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豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

映画「真昼の暗黒」、「無法松の一生」

2025年03月30日 | 映画
 
 東京新聞夕刊の連載「映画から世界が見えるーー古今東西の名作・話題作」は、取り上げる映画がぼくの趣味とはまったく合わないものばかりで、ほとんど読んでいなかったのだが、最近は取り上げる映画の傾向がこれまでのものとはかなり変わって、ぼくにとって懐かしい作品が増えた。

 例えば、今年(2025年)3月3日付の同コーナーが取り上げた映画は「真昼の暗黒」(今井正監督、1956年)だった(上の写真)。
 八海(やかい)事件をモデルにした映画である。八海事件とは、1951年に山口県で起きた老夫婦に対する強盗殺人事件で、捜査側が複数犯と見立てて6人を逮捕、起訴したが(1人はアリバイが成立したため釈放)、実際には被告のうちの1人による単独犯で、他の4被告は最終的に1968年の第3次(!)最高裁判決で無罪が確定した事件である。この最高裁無罪判決には、あの「虎に翼」の(串団子をかじってた判事のモデルといわれる)石田和外も加わっていた(裁判長は奥野健一、他に色川幸太郎の名も見える)。
 映画の原作は、無罪となった4被告の弁護人を務めた正木ひろし弁護士の「裁判官」(確かカッパブックスだった)。
 記事によると、この映画は、冤罪だった被告の1人を死刑、同じく冤罪だった他の3人の被告人を懲役とする広島高裁判決が出た直後の1956年3月に公開されたという。もともとプロデューサーは黒澤明監督「羅生門」のような「真相はやぶの中」といった結末を期待したそうだが、訴訟記録を読み込んだ今井正監督は冤罪を確信し、その方向で脚本が書かれ撮影されたという。当時の最高裁長官(記事には書いてないが田中耕太郎)が裁判官に対して「雑音に耳を貸すな」と訓示するなど、裁判に対する批判が注目を集めた事件でもあった。誤判をした広島高裁の裁判長が裁判外で有罪論を展開する書籍を出版して話題になったこともあった。

 実は、ぼくは八海事件の訴訟記録の一部を見る機会があった。その中には、真犯人が被害者の老婆を居間の鴨居に寝間着の帯で吊り下げて自殺のように偽装した現場写真も含まれていた(目にしたときはギョッとした)。検察側は、このような偽装工作は単独犯では無理であるとして複数犯説の根拠の一つと主張したが、ぼくの当時の印象ではいかにも杜撰な偽装で、若い男なら一人でも十分に可能と思えた。実際の裁判でも、弁護側が法廷内に事件現場を再現するセットを持ち込んで、正木弁護士が1人で被害者と同じ身長体重の人形を鴨居に吊り下げる実験を再現して見せたという。
 また、真犯人は犯行前に被害者宅の入り口で脱糞などしているが(強盗の中には勇気づけのため犯行の前にそのような奇行に及ぶ犯罪者があったらしい)、これはこの映画の中に出てきたのだったか。
 正木弁護士ら弁護側の努力に加えて、この映画をはじめとする裁判外での支援活動の力もあずかって、最終的には真犯人以外の4人の被告は無罪判決を得ることができたが、冤罪の人間をあやうく死刑に処する誤判事件だったのである。単独犯で無期懲役に服した真犯人は、仮釈放後に(自分が虚偽の自白で事件に巻き込んでしまった)他の被告たちへの謝罪行脚を続けたという。


      
 
 そして、2025年3月24日夕刊では、稲垣浩監督の「無法松の一生」が取り上げられた。
 戦争中の1943年公開の阪東妻三郎主演のものと、戦後の1958年公開の三船敏郎主演のものの2作を比較紹介している。1943年版は車引き(ごとき無頼の徒が)が帝国陸軍将校の未亡人に恋慕の情を抱くとはけしからんと内務省からクレームがつき、1958年版には日清戦争勝利のちょうちん行列のシーンが軍国主義的であるとしてGHQの検閲でカットされたという(上の写真はその記事と、原作である岩下俊作「無法松の一生」(角川文庫、昭和33年=1958年ということは三船映画の公開に便乗した出版だろう)。
 原作の角川文庫には検閲を批判した白井佳夫の「検閲の愚かさ 私は語り継ぐ」という記事が挟んであった(朝日新聞1993年11月2日付)。
 ぼくは白井佳夫の記事と、寅さんが飲み屋で知り合った米倉斉加年の奥さん(大原麗子)に恋するという寅さん映画(題名は忘れた)で、「無法松の一生」を知った。その寅さん映画は(阪東妻三郎のほうの)「無法松の一生」を下敷きにしていると何かに書いてあった。いまだに阪妻版は見る機会がない。1958年の三船版のほうはDVDが発売されているらしいが、今回の東京新聞の記事の筆者は1943年版のほうを薦めている。どこかで見ることができるのだろうか。

 そのほかにも、最近のこのコーナーでは「禁じられた遊び」も取り上げていた。コーナーの執筆者が交代したのか、採用作品の採用基準に変更があったのか分からないが、ぼくの好みに合った映画が相次いで取り上げられることは同慶の至りである。

 2025年3月29日 記

朱牟田夏雄編「サマセット・モーム」

2025年03月27日 | サマセット・モーム
 
 朱牟田夏雄編「サマセット・モームーー20世紀英米文学研究(19)」(研究社、1966年)を読んだ。20年以上前に古本屋で買ったまま放置してあった本である。
 「20世紀英米作家研究」の19巻=19番目というのは、モームも随分と軽く扱われたものだと思ったが、月報を見るとこのシリーズの第2回配本というから、やはりモームは1960年代の日本では人気作家だったのだ。西欧美術全集で第2回配本といえば、ルノアール、ゴッホに匹敵する。モーム「要約すると」について書き込みをする際に気になった彼の経歴および書誌情報を確認するついでに、結局最後まで通読した。
 口絵写真(下の写真)、伝記、作品(主要作品の梗概と解説)、評価、そして巻末には年表と書誌情報がついた便利な本である。とくに未読の主要作品については、本書の梗概を読めば現物を読まないで済ますことができる。解説者は、「ランべスのライザ」北川悌二、「お菓子とビール」日高八郎、「片隅の人生」増田義郎、「劇場」行方昭夫、「戯曲」小津次郎など、多くは朱牟田教授の同僚か後輩と思しき東大教授、助教授である。

      

 ぼくが読まなかった作品で、もう現物は読まずに本書の梗概だけで済ませることができそうなものの第一は、処女作「ランべスのライザ」である。モームがロンドンの貧民窟の医師だった時代に経験した人々をモデルにしたのだろう。梗概を読んだぼくは、マルタン・デュ・ガール「チボー家の人々」(白水社)の兄アントワーヌのエピソードを思い出した。後発のデュ・ガールのほうがモームの影響を受けたのか。「魔術師」(ちくま文庫)、「人間の絆」(新潮文庫)ももう読むことはないだろう。
 「剃刀の刃」(新潮文庫)は映画で済ませよう。「剃刀の刃」はモーム全作品の総販売部数4000万部のうち500万部の売り上げを占める最大のヒット作だったという(122頁)。「文学的評価」!は低かったが、第1次大戦から帰還し1929年の世界恐慌を経験した世代(“lost generation”?)の圧倒的支持を得たという。増田義郎による「昔も今も」(ちくま文庫)、「カタリーナ」(新潮社モーム全集)などイタリアもの、スペインものへの評価は芳しくない。
 短編ではモームの百数十編の短編小説から、「雨」「赤毛」「奥地駐屯所」「手紙」(新潮文庫)「サナトリウム」「凧」(英宝社)の6編が取り上げられている。「雨」「赤毛」以外で何がよいかは読者の好みの問題だろう。ぼく個人としては(モームは嫌ったらしいが)O・ヘンリー的な「落ち」のある短編が好きである。「雨」「赤毛」の結末のどんでん返しなどはその典型。
 また、モームは姦通、殺人などの犯罪を頻繁にテーマに取り上げたが、モームは探偵小説(犯罪小説)作家でもあるとぼくは思う。「手紙」などはその典型で、ボワロ=ナルスジャックやセバスチャン・ジャプリゾ(ほどではないとしても)、W・アイリッシュの味があるサスペンスとして読むことができる。モームの作品を探偵小説の側面から論じた評論はあるのだろうか。

 エッセイのうち、「サミング・アップ」(要約すると)、「作家の手帳」(新潮文庫)は最近に、「読書案内」「世界の十大小説」(岩波文庫、岩波新書)などはその昔に現物を読んだ。随筆の中では、「極めて個人的な話」(“Strictly Personal”)という、第2次大戦中に疎開先のアメリカで “Saturday Evening Post” 紙に連載したエッセイに興味がわいた。イギリス派遣軍とフランス軍の対立、軍紀の弛緩、軍上層部の無能、一般国民の士気阻喪、政治家の腐敗などフランス敗北の原因を指摘しているという(182頁)。翻訳はあるのだろうか。最晩年の随筆集「人生と文学」と「作家の立場から」(新潮社モーム全集)は、本書の解説(どちらも日高八郎)を読んだら現物を読んでみたくなった。モームから読者へのお別れの挨拶であるらしい。往年のモームファンとしてはお別れの挨拶を無視することはできない。
 本書でも「モームの謎」について何度か言及があったが、ぼくにとってモーム最大の「謎」は、英宝社から出た「環境の生き物」“Creatures of Circumstance” の邦訳がその後どこからも出版されないことである。ぼくは英宝社のモーム傑作選「サナトリウム・五十女」「凧・冬の船旅」(1951年)を古本で、英米名作ライブラリー「大佐の奥方・母親」(1986年、第16刷)を新本で入手したが、前2作はB6版なのに「大佐の奥方」は新書版のため、本棚に並べていても不体裁で気持ちが悪い。
 最後に「評価」(後藤武士、なぜか九大卒の九大教授)がある。すでに書いたように、ぼくは18歳の時に駿台予備校四谷校で開講された奥井潔先生の授業でモームと出会うことができ、シニカルなストーリー・テラーとしてのモームの作品で「読書を楽しむ」経験ができたことを幸せに思っている。それで十分であり、モームが歴史的な大作家であるかどうか、同時代の英米の文芸評論家がモームに対して何を言ったかなどには関心がない。

 附録の月報で、西脇順三郎が「モームの芸術」と題する随想を書いている。面白い内容だった。
 西脇は、それまではモームに関心がなかったが(「人間の絆」などは素人臭いと貶している)、「お菓子とビール」以降のモームの作品と文体は素晴らしいと激賞している。しかも西脇は、「お菓子とビール」を老人でなければ書けない露骨なエロティシズムの小説で、これに比べれば谷崎の「鍵」などは生ぬるいし、「チャタリー夫人」などは子どものエロティシズムに見える、(「お菓子とビール」や「剃刀の刃」「劇場」など)モームのある小説は世界に誇る「わい本」であろうと書いている。さらに「お菓子~」はハーディ、ウォルポール、H・ジェイムズに対する皮肉であり、皮肉小説という意味でインテリ小説であり、一般読者にはわからない無益な小説であるとも書いている。英語のスタイル(文体)に関しても、ロレンス、ハックスレイと並ぶ文章家であるとベタ褒めである。
 「お菓子と麦酒」(新潮文庫)は、トマス・ハーディをモデルにしたといわれる作家の年若い奥さんである主人公ロウジーが印象には残ったが、エロティックとか「わい本」とはまったく感じなかった。まさに西脇が軽蔑する「一般読者」の一人であるぼくの感度が悪かったのだろう。

 2025年3月26日 記
 

「お菓子とシャ-ト」

2025年03月22日 | あれこれ
 
 2025年3月20日はぼくの75歳の誕生日だった。
 お祝いにお菓子と、妙にぼくに縁のありそうなロゴの入ったTシャツをプレゼントされた。
 Tシャツには “Legends Were Born in March 1950.All Original Parts Aged Perfectly” というロゴが入っている。誰がどういう文脈で言った言葉なのか、出典が何なのかぼくにはわからないが、1950年3月生まれのぼくもその “Legends” の一人でありたいものである。すべてのパーツがパーフェクトに年齢を重ねているとは言いかねる昨今ではあるが。

      

 サマセット・モーム「お菓子とビール」にあやかって、「お菓子とシャート」というタイトルをつけることにした。
 モームの「お菓子とビール」の原題は “Cakes and Ale”、イギリスではビールとエールとラガーは区別されるから上田勤訳の新潮文庫版のタイトルは「お菓子と麦酒」となっているのだろう。「お菓子とビール」とは妙な取り合わせで、どんな含意があるのかぼくにとっては謎だった。その昔12月24日に新宿歌舞伎町の居酒屋でゼミの忘年会をやったら、飲み放題にイチゴのショートケーキが一人一切れついてきたことがあった。まさに「お菓子とビール」だった。
 いま読んでいる本によれば、「お菓子とビール」という言葉はシェークスピア「十二夜」や「ヘンリー8世」に出てくる言葉で、甘い物から辛い物までご馳走を並べて歓待するという意味で、モームでは主人公ロウジーを甘いもの、モーム自身の警句や皮肉を辛いものに見立てているのだろうという(日高八郎「お菓子とビール」朱牟田夏雄編「サマセット・モーム」研究社、90頁)。

 2025年3月22日 記

東京の桜、開花(3月17日)

2025年03月18日 | あれこれ
 
 昨日3月17日(月)の午後、陽ざしは春めいているが、北風がびゅんびゅんとうなり声をあげる中を散歩に出た。
 一昨日3月16日(日)がそれまでの春の陽気から一転して寒い雨が降る一日だったので、昨日の晴れはひときわ光り輝いて感じられた。

 花粉症に悩まされているので、風の中を歩くのは正直きついのだが、陽ざしに誘われるままに出かけた。
 いつもの散歩コースの道沿いにある小さな公園で、高さ2メートルくらいの木が鮮やかなピンクの花をたくさんつけていた(上の写真)。昨年の春にはこの公園のその辺りには桜はなかったはずである。梅だろうかと思って近づいてみると、やっぱり桜だった。ソメイヨシノの薄いピンク色とは明らかに違う鮮やかさである。
 石神井公園に植わっている河津桜(名札がかかっていたので「河津桜」と分かった)のような鮮やかな」ピンクである。ぼくは淡いピンクのソメイヨシノよりもこの鮮やかな河津桜(?)の花のほうが、春の青空にも映えていて好きである(下の写真)。
 今朝のNHKラジオ番組で、樹木医という人が最近の東京などでは寿命の来たソメイヨシノを伐採して、80種類以上の桜に植え替えていると語っていた。この公園の桜もそのような植え替え作戦の一環としてこの1年の間に植えられたのだろうか。わが家の近所の桜並木のソメイヨシノも、ぼくが小学生だった70年近く昔のようなピンクの容色はすでになく、白茶けていて寂しい限りである。
 今から数十年もすると、東京の桜もソメイヨシノ一色ではなく、様々な種類の桜が、様々な時期に、様々な色合いの花を咲かせるようになることだろう。

      
           

 さらにしばらく歩いたところにある別の公園では、地上すれすれから天辺までコブシの白い花が咲いていた(上の写真)。
 コブシかどうかは自信がないのだが、この手の白くてこのくらいの大きさの花で、この時期の東京で咲きほこっているのは「コブシ」だろうと勝手に決めつけているのだが、間違っているかもしれない。
 同じくこの時期に近所の家の庭先できれいな黄色い花を咲かせている木が「ミモザ」ということを今年になって初めて知った。花の名前はチューリップとひまわりくらいしか識別できないままに70年以上生きてきて、この年になって散歩の道すがらの木々や花にも興味を覚えるようになったのである。

 2025年3月18日 記

      
       
       

 追記 
 今日3月22日の午後、この18日と同じコースを散歩した。そしてとんでもない間違いに気づいた。18日に「コブシ」と書いた花は何と「桜」だった。なんで分かったかというと、その木に「桜の枝を折らないでください」という立札が立っていたのである(上の写真)。「この白い花がサクラ!?」と驚いたが、そう書いてあるのだから桜なのだろう。花に関する無知識ぶりに我ながらあきれるばかりである。
 ついでに3枚目は18日の河津桜の今日の姿、地上にちらほらと花が散り始めていた。こっちは「河津桜」で大丈夫だろうか・・・。

 2025年3月22日

サマセット・モーム「要約すると」

2025年03月17日 | サマセット・モーム
 
 サマセット・モーム「要約すると」(新潮文庫復刻版、平成6年、初版は昭和43年)を読んだ。再読、前回は飛ばし読みだったが、今回は最初から最後まで通読した。

 訳者あとがきで中村能三(よしみ)氏は邦訳のタイトルを原題の「サミング・アップ」(Summing Up)のままにしておけば良かったと書いているが、「要約すると」と “Summing Up” にどんな違いがあるのか。「要約すると」のほうが内容を要約していて分かりやすいとぼくは思う。
 “summing up” を辞書で引いてみると、「要約」のほかに「説示」という語義があった(アンカー英和辞典)。「説示」は裁判官が評決に先立って陪審員に対して行う当該事案の事実関係の整理および適用すべき法律の説明のことだが、「要約」の第2義が陪審員に対する「説示」というのはアングロサクソン的である。ただし、小山貞夫「英米法律語辞典」(研究社、2011年)では、陪審に対する「説示」には “instruction” “charge” “direction” の語が当てられていて “summing up” はない(1331頁)。陪審員に対する「説示」のうち、当該事案における「事実の概要」の部分だけを “summing-up” というらしい(ウィズダム英和辞典)。
 モームは、英国法律家協会(1825年)を創設した中心人物(ロバート・モーム)を祖父にもち、父親(ロバート・オーモンド・モーム)はフランス大使館付の弁護士、次兄(フレデリック・ハーバート・モーム)も法廷弁護士(後に大法官 Lord Chancellor に就任している)という法律家一家に生まれた異端児だったから(※朱牟田夏雄「モーム 人と生涯」同編「サマセット・モーム」研究社、9頁~)、ひょっとすると文字通り法律用語の意味で “summing up” (「事実の概要」)というタイトルを選んだかもしれない。
 
 モーム自身は、本書は自伝でもなく回想録でもないと書いているが、随想を交えた回想録だろう。新潮文庫の帯にも「自伝的回想記」と明記してあるではないか。
 全体は大きく3部構成になっている。序盤は、劇作家として名を成し、収入も安定し(相当な資産を形成したようである)、社交界(文壇、劇壇?)にも地位を確保するまでの初期モームの自伝的な回想が語られる。中盤ではモームの文学論、文学観が語られ、終盤ではモームの宗教観、人生観が語られる。
 モームは医学校に学んだが、医師時代に経験したロンドンの貧民窟での様々な人との出会いが後の創作活動に大きく寄与したという。モーム作品に登場する人物は、すべて彼が出会った人物をモデルにしているという。「お菓子と麦酒」のトマス・ハーディだけでなく、数多のモデル疑惑を招いたことがあったようだ。

 モームの文学観で印象的なのは、彼も「大衆文学 vs 純粋文学」の構図にこだわっていることである。モームは劇作家として観客を集めることができ興行的に成功した作品をいくつも書いたが、劇壇における批評家の評価は低かったらしい。批評家たちの高踏的な批評ないし無視に反発したモームは、後世に残るような文学はシェークスピアもスウィフトもみな発表当時は大衆文学だったと書いている。
 モームが後世に残る作家であるかどうかは分からないけれど、少なくとも20世紀を生き延びた作家であることは間違いないし、何といってもモームの作品による印税収入は、モームが作家という職業の一番の幸福であるという精神的自由を保障する経済的な基盤を提供したことは間違いない。そしてぼくと同時期の受験生の多くはモームを読んだのだった。その中にはぼくのようにモームのファンになった者も少なくなかっただろう。ぼくにとって大学受験勉強の最大のご利益は(奥井潔先生を通して)モームと出会ったことだった。

 彼の哲学論は哲学の素養のないぼくには理解できなかった。
 モームはホワイトヘッドはじめ当代の哲学者たちの文章の難解さを批判し、バートランド・ラッセルの文章(イギリス語)を褒めている(240頁)。ぼくは活動する平和主義者としてのラッセルを尊敬していたが、たしかに1960年代の大学受験界ではモームもラッセルも頻出の出典だった。その文章が英語として素晴らしかったことなど考える余裕もなかった。それどころか、「大衆的」「通俗的」と批判されたというモームの語彙の豊富さに圧倒されながら辞書引きに追われた記憶が残っている。
 モームがホッブズのイギリス語を褒め、そのジョンブル気質を高く買っていたことは前にも書いた。モームのホッブズ評価は、本書を以前に斜め読みした際に印象に残った箇所の一つだった(227頁)。その後ぼくはホッブズを(翻訳で)何冊か読んだが、モームの評価がきっかけだったかもしれない。ホッブズを「ジョンブル気質」などという側面から評価した論者はモーム以外にぼくは知らない。ホッブズのどの部分が「ジョンブル気質」の表れなのか、そもそも「ジョンブル気質」とは何なのかは分からないが、そう思って読むと論理が明快であるような気もした。結局ホッブズを読んでも、彼が君主政支持なのか民主政支持なのかすら分からなかったが、「主権者権力の絶対性」を説いてクロムウェルに恭順の意を示すあたりが実利実益的な「ジョンブル気質」の表れなのだろうか。
 第1次大戦後のモームが、やがて無産階級を基盤とする政権がヨーロッパにも増えることを予見しているのも印象的だった(268~272頁)。モーム自身は自分が生きているうちは(第1次大戦以前の)旧体制が維持されることを願っているが、その後のヨーロッパはモームの予見通り、東欧諸国だけでなく、イギリスの労働党政権をはじめ西欧諸国の多くの国でも社会民主主義政権が成立することになった。ボルシェビキ政権の成立を阻止するためにスパイとしてロシアに派遣されながら、結局ボルシェビキ政権の成立を阻止できなかった経験、ロシア中間階級の勃興を実感した経験がそういわせたのか。あるいは、医師時代に脳膜炎の幼児を救うことができずむざむざと死なせてしまった貧民窟での苦い経験がそう思わせたのだろうか。

 モームの宗教観、人生観が語られる終盤が一番興味深かった。ぼく自身が人生の終盤に近づいているからだろう。
 本書の最終章近くで、モームは、幼少時に経験した母の死から50年間癒されることなく、その後の人生が幻影であり自分はその幻影の中で役割を演じているに過ぎないという気持ちを抱きつづけてきたと告白している(291頁)。一方で、モームは自分の幸運さに驚いている、自分より才能のある人物が自分のような幸運に巡り合えなかった事例を知っているとも書いている(270頁)。そんなモームでも幼少期の母の死を引きずって生きていたのである。モームは幼少期に父母を失って、そりの合わない叔父(国教会牧師)のもとで不幸な少年時代を過ごしたが、そのせいか彼の小説に登場する人物たちの背後には「家族」の存在が感じられない。
 そして「死」は最後の絶対的な自由を与えてくれると書いている(276頁)。医者が相当の健康を保障してくれる限り長生きしたいとも書いているが、彼の資産はそれを保障してくれたのだろう、モームは1965年にリヴィエラの別荘で倒れ、ニースの病院で91歳で亡くなっている。
 
 本書の文中には「人間の絆」にも出てくる話題がいくつも登場すると訳者が解説で書いている。ぼくは「人間の絆」は読んでいない。読みだしたがつまらなかったので途中で投げ出した。とりあえず、Macmillan Education から出ていた abridged 版 “Of Human Bondage” (金星堂、1982年)で済ませた。「人間の絆」にはモーム自身による要約版があるが(“Of Human Bondage [abridged]”, Pocket Books, 1964)、邦訳は出ているのだろうか。「映画で英会話 人間の絆」(朝日出版社、2000年)にはベティ・デイビス主演の映画化された「人間の絆」(邦題はなぜか「痴人の愛」、1934年)のCD‐ROM がついているので、この映画も見た。金星堂版のほうの表紙はリメイク版映画(MGM、1964年、主役はキム・ノヴァク)のスチールが入っている。
 ちなみに、最近「人間の絆」の新訳版が「人間のしがらみ」というタイトルで出版された広告を見た(光文社古典新訳文庫)。「絆」にも「しがらみ」という意味はあるけれど、「しがらみ」の方が直截的で内容にふさわしい。特に最近の日本では(「被災地との絆」!のように)「絆」に過剰に肯定的な意味を持たせる用法が跋扈しているので。
 「要約すると」にはモームの自伝的記述が頻出するから、自伝的な小説「人間の絆」と共通する部分が多いのは当然だろう。ぼくは本書と「作家の手帳」(新潮文庫、中村佐喜子訳、昭和44年)との共通点を何か所かで発見した。「老年の償い」(年寄りには年寄りならではの良いところもあるといった趣旨)などは「作家の手帳」にもほぼ同文の記述があった。「償い」という訳語への違和感を感じたが、本書の訳者も「償い」と訳している。本書の中村能三さんと中村佐喜子さんはご関係があるのだろうか。

 本書はモームが60歳の頃の作品だというが、「作家の手帳」とはどちらが先に出たのか。(※“The Summinng Up” は1938年刊、“A Writer's Notebook” は1949年刊だった)。さらに1958年に “Points of View” (「作家の立場から」田中西二郎訳、新潮社、1962年)という作品を作家生活の最後の書として出版し、その後も1962年には “Looking Back” という回顧録を書いているという。長生きしたモームは60代、70代、80代と数回にわたって回顧録(風の作品)を書いていたのだ。これらの回顧録も、モーム流の “Mixture as Before” (「相も変わらず」)だったのだ。
 ぼくなりにモームを一言で要約すると「シニカルなストーリー・テラー」ということになる。ユーモアはない。

 2025年3月17日 記

幽冥録・2024年その2(映画界)

2025年03月03日 | 映画
 
 昨夜(3月2日午後11時5分~)のNHKラジオ深夜便11時台のミッドナイト・トークは、徳田章アナと映画評論家(誰か?)が、昨年(2024年)亡くなった映画関係者を回顧しながら、ゆかりの映画のサウンドトラック盤をかけていた。
 トークの喋りがよく聞き取れないところもあったけれど、取り上げた映画はいずれも団塊世代のぼくにとって懐かしく、往年のラジオ文化放送のリクエスト番組「ユア・ヒットパレード」を思わせる構成だった。

 最初はアラン・ドロン。1935年生まれ、昨年88歳で亡くなった。
 彼は家庭的に恵まれず、中学卒業で仕事に就き、インドシナ戦争に従軍して帰国した後は職業を転々とし、付き合っていた女優から「あなたは美貌だし身体もいいから、裸でカンヌの町を歩いていたら、きっと映画監督から声がかかるわよ」とアドバイスを受け、その通り実践したら、ちょうど「武器よさらば」の撮影でカンヌに滞在していた監督の目にとまって、映画界入りすることになったという。
 「武器よさらば」にはゲイリー・クーパー主演のもの(フランク・ボーゼージ監督、制作年不詳)と、ロック・ハドソン主演のリメイク版(チャールズ・ビダー監督、1957年)があるらしい。前者はキネマ旬報の「アメリカ映画作品全集」に載っていないが、AmazonでDVDを売っている。
 下の写真は新潮文庫版ヘミングウェイ「武器よさらば」の表紙カバー。向井潤吉の描く風景画ということで、前に書き込んだ「怒りの葡萄」とも繋がりがあるので。
       

 アラン・ドロンの出世作となった「太陽がいっぱい」(ルネ・クレマン監督、ニーノ・ロータ音楽)は1960年の公開だが、それ以前にも何本か出演作があるらしいから、カンヌの町を歩いていたアラン・ドロンを見い出したのはどちらの「武器よさらば」の監督でもおかしくない。ヘミングウェイはゲイリー・クーパーをイメージして「誰がために鐘は鳴る」を書いたというから、前者の方が原作にはふさわしいと思うが、後者の主役ロック・ハドソンもヘミングウェイ作品にふさわしい俳優だし、ヴィットリオ・デ・シーカが俳優として出演しているというから後者も興味がある。
 昨夜の番組では、当時アラン・ドロンは美形男性の代名詞のように言われ、「xx界のアラン・ドロン」といわれる男があちこちに登場したと紹介して、その中に「落語界のアラン・ドロン」まで挙げていたが、「落語界のアラン・ドロン」は三遊亭小遊三のギャグではないか。

       

 アラン・ドロンの関連グッズは何もない。 「太陽がいっぱい」のレコードくらいあるのではないかと探したところ、わずかに「スクリーン・ムード・トップ4(第1集)」というのの中に「禁じられた遊び」や「鉄道員」と一緒に「太陽がいっぱい」が入っているのを見つけた(日本グラムフォン、450円、発行年記載なし)。残念ながらサントラ盤ではなく「フィルム・シンフォニック・オーケストラ」演奏だが、ジャケットにアラン・ドロンの横顔があった(冒頭の写真)。
 ※と思っていたら、ドロン主演の映画「フリック・ストーリー」のパンフレットが出てきた(1970年、東宝事業部発行、200円、上の写真)。ドロンは連続殺人犯を追う刑事を演じていた。「フリック」というのは「デカ(刑事)」の意味だそうだ。舞台となったフランスの片田舎の冬枯れの風景が印象に残っている。「シベールの日曜日」を思わせる風景だった。
 学生時代に、アラン・ドロンの “C' est l'elegance de l'homme moderne,D'urbain!” (スペルは怪しいが、「セ レレガンス ドゥ ロム モデルン、ダーバン」と聞こえた)というナレーションが入った「ダーバン」(オンワード樫山のブランドの一つ)のCMがテレビでよく流れていた。ダーバンの紺色の長めの冬コートを着ていたことがあった。 

 次は、「男と女」の関係者の誰かがやはり昨年亡くなったと言っていた。聞き漏らしたが、今朝になって「らじるらじる」の聴き逃しサービスで調べると主演のアヌーク・エーメが2024年に亡くなっていた。
 「男と女」を見た記憶はないが、フランシス・レイの主題歌(曲)は何度聞いたことか。昨夜も流れていた。

       

 その次は「ある愛の詩」(アーサー・ヒラー監督、フランシス・レイ音楽、1970年)。フランシス・レイつながりで、「男と女」の次に来たらしいが、「ある愛の詩」のだれが昨年亡くなったのかは分からなかった。フランシス・レイはアヌーク・エーメと同じ歳で誕生日は1日違いだが、彼は今も健在だと言っていた(ような気がする)。主演のライアン・オニールが亡くなったのは一昨年の年末のことだが、団塊の世代としては、ひとつの時代が終わったと感じたと言っていたから、ライアン・オニールの追悼か。
 「ある愛の詩」は映画のパンフも原作の翻訳本も持っていたはずだが見つからないので、原作ペーパーバック版の表紙をアップしておく。Erich Seagal,“Love Story”(Signet Novel,発行年記載なし。95¢。1ドル以下とは「安い!」)。家内の持ち物だったが、驚くなかれ贈呈したのはぼくだった! まったく記憶にない。映画のライアン・オニールはハーヴァード大学のアイスホッケー選手だったが、背番号はぼくと同じ 7番だった。
 「思い出の夏」もフランシス・レイ作曲だと言っていたので、ついでに「思い出の夏」の原作も並べておいた(Herman Raucher,“Summer of '42”,Dell Book,1971)。
 ※これも後に映画のパンフが見つかった(1976年、東宝事業部発行、250円、下の写真)。相手役はアリ・マックグロウ。

       

 その次が「ロミオとジュリエット」のオリビア・ハッセイ。 1968年に日比谷映画に女の子を誘って見に行った。彼女は確かぼくと同じ年で、昨年74歳で亡くなったはずである(1歳年下の73歳だった)。昨夜のDJ徳田アナはオリビア・ハッセイと同じ歳、語り手の評論家も同世代と言っていた。
 昨夜のラジオ深夜便では、「ロミオとジュリエット」のサントラ盤が流れたが、そのサントラ盤には彼女とレナード・ホワイティングが囁きあうセリフが入っていて、「ユア・ヒットパレード」を思い起こさせた。

 その後何曲か流れたが忘れてしまった。眠っていたのかもしれない。
 最後は、なぜか西田敏行の「もしもピアノが弾けたなら」だったが、そんな映画があったのだろうか。ここでラジオを切って寝ることにした。
 ※ 今朝になって「らじるらじる」で確認したら、その間に「屋根の上のバイオリン弾き」が挟まっていて、そのつながりで、日本の舞台で主役を演じた西田の曲が流れたらしい。ラジオ深夜便はけっこう聞いているようで実は眠っている時間帯もあるようだ。
 それにしても、ニーノ・ロータ「太陽がいっぱい」で始まって、フランシス・レイを経て、再びニーノ・ロータ「ロミオとジュリエット」と続いた昨夜の番組(曲)構成の、なんで最後が「もしもピアノが~」になってしまったのか・・・。

 ぼくとしては、昨年亡くなった映画人ではジーン・ハックマンも挙げておきたい。亡くなったことを知らなかったが、週末のテレビで三谷幸喜が紹介していた。アル・パシーノと共演した「スケアクロウ」が好かった。
 ーーこんなことを書いていたら、みのもんたの訃報が報じられた。ぼくにとってみのもんたは文化放送「セイ・ヤング」が懐かしい。どこかの番組で本名「御法川法男」(みのりかわ のりお)と紹介していたが、「セイ・ヤング」時代は本名だったかも。「みの」の本名が「御法川」であることをぼくは昔から知っていた。文化放送の土井まさる、TBSの野沢那智、ニッポン放送の今仁哲夫などとともに、みのの軽妙なしゃべりが好きだった(ちょっとうるさかったか)。テレビに進出した後もたまに画面で見かけることはあったが、彼のテレビ番組はほとんど見なかった。昨年だったかNHKラジオの「ラジオ放送開始100周年」に出ていたが、その声にかつての元気はなく寂しげな語り口が気になった。

 2025年3月3日 記