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豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

サマセット・モーム「魔術師」、コリン・ウィルソン「オカルト」

2025年05月31日 | サマセット・モーム
 
 今年5月最後の書き込みはやっぱりサマセット・モームで。
 新たに読んだものはないので、読書中断および未読の記録である。

 その1。「劇場」はやめると宣言しながら、何とかならないか、ページをめくる推進力がどこかで発生しないかとの思いから184頁、14章の手前まで読んだ(新潮文庫、平成18年改版)。しかし駄目だった。
 主人公の中年女優ジュリアが夜行列車に乗るのだが個室が取れなかった。すると車内で彼女に気づいたスぺイン人の男が自分の個室を彼女に譲ってくれる。ところがジュリアが寝ようとしたところ、その男がドアをノックして「歯ブラシを忘れた」と言って個室に入り込み、結局二人は関係を結ぶことになる(はっきりとは書いてないが)。
 ーー60歳を過ぎたモームがこんなストーリーを書いていたとは情けない。こんな話が450頁以上も続くのかと思うと、とても耐えられない。日本で中年、初老の恋というと谷崎、丹羽あたりだろうが、彼らのほうがもっとまともな展開を考えていたのではないか。これ以上読むのは今度こそやめることにする。
 
 その2。サマセット・モーム「魔術師」(ちくま文庫、1995年、30年前に買ったのだ!)は買ったままになっているが、こちらは最初から読まない。
 ぼくはモームのオカルトものは苦手である。例えば「凧」(「環境の生き物」に収録)は、いい年をした既婚の息子とその母親が凧あげに夢中になり息子の嫁に愛想をつかされるといった話だが、中年男とその母親の凧あげの心理分析(?)にまったく説得力を感じなかった。読んでいないが、同じ系統であろう「魔術師」も、ここ1、2か月のモーム熱をもってしてもおそらく読めないだろう。「モーム月間」の締めくくりとして、一応読まないということだけ記録しておこう。

       

 「オカルトもの」といえば、コリン・ウィルソンである。
 ぼくはコリン・ウィルソンにはまっていた時期があって、その頃に「オカルト」(上・下、中村保男訳、新潮社、1974年)も買ったのだが、結局通読はしなかった(上の写真)。
 ウィルソンによれば、人間には現在の自然科学によっては説明できない何らかの能力があるのだが、人はそれに気づいていない。中世の「魔術」から、近年の「テレパシー」、日常的に話題になる「未来予知」(狼が来る!、嵐が来る!)、「暗合体験」(別れた彼女に会えるような気がしたら本当にその日彼女と出会った!)、前世記憶(この場所には前世で来たことがある)などを、たんなる「偶然」「思い込み」「記憶違い」などで片づけないで、そのような潜在能力(ウィルソンは「宇宙感覚」とか「X能力」などと呼んでいた)を自覚して活用することを提案していたように思う。古い記憶で不正確なところがあるかもしれない。

 ぼくは、彼の主張のすべてに賛成するわけではないが、自分の周辺にはなにか現在の科学では説明のつかない力(?)が働いていると感じたことが何度かある。
 例えば、ぼくにお別れを言いに来たお婆さんがいる。ぼくが幼少の頃に住んでいた豪徳寺(玉電山下)の家の隣りの家にお婆さんが住んでいたのだが、そのお婆さんは、ぼくが母親に叱られて泣いていると、庭の垣根ごしに「こんなに泣いているんだから、もう許してやりな」とぼくの母親を宥めてくれたことがあった(と聞いていた)。
 わが家は引っ越してしまい、その後10年以上お婆さんと会うことはなかった。引っ越したわが家の裏庭には小さなゴミ焼却炉があったが、その焼却炉の前にそのお婆さんが立っている夢を見た。するとその数日後に、お婆さんの親族から、お婆さんが自宅近くにゴミを捨てに行って倒れて亡くなったという連絡がきた。ぼくはびっくりした。きっとそのお婆さんはぼくに別れを告げに来てくれたのだろうと今でも思っている。

 テレパシーもあると思う。「念ずれば通ず」。念じても通じないことも多い、通じないことのほうが圧倒的に多いけれど、念じることによって通じることもあるとぼくは思う。通じなかったのはぼくの念じ方が足りなかったからかもしれない。(何度か書いたが)高校生の頃に、吉祥寺の東急デパート前の通りで数メートル前を歩いている成蹊の女子高生の後ろ姿に向かってテレパシーを送ったところ、彼女が振り返ったことがあった。
 高校時代に古文の教師から、「・・・うつつにも夢にも人にあはぬなりけり」という在原業平の歌に関して、都に残してきた彼女(妻)が夢に出てこないのは彼女が私のことを思っていないからだと当時は考えられており、業平もそう考えて詠んだのだと解説を受けた。当時は「ばかばかしい、夢に出てこないのは業平のほうが彼女のことを思っていないからだ」と当然のように考えたが、業平や当時の人たちの考えが間違っていると証明することもできないだろう。 
 わが国には得体の知れない「気」が間違いなく存在しているだろう。気のせい、気の迷い、空気を読む、気脈を通じるなどなど、わが国には「気」をめぐる言葉が多くある。ということは、そのような経験をする人がたくさんいるということだろう。

 西洋人にも「X能力」はあるだろう。でも、モーム「魔術師」は読まない。

 2025年5月31日 記