豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

ある愛の詩--映画で法学入門

2006年09月04日 | 映画
 
1 法律問題や裁判を扱った映画は結構あります。以下のリストは、今から約25年前(1976年)に僕が《法学セミナー》誌に執筆したコラムの抜粋です。

                    *
 
 純粋に法廷ものといえる映画は意外と少ない。O.プレミンジャーの「或る殺人」(59年)、B.ワイルダーの「情婦」(58年、原作はA.クリスティー)、H.ボガード主演の「暗黒への転落」(56年)、ヨーロッパ物では、弁護士の資格をもつA.カイヤットの3部作「洪水の前」(55年)、陪審批判の「裁きは終わりぬ」(54年)、「我々は殺人者だった」(日本未公開)など。同監督には女子学生の偽証心理を扱った「先生」(69年)もある。H.フォンダ主演の「12人の怒れる男」(59年)は陪審劇の傑作。S.クレーマーの「ケイン号の叛乱」(54年)、J.ロージーの「銃殺」(66年)、S.キューブリックの「突撃」(58年)などは軍法会議を扱う。クレーマー監督の「ニュールンベルグ裁判」(62年)も落とせない。
 E.カザンの「影なき殺人」(47年)や、「波止場」(54年)にも法廷シーンが見られた。
 冤罪(誤判)物も枚挙に暇がない。J.スチュアート主演の「出獄」(49年)、A.ヒチコックの「ダイヤルMを廻せ!」(54年)、「間違えられた男」(57年)、悪徳弁護士が絡む「6年目の疑惑」(61年)、サッコとバンゼッティ事件を描く「死刑台のメロディー」(72年)、S.へイワード主演の「私は死にたくない」(59年)などは冤罪を訴えた死刑囚の実話。C.ルルーシュの「愛と死と」(69年)も死刑制度がテーマ。「羅生門」の翻案物に「不時着」「暴行」(ともに64年)がある。ヒチコックの「私は告白する」(54年)は神父の証言拒絶権を扱う。
  「ドーバーの青い花」(64年)にも冤罪で服役した人間が出てくる。主演のH.ミルズもかわいかった。今ごろどうしているのだろう。
 親権をテーマとしたものに、S.へイワード主演の「愛よいづこへ」(64年)、「わかれ道」(65年)。P.ジェルミがイタリアの離婚法や慣習法を皮肉った喜劇に「イタリア式離婚狂想曲」(63年)、「誘惑されて棄てられて」(65年)。
 弁護士が主人公のストーリーには、ルルーシュの「流れ者」(71年。なんと弁護士が誘拐犯という設定)、G.ペックが善意の弁護士役を演じる「アラバマ物語」(63年)、刑事コロンボのP.フォークが弁護士役で登場した「泥棒がいっぱい」(66年)がある。
 法学部(ロー・スクール)の学生が主人公のものに、R.オニール主演の「ある愛の詩」(71年)、T.ボトムズ主演の「ペーパー・チェイス」(74年)がある(後者の原作者はハーバード・ロー・スクール出身の弁護士)。C.シャブロールの「いとこ同士」(59年)はフランスの法学部生が主役。 
 * 作品名の後の年代は日本公開年(19xx年) 
 
  2 ここまでは、1976年の記事です。これらの映画のうちいくつかは現在でもビデオやDVDが販売・レンタルされているので見ることができますが、残念ながら名画座などで見るしかないものも少なくありません。その後も法廷物の映画はたくさん作られましたが、僕があまり映画を見なくなってしまったので、フォーローできません。アト・ランダムに拾ってみると、J.フォスター主演の「告発の行方」はレイプ裁判を扱い、同じく「羊たちの沈黙」は心神喪失を装う殺人犯と対決する心理分析官を扱っています。報道による名誉毀損の被害を扱ったP.ニューマン主演の「悪意の不在」、同じくP.ニューマン主演の「評決」、R.デ・ニーロ主演の「真実の瞬間(とき)」、R.ギア主演の「真実の行方」、D.ムーアが陪審員を演ずる「陪審員」、リンドバーグ事件をモデルにした「判決」などが思い浮かびます。
 家族法の分野に関しては、離婚と親権を扱った「クレイマー・クレイマー」あたりが一番“法律的”でしょうか。25年前には日本映画をまったく扱っていなかったのですが、大岡昇平の原作を映画化した「事件」や、佐木隆三原作の「復讐するは我にあり」などといった“法廷もの”も出現しました。みなさんのおじいさん世代の日本の家族をテーマにしつづけた小津安二郎の諸作品も戦後日本の家族を考えるうえで必見です(「東京物語」その他)。
 * 最近では、野田進他『シネマで法学』(有斐閣)という本も出ています。

  3 さて、ここからが「映画で法学入門」ですが、はたしてそんなことが可能でしょうか。法律学の勉強というのは、結局は各法律の条文をよく読み、教科書などでその条文の意味を理解し、そして判例集などに当たってその条文がどのような事件の解決にどのような形で使われているのかを調べることを繰り返すしかありません。しかし、それだけでは法律家になることはできても、紛争の調停者、解決者になることはできないでしょう。世の中で起きるさまざまな事件のなかには、学生時代に条文を引き、教科書を読み、講義に出るだけの生活を送ってきた人には、とても太刀打ちできないものが少なくありません。
 人生は一回しか経験することができませんが、よくできた小説や映画は人生の経験を豊かなものにしてくれるでしょう。法律学の勉強に役に立つかどうかなどというケチな根性からではなく、ぜひたくさんの映画を観たり、小説を読んだりしてほしいものです。
 今回は、家族法のテーマのなかから、“婚約破棄の正当理由”を考える素材として『卒業』を、“失踪宣告と重婚”の問題を考えさせる『ひまわり』を、そして、アメリカのロー・スクール学生の勉強ぶりを垣間見ることができる『ある愛の詩』のさわりの部分を紹介しながら、みなさんが法律的な問題を考える素材を提供し、皆さんと一緒に考えてみたいと思います。
 (中略)
 考えてほしいことは、ごくわずかです。①婚約(=将来の結婚の約束)はどのような要件をみたせば成立するのか。そして、どのような理由がある場合に、どの段階に至るまでなら解消(破談)にすることができるのか(『卒業』)。②ついで、戦場で行方不明になった夫に対して国は死亡証明を出すが、ついに見つけ出した夫は異国の地で夫は他の女性と結婚していた、この夫婦は一体どうすればいいのだろうか(『ひまわり』)。③そして、たとえ難関の司法試験を目ざすロー・スクールの学生だって恋もするし、人を愛するのだということも、当然のことだけれど確認しておきましょう(『ある愛の詩』、『ペーパー・チェイス』)。
 
  4 ついでに、当時評論家たちの間で大変に評判の悪かった『ある愛の詩』を、めずらしくほめた河野多恵子さんの文章もつけておきました(昭和46年4月2日付け読売新聞文芸時評欄を参照)。昭和46年[1971年]という日付けに、われながら歳月の流れを感じてしまいます。ようするに、人が異性を愛する最初には必ず“純愛”という要素がある、しかし日々の生活は、男が“男らしく”、女が“女らしく”ありつづけることを困難にする状況に満ち満ちている、したがって私たちが日々“純愛”を貫きとおすことは難しいけれど、しかし日々の生活の中でたとえわずかだとしても、最初に二人の間に芽生えた“純愛”がきらめく一瞬がある。そのことを考えると、河野さんは人々が酷評する『ある愛の詩』を絵空事だとは思えないというのです。僕もそう信じたいのですが、どうでしょうか。

(2006年9月1日。初出は2002年 6月 5日)

 * 写真は、。「愛するって、けっして後悔しないこと・・」のセリフで有名な「ある愛の詩」から、セントラル・パークのスケート場でのデートのシーン。
 

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