそこまで平井を憎んだ理由は、平井の偽書の中に「四畳半襖の下張」が含まれており、これが官憲の目に入って自分が追及されることを恐れたためではないかと推測する(115頁~)。荷風「日乗」はこのことにまったく触れていないが、まさに書かないことによる「日記」の「虚」を示す一例である。紀田は偏奇館焼失によって「日乗」は終わっていると評する(117頁)。

 徳富蘆花の日記は、家族制度の下で自分を抑圧した父親の臨終に際して、葬儀に出席しない決意をした時から書き始められている(70頁~)。人生の転機である。日記には、父親や兄蘇峰に対する蘆花の憎しみ、同志社時代の一歳年下の女性(新島襄の姪)や同居人琴に対する思いなどがつづられている(63頁)。蘆花の妻は夫の女性関係を憎み、お互いに相手の日記を盗み読むかと思えば(79頁)、夫婦間の交合を書き残すなど(85頁)、微妙な愛憎関係が記されている。
 40年以上前に蘆花公園で、蘆花の生存時のままに保存された居室を見たが、刺繍の施された色褪せた洋式寝台のベッドカバーが印象的だった。あれがこの日記に記された愛憎劇の現場だったのだろうか。
 岸田劉生の日記は、従来からも指摘されていることのようだが、遺伝的な精神疾患や、身体的な異常への劉生の恐れが底流に読み取れるという(136頁~)。それが麗子像の変遷にも反映されているという。
 竹久夢二の日記は、博文館から立派な日記帳をもらったので書き始めたということだが、内容は、荒畑寒村を介して幸徳秋水の大逆事件に関与した嫌疑をかけられ、警察から常に監視されつづけたことによる不安が底流にあったという(156頁~)。夢二の描く絵や商業的な成功とは裏腹に、日記に記された彼の内面はかなり不安定だったらしい。大逆事件という冤罪の捏造は幸徳秋水らの生命だけでなく、荷風や夢二にまで影響していたのだ。

 野上彌生子の日記には、中勘助に対する終生変わることのなかった思い(182頁)、自分の留守中に岩波茂雄が訪ねてきたというだけで嫉妬する嫉妬深い夫豊一郎に対する不満(息子素一よりもフランス語会話力がなかったなどと夫を詰る記述もある。187頁)、志賀直哉、芥川龍之介、武者小路実篤、与謝野晶子、平塚雷鳥、宮本百合子らに対する強い反感、否定感情などが書かれている(193頁)。辛気臭そうで読む気にもならなかった野上彌生子の日記だが、意外に人間臭い内容もあるようだ。しかし読みたいとは思わない。
 古川ロッパは、ぼくはその名前を目にしたことがあるだけで、どんな人物かどんな演劇だったのかはまったく知らなかった(声帯模写の始祖だったらしい)。日記よりも、ロッパが自由民権論者から国権主義者に転向した加藤弘之の孫であり、浜尾四郎の弟であるという素性にびっくりした(242頁)。加藤は嫡子一人だけを自ら養育し他の子たちはすべて養子に出したという。養子に出されたロッパは早稲田を中退し小林一三に見出されてデビューするが、座付作者にすぎなかった菊田一夫がやがて脚光を浴びるようになると、彼に対する軽蔑と嫉妬をあらわにする(255頁)。「所詮は百姓」などと侮蔑的な言葉を浴びせる(257頁)。
 日中戦争、太平洋戦争中の日記の代表として伊藤整の日記が取り上げられているが、この時期の作家の日記はとくに「虚実」が怪しいので、読みとばした。引用された中では高見順の日記がもっとも率直な印象を受けたが・・・。
 ぼくが読んだ戦争中の日記では山田風太郎「戦中派不戦日記」(講談社文庫、1973年)が一番印象深い。引っ張り出してみると、「日記は自分との対話だ」というが、年齢相応の青臭さや噴飯物の観察や意見もある、とくに自分でも閉口するのは「妙に小説がかった書き方をした部分である」と書いている(529頁「あとがき」)。そして小学校の同級生34人中14人が戦死したという現実の前にはこの日記の空しさを感じると書き、「人は変わらない。そしておそらく人間のひき起こすことも」と結んでいる(531頁)。

 本人が日記の公開を予定していたか否かに拘わらず、今日公開されている日記を読むわれわれの側に、他人の日記を「盗み見る」楽しみがあるのは間違いないだろう(香山リカの解説は「スリルや興奮」という)。本書で紹介された、樋口一葉の支援男性との関係、徳富蘆花の蘇峰に対する憎しみ、永井荷風と平井程一の絶縁をめぐる虚実、岸田劉生、竹久夢二らの内心の悩み、野上彌生子、古川ロッパのライバルに対する敵愾心など、いずれも他人の日記を合法的に「覗き見」る面白さがなかったと言ったら嘘になるだろう。
 紀田は、日本人の日記の特徴として天候に関する記述が多いことと、俳諧的であることを指摘する(289頁~)。内容の真偽、虚実はともかく、荷風の「日乗」の気候描写がその日の荷風の心象までを表わしており、その漢文調の流麗で簡潔なな文章は漢詩の訓み下し文を読んでいるような印象だったことが想起される(ただしぼくの知っている漢詩は教科書に載っていた李白、杜甫、孟浩然などごくわずかだが)。

 ぼく自身は、1964年(中学3年生)から3年間は旺文社の「学生日記」で、その後の約10年間は大学ノートに日記を書きつづけた。1974年に編集者になってからは出版団体が毎年発行する小型の「Books」という日程表に日々の予定や出来事をメモに取り、教員になってからは所属大学が発行する日程表に日々の予定や行動をメモしてきた。
 ぼくが日記を書き始めた動機は、旺文社の学習雑誌の広告を見たからだと思うが、その後の大学ノート時代は、思春期・青年期の自分を老後になってからもう一人の自分がふり返る楽しみ、ノスタルジックな回顧趣味のためだった(紀田も、日記には後から自省したり回顧する意味があるという。282頁ほか)。
 日記を書いてきた唯一の実益は、大学を定年退職する際に学内紀要に「業績目録」というものを掲載してもらう際の資料として大いに役立ったことである。大した「業績」もなかったが、教員時代の「自分史」を作るつもりで30年弱の日記(日程帳)を全頁読み返して、「業績」といえるかどうか分からないが、教師(その前の編集者)としての活動を洗いざらい列挙した。
 この「豆豆先生」は2006年から書き始めたが、2020年の定年退職後はこの「豆豆先生」だけが唯一の「日記」になってしまった。いやいや、「お薬手帳」と「血圧手帳」もあったか。

 2024年9月16日 記

 ※ 参考文献欄(300頁)の「秋葉太郎」は「秋庭太郎」の誤り。
 

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

川本三郎「ミステリと東京」

2024年09月14日 | 本と雑誌
 
 川本三郎「ミステリと東京」(平凡社、2007年)を読んだ。
 ミステリー小説のたんなる舞台や背景としての東京ではなく、その小説のテーマにもなっている「東京」に着目して読み解く評論集である。「ミステリー小説に現われた昭和の東京」といった内容だが、時系列にはなっていない。
 興味のある作家と作品だけをつまみ食いで読んだ。取り上げられる小説でぼくが読んだのは宮部みゆき「理由」と、広瀬正「マイナス・ゼロ」、松本清張「張込み」、その他数冊しかなかった。

 島田荘司「火刑都市」には、明治初年から22年頃の東京を、たんなる江戸の延長ではなく、しかし病める近代東京でもない幸せな時間だったとする小木新造「東亰時代」(NHK出版、1980年)論に依拠した記述があるらしい。明治 6年九州生れのぼくの祖父は、戦後になってからも東京を「東亰」(とうけい)と言っており、語頭にアクセントを置いて発音していたと亡母から聞いた。高校の同級生に小木さんの縁者がいたので、「東亰時代」が出版された時にはその旧友を思い出した。
 宮部みゆき「理由」は、深川生まれで「下町っ子」を自称する宮部が描く下町小説。川本さんは東京は東東京が中心の「水の都」だったというが、宮部は江東を「ゼロメートル地帯」という。ぼくの印象でも下町は大雨のたびに浸水が報道される浸水地帯だった。
 桐野夏生「水の眠り 灰の夢」は、所謂「草加次郎」事件を下敷きにしている。昭和38年頃から始まった連続爆破事件の犯人が自らを「草加次郎」と称したのだが、中学生だったぼくは、いつどこで電車の網棚に爆弾が仕掛けてあるかわからないという恐怖心を抱いた覚えがある。草加次郎は鰐淵晴子にも脅迫状を送ったという(105頁)。
 昭和30年代の千駄ヶ谷は「旅館」(ラブホテル)の並ぶ町だったと川本さんは書くが(110頁)、ぼくが信濃町の出版社に勤めていた昭和50年代になっても、千駄ヶ谷駅北口と新宿御苑の間にはその手の「旅館」がまだ残っていた。湯島辺りのその手の旅館とは違って、千駄ヶ谷の旅館は本当に「ご商談」をする人でも利用できそうな隠れ家風の旅館だった。川本さんは、「出張校正」という言葉は「今や死語か」と書いている(98頁)。出張校正が死語とは・・・。1974年から9年間、毎月末の数日間を板橋小豆沢の凸版印刷で過ごしたあの日々を何といえばよいのか。

 広瀬正「マイナス・ゼロ」は、わがブログ「豆豆先生の研究室」の出発点となった小説である。
 本書に出てくるタイム・マシンのあった場所は、何と、ぼくが生まれた世田谷豪徳寺(玉電山下)の隣りの梅ヶ丘なのである。ぼくは梅ヶ丘駅北口の根津山(根津家の所有する山だったのでそう呼ばれていたのだろう。戦争中は斎藤茂吉の青山脳病院が疎開していたと北杜夫のエッセイに書いてあった。最近は羽根木公園というらしい)にしょっちゅう遊びに行ったが、おっちょこちょいだったぼくがそこでこのタイム・マシンに乗ってしまった可能性は否定できない。
 昭和20年5月25日に東京山の手を襲った空襲のことも出てくる(127頁)。世田谷も被災したこの空襲の思い出は父母からよく聞かされた。当時わが一家が住んでいた松原の家は幸い被害を免れたが、四谷軒牧場の近くに撃墜されたB29が落ちたのを見に行ったという。パイロットはまだあどけなさの残る少年のような死に顔だったと母が言っていた。1945年5月に世田谷の松原(赤堤)で生涯を終えたアメリカ青年がいたのである。
 川本さんは荷風を「ノスタルジーの作家」と性格づけていたが、本書では、この小説も広瀬の東京へのスタルジーが強く表れているといい(134頁)、タイムマシンはSF小説というより「ノスタルジー」小説であると結んでいる(139頁)。ぼくもそう思う。タイムマシンだけでなく、「時をかける少女」や「謎の転校生」なども、ノスタルジックなSFである。
 ぼくのこのブログは「気ままな “nostalgic journey” です」とサブタイトルをつけてあるが、玉電山下や軽井沢の思い出を書いたものだけでなく、読んだ本や見た映画の感想を書いたものも、いつの間にか失われた過去を懐かしむ気持ちがにじみ出てしまう。

 小杉健治「土俵を走る殺意」は、東京オリンピックの頃に集団就職で秋田県から上京してきた3人の若者が主人公。彼らが休日に見に行った「成人映画」(後に「ピンク映画」と呼ばれるようになる)の第1作が香取環(懐かしい!)主演の「肉体市場」(1962年)だったと川本さんの薀蓄が聞ける。主人公の一人は相撲取りになるのだが、折から秋場所の最中、大学卒の力士や相撲名門高校出身の力士がずらりと並ぶ番付は隔世の感がある。中卒で入門したという熱海富士でも応援するか。※と書いたら、念力が通じたのか、この日(9月14日)の取組で熱海富士は翔猿に快勝した。
 小杉「灰の男」は、向島生まれの小杉による東京大空襲の被害者に対する鎮魂歌。

 久生十蘭「魔都」は戦前(1937年)の作品。「魔都」東京の地下は、張りめぐらされた地下水道の「迷路」(ラビリンス)になっている(294頁)。東京の下水道は、明治か大正の時代に、東京でコレラか赤痢が流行した際に皇居を感染から守るために整備されたと、学生時代に柴田徳衛さんの「現代都市論」で聞いた。地下の迷宮といえば森達也「千代田区一番一号のラビリンス 」(現代書館)を思い出す。あれも久生を参考にしたのだろうか。

 紀田順一郎「古本屋探偵の事件簿」は神田神保町が舞台。ガラス張りのエレベーターの古書センターのビニ本屋(!)の向かいに開業した小さな古書店主が主人公(355頁~)。紀田には「日記の虚実」という著書もあるらしい。荷風「断腸亭日乗」の虚実も出てくるのだろうか。※出てくる!
 逢坂剛は「カディスの赤い星」だけ読んだ。ヘミングウェイ「誰がために鐘は鳴る」から始まって、斉藤孝「スペイン戦争」(中公新書)、石垣綾子「オリーブの墓標」(立風書房)など、「スペイン内戦」はかつてのぼくの関心領域の一つだった。当時5歳だった息子がこの本の背表紙を見て「カディスの赤い星」とたどたどしい文字でなぞって書いたので、とくに印象に残っている。
 逢坂は駿河台下にあった中大法学部の卒業で、神保町に近いので博報堂に入社したそうだ(375頁)。文化学院、駿台予備校、山の上ホテル、カザルスホール(かつては主婦の友社!)から、天ぷらの「いもや」(小豆島のかどやごま油の揚がる匂いが店内に漂っていた)まで、懐かしい場所が出てくる。ぼくは一度だけ神保町のどこかの古書店に入っていく逢坂の姿を見かけたことがある。散歩日和の昼下がりだった。

 その他いくつか。
 藤原伊織の中で、新宿紀伊國屋書店の改築の話が出てくる(346頁)。東京オリンピックの頃だったらしい。ぼくは改築前の建物が取り壊されて更地になっていた時にその前を通ったことがあった。土の色が妙に濃いこげ茶色だったのが印象的だった。改築後の紀伊國屋の2階のレコード店から聞こえてくる音楽のエピソードは川本さんの他の本でも読んだが、ぼくは紀伊國屋というと、エスカレーターで2階に上がるといつもリンガフォンが宣伝のために流していた英会話テープの音声が聞こえてきたのを思い出す。リンガフォンは今でもあるのだろうか。
 藤村正太「孤独なアスファルト」は、東京オリンピック前夜の吉祥寺、井の頭公園が出てくるらしい。
 髙村薫「照柿」の舞台は拝島、福生あたりである(410頁)。昨年来旧交を温めている高校時代の友人の本拠地が福生なので、二度訪問して横田基地周辺から東福生まで歩いたので多少の地理勘がある。
 中井英夫には「黒鳥館戦後日記 西荻窪の青春」という著書があるらしい(424頁)。「西荻窪の青春」というサブタイトルは胸に刺さる。
 本書のどこかに、典厩五郎なる著者の「名探偵大杉栄の正月」というのが挙がっていた。山田風太郎の明治伝奇物のような内容だろうか。ちょっと興味をひかれたが読む時間はないだろう。

 結びは松本清張で。
 松本清張の原作を映画化した「張込み」に関して、石炭ストーブの話題が出てくる(446頁)。川本さんの杉並第一小学校は石炭ストーブだったと書いているが、ぼくも小学校、中学校ともに石炭ストーブだった。この辺は川本さんと「同時代」を生きている。ちなみに映画の「張込み」のロケ地は祖父が生まれた佐賀だった。
 松本は上京して最初に練馬区の関町に住み、やがて上石神井に転居したので、西武線沿線の練馬区や豊島区がよく出てくるという(449頁)。そう言えば、石神井公園内にある練馬区郷土館(?)に地元ゆかりの有名人として松本清張の名が出ていた。
 松本の「歪んだ複写」には調布の深大寺が出てくるらしい。「波の塔」で検事が人妻と密会する場所も深大寺だそうだ(466頁)。軽井沢在住作家たちが作品の中で密会場所として小瀬温泉を選ぶようなものか。映画化された「波の塔」には深大寺ロケのシーンが登場するという。深大寺周辺もその後宅地化が進み、武蔵野の面影はかなり失われてしまった。あそこの蕎麦屋さんの姪がゼミ生にいた。

 今回も川本さんの読書量に圧倒された。
 しかし、やっぱりぼくは西東京(旧田無市には非ず)が舞台でないと気持ちが入らないようだ。

 2024年9月14日 記

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

半藤一利「荷風さんの戦後」

2024年09月13日 | 本と雑誌
 
 半藤一利「荷風さんの戦後」(筑摩書房、2006年)を読んだ。
 川本三郎さんとは違った角度から見た永井荷風の違う側面を知りたいと思ったのだが、それなら荷風の天敵菊池寛の創業した文藝春秋の編集者だった半藤の書いたものがふさわしいのではないか。
 半藤は自らを「歴史探偵」と称するが、「傍観者」といいながら軍人や軍国主義者に対する反感、憎悪の感情(「田舎漢」!)をあからさまに日記に記した荷風が、戦後の日本社会に対してどのような関心を持っていたかに興味があったので、半藤の本書も面白く読んだ。半藤の書いたものを読むのは今回が初めてだが、もっと硬い文章を書くのかと思っていたので、江戸っ子風の文体は意外だった。
 半藤は、「断腸亭日乗」の中から、荷風の好色さ(「日乗」の日付の上に付けた「○」だの「●」だのという印はその日の性的事項の有無を暗示するものだそうだ)、勘定高さ、吝嗇ぶりを示すエピソードなどを紹介するだけでなく、「日乗」には戦後史の何が書いてあり、何が書かれなかったかを検討し、さらには「日乗」以外の文献から「日乗」には書かれなかった荷風の戦後の言動を紹介する。

 川本さんの描く荷風には、「東京」の「風景」を発見した「見る人」としての荷風、江戸情緒と近代人の二面性を持つ「明治の児」としての荷風に対する川本さんの敬愛の念がにじみ出ているのに対して、半藤の描く荷風には、好色で奇行の目立つ老作家荷風に対する皮肉で冷ややかな視線が感じられる。荷風のことをしばしば「爺さん」と揶揄的に呼んだりもする。
 ただし半藤も、戦後間もなくの学生時代に中公版「荷風全集」の「日乗」で読んだ「時流に流されぬ堅固な姿勢と、日記を書き続けるゆるぎない筆力と、流暢な、あまりの名文に」は舌を巻いたのであり、敗戦後の物資不足の折に「断腸亭日乗」を含む「荷風全集」を刊行した中央公論社への感謝を記している(157頁)。
 本書の著者は川本さんとはそりが合わないのだろう、川本さんの浩瀚な著書「荷風と東京」はまったく引用されることなく(参考文献欄にも載っていない)、わずかに市川時代の荷風の日常生活を支援した青年に関する川本さんの随筆を引用するだけである(164頁)。 

 「摘録・断腸亭日乗」(岩波文庫)を読んだときに、ぼくは荷風は昭和天皇のことをどう思っていたのかということが気になった。とくに難波大助事件の伏字と13行だったかの削除部分に何が書いてあったのかが気になった。本書でもその回答は得られなかったが、昭和20年の天皇とマッカーサーの会見の写真が新聞紙に掲載されたことに対する荷風の感想が記されている。
 荷風は、「余は別に世の所謂愛国者と云う者にもあらず、また米国崇拝者」でもないが、「日本の天子が米国の陣営に微行して和を請い罪を謝するが如き」ことがあるとは思わなかった、幕府瓦解の際に慶喜がとった態度は今日の陛下よりはるかに名誉あるものだった、これに反して、昭和の軍人官吏の中には勝海舟に比すべき良臣がいなかったと書いている(9月28日)。
 「荷風は、思いもかけぬ天皇好きであったのだろうか」と半藤は評しているが(46頁)、ぼくは必ずしも「思いもかけぬ」とは思わなかったが、戦前の「日乗」もきちんと読まなければ判断はできない。

 「摘録・断腸亭日乗」(したがって岩波全集版「断腸亭日乗」)の昭和22年5月3日の項は、「米人の作りし日本新憲法今日より実施の由。笑ふべし」となっている。おそらくこれが「日記」の原文なのだろうが、昭和31年に発表された「葛飾こよみ 荷風戦後日暦」の同日の項では「日本新憲法今日より実施の由なり」と書き改めていたという(105頁)。
 ぼくは「摘録・断腸亭日乗」を読んだとき、この「笑うべし」の真意が何だったのかに引っかかった。つい先日までは「鬼畜英米」とか言っていた連中が、手のひらを返すようにアメリカ人におもねる姿を笑ったのか、それともアメリカ嫌いの荷風であったから、アメリカ人の作った憲法を笑ったのか。
 それでは昭和31年の改変はどういう意図だったのか。昭和31年といえば日本の逆コース化、対米追随がますます明確化する時期である。この時期に「米人の作りし」憲法とか、「笑ふべし」といった文言を削除した荷風の本心はどこにあったのだろうか。

 荷風「日乗」がふれなかった戦後の事件が列挙されているのも興味深い。
 荷風が無視した事件としては、例えば、昭和22年では、ヤミ米拒否の山口良忠判事の餓死事件、極東軍事裁判の審理開始などは一切記載がない。昭和23年には、帝銀事件、菊池寛の死去、太宰治の情死などは無視されるが、極東軍事(東京裁判)で「旧軍閥の首魁荒木東條」らに死刑判決が出たことを報じる号外が電柱に貼り出されたことは書き残している(166、7頁)。
 文士を嫌い、それこそ文士の首魁ともいうべき菊池を嫌った荷風が太宰や菊池の死に関心を示さなかったのは当然だろうが、東京裁判はどう思っていたのだろうか。少なくとも「米英豪による報復裁判、笑うべし」とは書かなかった。半藤によれば、この頃から「日乗」の記述は俄然、簡略になりはじめるという(169頁)。

 昭和24年には、下山事件、三鷹事件、松川事件は無視するが、日参していた浅草のストリップ劇場のストライキには言及する。スト解除後に出かけてみると、米兵が舞台に上がって踊り子と戯れており、これを傍観する邦人の気概の無さに憤慨する(181頁)。この年ドッジラインによって戦後のインフレは終息に向かうが、この時期から「日乗」からも物価高騰に対する恨みは完全に消えるという(185頁)。
 ぼくが生まれた昭和25年頃には、浅草ロック座のヌード嬢の楽屋に日参してはマスコミの餌食になっていたらしい。川本さんを読む前は、荷風といえば浅草のストリップ小屋の楽屋で踊り子と戯れる老人というイメージを持っていたが、この頃の荷風の実像だったようだ。
 その浅草ロック座で軽演劇用に書いた原稿を、天敵であるはずの文藝春秋(新)社「オール読物」の上林吾郎に手渡している。舞台の宣伝用だろうから、荷風は「商売上手」であったと半藤は書く(190~3頁)。
 林芙美子、吉屋信子に関する「日乗」の記述はそっけない。荷風は美人が好きだったので、このお二人は到底美人とは言いかねるのが原因だろうと評した者があったという(207~9頁。半藤の評価ではない)。

 「日乗」では無視するか、きれいごとで済ませているが、実情はそうでもなかったという事例が、荷風が市川で居候した小西茂也(知人だった仏文学者、「ゴリオ爺さん」「風流滑稽譚」などの訳者)や後に荷風の養子となった永井永光のエッセイなどから紹介される。大家にとって荷風は厄介な居候だったようだ。
 従兄(従弟?)の杵屋五叟宅に居候をしながら、(荷風)「先生」は、三味線の稽古が始まると火箸を叩いて妨害し、下駄や靴のまま畳の上を歩き、雨戸から放尿したりしたと養子は書く(87~90頁)。
 小西宅では、襖を締め切った座敷の中で七輪の火をおこす。娘が「火事ですか」と注意に行くと、「はいはい、火事ですよ」と平然と答えて雑誌類を燃やしつづけたこともあった(159頁)。幸田露伴の葬儀の際は、喪服がないので「平服」で遠くからお送りしたと「日乗」には書くが、当日荷風が実際に着用した「平服」とは、麦藁帽子に白いシャツ、黒ズボンに下駄ばきだったと小西は書く(123頁)。
 
 昭和28年、荷風の文化勲章受章に陰で貢献したのは久保田万太郎だったと中央公論社の社史に書いてあるそうだ(215頁)。中央公論社長の嶋中鵬二の工作もあったと思われる。授与式で着用したモーニングは先代嶋中雄作の遺品だったという。荷風自身は当時刊行中だった「全集」の中の「断腸亭日乗」に対して授与されたと考えたようである(213~25頁)。
 川本さんのものを読めば、荷風の文化勲章受章も宜なるかなと思うが、半藤を読むとよくぞこの人物がという思いがわく。
 半藤には菊池寛をテーマにした書物はあるのだろうか。あれば荷風論と照応しながら読んでみたい。

 「断腸亭日乗」の完全版と称するものが岩波文庫から刊行され始めたが、いささか眉に唾して読まなければならない。少なくとも、そのすべてが史実、事実だとは思わないほうがよいだろう。あれも一種の作品、フィクションと言わないまでも脚色された日記と思って読んだほうがよさそうである。

 2024年9月12日 記

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

永井荷風「濹東綺譚」

2024年09月12日 | 本と雑誌
 
 永井荷風「濹東綺譚」(岩波文庫、1974年)を読んだ。
 1974年頃に買ったのだろうが、ちょっと読んだだけで投げ出したまま50年近くが経過した。ある程度の年齢にならないと面白さが分からなかったのは、小津安二郎の映画と同じか。
 最近、川本三郎さんの講演「荷風を読む楽しみ」を聞き、同氏の「荷風と東京ーー『断腸亭日乗』」を読んで以来、荷風に興味が湧いてきた。好きになることはできないけれど、なぜか興味が湧いてきてしまうのである。
 そこで、放ってあった「濹東綺譚」も読んでみることにした。幸い手元にあった岩波文庫(昭和49年10月発行、18刷)は、新字体、新仮名遣い、振り仮名つきに改版された後のものだったが、活字が小さすぎたので、図書館で岩波文庫ワイド版を借りてきて、そっちで読んだ。

 ストーリーは単純で、荷風と思しき小説家である「わたくし」(一応「大江匡」という名前がついている)が、「失踪」という小説を書こうと構想する。「失踪」の主人公(種田順平)は、妻と不仲になって私立学校の英語教師をやめてしまった51歳の男である。種田は受け取った退職金を持ったまま家族のもとから失踪して、カフェの女給と逃避行を始める。この種田という人物も荷風の一面をあらわしているようである(25頁の木村壮八の挿絵に描かれた種田の後ろ姿は荷風のように見える)。
 種田の最初の逃避先を玉の井に設定するために、「わたくし」は玉の井の情景を描く必要から玉の井に出かけ、街を歩いているとにわか雨が降り出し「わたくし」の雨傘の中に女が飛び込んでくる。こうして知り合った雪子という私娼と親しくなり、その生態を観察する。しかし、雪子が本気になりそうな気配を感じたところで、「わたくし」は雪子と別れる決意をしたことをほのめかして話は終わる。「失踪」のほうも未完成のままで終わっている。

 この後に「作者贅言」という蛇足がついている。
 話の端々で、昭和10年代(発表は昭和12年)の世相に対する荷風の辛辣な感想が述べられるが、以下に引用した文章は、その「作者贅言」から引用したものが多い。
 昭和4年頃、銀座の表通りにカフェーが出現した頃、荷風はそこで酔っぱらった(「酔(え)いを買った」)ことがあった。このことに対して、あらゆる新聞が筆誅を加えたらしい。「文芸春秋」同年4月号に至っては、(荷風を)世に「生存させて置いてはならない」人間とまで非難したという(63頁)。それ以来、荷風はマスコミの筆誅を避けるために、身をやつして辺境だった玉の井で遊ぶようになった。玉の井に向かう東武電車の中でも、新聞記者と文学者とに見られて筆誅されることを恐れて、人目につく日中には出かけないように注意している(125頁)。
 「断腸亭日乗」には、荷風が忌み嫌う「田舎漢」の筆頭に(文芸春秋社主の)菊池寛の名をあげていたが、そのような因縁があったのだ。

 荷風は江戸情緒を愛する一方で、近代的なダンディズムを身につけた都会人だったが、「わたくし」が玉の井に行くときは、古ズボンに(下女からもらった)古下駄を履き、古手拭いの鉢巻をして出かけた。これなら、路上であれ電車内であれ、どこでも好きなところへ痰唾を吐けるし、煙草の吸い殻やマッチの燃え残りも捨てられる(99頁)。
 当時の東京の下町(砂町、千住、葛飾金町辺りと書いている)では、こんなことが平然と行われていたのだ。滝田ゆうが玉の井を描いた漫画に、駅のホームに置かれた痰壺が描いてあったが、痰壺に向かって痰を吐く人はむしろマナーのよい人だったのだ。

 戦前昭和期の東京の世相の移り変わり、とくに「東京の田舎化」とでもいうべき現象に荷風の筆は及んでいる。
 婉曲に満州事変(昭和6年)に言及するが、東京人が満州での出来事など真剣に考えていないで日々の喧騒にまぎれている様子が描写される(150頁)。二・二六事件(昭和11年)の号外が電柱に張り出された時も同じで、銀座通りを歩くおびただしい人たちは何ら特別の感情もあらわさず、話題にもしないで通り過ぎていったと書いている(151頁)。
 この頃から、銀座通りには柳の苗木が植えられ、朱骨の雪洞(ぼんぼり)がともされ、銀座の町がさながら田舎芝居の中の町の場といった光景を呈し出したと評し(同頁)、銀座の町を酔客がひょろひょろとさ迷い歩くような不体裁は、昭和2年に野球見物の帰りの慶応の学生や卒業生が群れをなして銀座の町を襲って乱暴狼藉を働いた事件に始まると書く(157~8頁)。
 荷風が慶応の教授に就任した時に、ある理事から「三田の文学も稲門に負けないように尽力していただきたい」と言われ、文学芸術を野球と同一視する愚劣さに眉をひそめたというエピソードも挿入される(同頁)。

 昭和11年に東京の周縁部が東京市に併合された折には、市電には花電車が走り、日比谷公園では東京音頭が踊られた。しかしこれは東京市の拡大を祝うためではなく、実際には日比谷の角の百貨店の宣伝にすぎず、その百貨店でのみ売られている浴衣を買わなければ入場できなかったという(161頁)。
 明治の末頃は、地方でも盆踊りは県知事の命令で禁止されており、もちろん東京にも盆踊りの習慣などはなかったが、田舎から出てきて山の手の屋敷町に雇われた奉公人に限って盆踊りが許可されることになったという(161頁)。まったく知らなかった。
 コロナ前までは、わが家の近所のお祭りでも、大人は東京音頭を、子どもたちはオバQ音頭などを踊っていたが、今年は盆踊りの音は聞こえてこなかった。コロナ禍の自粛の時期に静けさを知った近隣住民から騒音の苦情が出たのだろうか。

 2024年9月11日 記

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

軽井沢は秋の気配(9月6日、7日)

2024年09月09日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 9月6日(金)の夕暮れ、この夏最後の軽井沢の空気を感じるために散歩に出かけた。
 日中はまだ暑さの残る軽井沢だが、夕暮れ時になるとさすがに軽井沢らしく秋の気配が漂っている。気温も多少は下がっているのだろうが、何より空気が夏とは明らかに違っている。

   
              
 
 道端の空き地では、すすきの穂が夕日を浴びていた。
 夏の日に孫たちがトンボを追いかけた公園には人影もなかった。遊ぶ子どものいない滑り台がポツンと夕日を浴びていた。「トンボとり きょうはどこまで 行ったやら」という句は有名な俳句なのか。
 夕日に背を向けると、自分の影が長く延びる。秋の訪れを強く感じる影法師である。
 8月はじめころは午後7時近くまで日が沈まなかったのが、今では午後5時半には日没が迫ってくる。

      
 
 借宿まで足を延ばし、<ローソン>に立ち寄る。
 「ローソンと富士山」というのがニュースになっていたが、ローソンと浅間山も悪くない(上の写真)。
 毎年夏の終わりになると、ここからの夕焼け空を撮るのだが、中学校の音楽の副教材に載っていた「エデンの東」の日本語の歌詞にぴったりの写真が撮れない(冒頭の写真)。どうしたら、「むらさきの 雲の流れに ♪」なってくれるのだろう。

 --などなど書きつらねてきたが、15、16、17、18、19歳の頃、いや24、25、26歳の頃でも感じた、夏の終わりのあの切なさは、残念ながら今はもう感じられない。青春時代のあの寂寥感が懐かしい。

   
 
 最後は、9月7日(土)の朝、土産を買いに立ち寄った<デリシア>の屋根の上に広がった軽井沢の朝の空。

 2024年9月9日 記

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

軽井沢に行ってきた(9月4日~7日)

2024年09月08日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 9月4日(水)。台風が去って、ようやく晴れの日がしばらく続きそうな予報だったので、軽井沢に行ってきた。
 朝10時半に出発して、上里SAで小休憩して、13時に軽井沢に到着。快晴、気温は南軽井沢交差点の道路標示で26℃となっていた。
 まずはツルヤに立ち寄って、数日分の食料を買い込む。さすがに8月中に比べれば駐車場はかなり空いている(下の写真)。
   

 東京ではコメ不足だが、ツルヤには大量の米が置いてあった。ただし、残っているのは3000円台後半の千葉県産の新米ばかりで、もっとお手頃価格(らしい)のコメの棚は空っぽで、「完売」の札が立っていた。わが家でいつも買っている長野県産の無洗米(4㎏)が残っていたので買っておくことにした。

 到着後ただちにすべての窓を全開にして空気を入れ、つづいて、この夏使った布団、枕やクッション類を一斉にテラスに運び出して、虫干しをする。
 寄る年波で、毎年夏の終わりの布団の虫干しがしんどくなってきたので、この夏の初めに、思い切ってこれまでの思い出が詰まった重い綿布団を処分し、新しい敷布団と掛け布団を買った。荷風なら「購う」と書くだろう。「あがなう」と読むのかと思っていたが、この夏読んだ「濹東綺譚」では「かう」と振り仮名が振ってあった。

 そう言えば、「断腸亭日乗」を読むと、荷風は、日々の庭掃除(掃葉)と、時おりの蔵書の虫干し(曝書)を趣味としていた様子が伺える。「曝書」とは、「大辞泉」(小学館)によれば、「書物を虫干しすること、蔵書を取り出し、広げて風に当てること」の意で、夏の季語だそうだ。
 ぼくの亡父も、趣味で集めていた江戸時代の和綴じ本を天気の良い日に、二階南側の廊下に並べ硝子戸を開けて虫干しすることがあった。時おり2、30頁くらいの薄い本が風で道路にまで飛ばされて失くなることもあった。夏の季語というが、わが家では秋の小春日和の頃の風物詩だったように思う。ちなみに、「布団干し」は季語なのだろうか。
   
 翌日、9月5日(木)も朝から快晴。
 この日も布団干しに追われる。気持ちよいくらいに乾いてくれる。
   
   

 昼から<ツルハ>と<ケーヨーD2>に行って、除湿剤とダニ避けシートその他を買う。家を閉めた後の冬、春、梅雨時の湿気対策のためである。昭和の昔ならナフタリンが定番だった。
 天気は良くて空は青空だが、なぜか浅間山には真っ白の雲がかかっていて山頂や中腹のハート形の窪地は見えなかった。残念。離山はしっかりと見えている(上の写真)。
 この日の夜、永井荷風「濹東綺譚」を読み終えた。昔買ったままで手元にある岩波文庫は文字が小さくて読みにくかったので、図書館で借りてきた岩波文庫ワイド版で読んだ。本文に違いはなかったが、挿絵の濃淡が多少違っていた。

 9月6日(金)も晴れ。布団干しと、部屋の風通しがつづく。
 昼食は、御代田の浅間サンライン沿いにあるそば屋「香りや」に行く。国道沿いの「追分そば茶屋」が閉店してしまって寂しい思いをしていたところ、叔母がこの夏この店に行ってみたところ値段も手ごろで美味しかったと言っていたので、出かけてみた。
 緑の田畑が広がる中に新しい木造の店舗が建っている。駐車場も草地でトンボが舞っていた。孫が喜びそうである(冒頭の写真と下の写真)。
   
   
     

 店の前にある駐車場が満車だったので奥の第2駐車場に止めた。30分くらい待たされるのではないかと恐るおそる入ってみたが、店内に10卓くらい、テラスに4、5卓くらいある客席には何卓か空きがあって、すぐに座ることができた。
 メニューはシンプル。定食の天ぷらそばは、普通の麺つゆ(+ゴマだれ)か、温かいつけ汁(きのこ入り)か、ぶっかけかの3種類。ぼくは普通の麺つゆ、家内は温かいつけ麺にしたが、どちらも美味しかった。とくにゴマだれが好かった。
 蕎麦は、同じ経営という発地市場内のそば屋の蕎麦と同じ。発地では数年前に一度だけ食べたことがあるが、お爺さんが一人で蕎麦打ちをしていて美味しかった。(発地店は)蕎麦がなくなり次第閉店とかで、その時は昼前に閉店してしまった。

 帰りに久しぶりに追分旧中山道沿いの「すみや」(看板は「寿美屋」)に立ち寄る。
   
   

 荒井輝允「軽井沢を青年が守った」だったか、橋本福夫「著作集」だったかによると、敗戦後に橋本らが追分を拠点に生活協同組合を立ち上げて、物品販売所を開いたのが追分の旅館「すみや」の軒先を借りてのことだったと書いてあった(一時は旧軽井沢にも進出した)。その「すみや」が現在の「すみや」だろうか。そうであってほしい。

 9月7日(土)、この日も天気が良くて帰るのはもったいなかったが、戸締りを済ませ、電気、ガス、水道の元栓を閉めて、午前10時すぎに軽井沢を出発する。
 帰りがけに門扉のチェーンを閉めていると、1軒お隣のご主人に声をかけられた。ぼくと同世代だろうか。お会いするのも、お話しするのも今回が初めてである。お聞きすると、奥様が亡父がかつて属した職場の元同僚だったという。世間は狭いものである。

 戻った東京はいまだ炎暑。持ち帰った大量の洗濯物があっという間に乾いた。

 2024年9月8日 記

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

滝田ゆう「私版・昭和迷走絵図」

2024年09月02日 | 本と雑誌
 
 滝田ゆう「私版・昭和迷走絵図」(東京堂出版、1987年)を眺めた(正式な書名は「滝田ゆうの私版昭和迷走絵図」)。東京堂出版というのは、あの神田神保町すずらん通りにある東京堂(書店)と関係あるのだろうか。

 この本も、川本三郎さんの「荷風と東京--『断腸亭日乗』私註」で引用されていたので、興味をもって図書館で借りてきた。「寺島町奇譚」と同じく、著者が育った旧向島区寺島町、かつての玉の井の風景や人物を描いた絵も多いが、本書は玉の井に限られず、著者が旅した日本各地の昭和の風景が描かれている。しかも、前書と違ってほぼ全頁カラー版である。

 モノクロだった「寺島町奇譚」で描かれた玉の井はそれらしくうらぶれた風景に見えたが、カラー版の本書で描かれた玉の井は、例えば、「2 迷路への小路」「12 わが下町」「44 旧玉の井停車場跡」などを見ると、著者の同級生だった円歌が回想したような汚い町(私娼窟)ではなく、日ざしを浴びてどことなく美しい町並みのように見える。幼年・少年時代の著者にとっては玉の井は懐かしく輝いていたのだろう。

 2024年9月2日 記

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

川本三郎「荷風と東京ーー『断腸亭日乗』私註」(その1)

2024年09月01日 | 本と雑誌
 
 川本三郎「荷風と東京ーー『断腸亭日乗』私註」(都市出版、1996年)をようやく読み終えた。
 本文510ページ。途中で旅行をしたり、他の本を読んだりして中断があったが、ほぼ1か月かかった。
 最初のうちは読み通せるか自信がなかったが、途中からは読み終えるのがもったいなくなって、1章1章を銘酒でも味わうようにちびちびと読んだ。

 岩波文庫の「摘録・断腸亭日乗」と違って、荷風からの引用は旧字体、難しい漢字や熟語に振り仮名(ルビ)もないので、読めない漢字・熟語に出あうたびに CASIO<EX-word>の「漢字源」(学研)で、手書き入力して読み方や意味を調べながら読んだため、ちびちびと読むしかなかったのである。ぼくが調べた漢字はすべて「漢字源」に載っていた。漢和辞典、恐るべし。
 「帙」(ちつ、和綴じ本を収める函)、「晡下」(ほか、お八つ時間以後の夕刻)、「初更」(しょこう、日没から日出までを5分した内の最初の5分の1の時間帯)のような、自分が言葉を知らないことを思い知らされるような簡単な言葉から、「躑蠋」(てきちょく、立ち止まること。これは本書で最後に調べた言葉になった)のような、知らなくてもやむを得ないと自らを慰めるような言葉まで、とにかく漢文の素養のある荷風と言葉の豊富な川本さんに悪戦苦闘した。

 永井荷風「断腸亭日乗」をこれほどまで詳細に読み込み、関連文献を渉猟、援用し、さらに荷風の眺めた風景を訪ね歩いて再体験する川本さんのエネルギーに圧倒されつづけながら読み進めた。
 今は圧倒されて、読後感を簡単に書くことができない。とりあえず読み終わったことだけを記録として書きとどめておくことにした。

 2024年9月1日 記 
 ※ ほぼ正午に読み終わったが、テレビのニュースによると、まさに今日正午、迷惑千万の台風10号は熱帯低気圧に変わったという。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする